前編
あれこそ、私の王子様!その方を見かけたのは、夏を過ぎて気怠い秋の午後のことでした。
まさに運命!
「美登里(ミドリ)さん、どうかされました?」
お友だちの葵(アオイ)さんに声をかけられるまで、自分がどれだけぼーっとしていたのかわかりませんでした。
「誰かいい殿方でも?」
あまりにも私が頬を染めて一点を見つめたままぼんやりとしていたために、勘のいい葵さんはそんな想像をしたのだとおっしゃいました。
「ええ!とうとう見つけましたわ、私」
その方はあまりにも颯爽と歩いて行ってしまって、一瞬しかその姿を目に焼き付けることしかできませんでしたけれど、それだけでもう十分。
「まあ、うらやましいわ。ぜひ私にもご紹介くださいませね」
「ええ。でもまだ私の片想いですから」
「きっと素敵な方なんでしょう」
「…ええ、とっても」
翌日から、あの方の姿を求めて、つい斗南大学の周りをうろうろしてしまいましたわ。
学校帰りに一駅前に降りて、斗南大学に行くのは既に日課になってしまいそう。
* * *
「入江くんったら、また変な女を周りに憑りつかせてる」
最近大学講義の終わり頃になると大学の門前にお嬢様学校の制服を着た女子高生がうろうろしているとの噂に、これは入江くん待ちだ!とあたしの直感が働いたの。
「琴子ー、憑りつかせてるってのはどうかな」
理美の言葉にあたしはフルフルと首を振って否定した。
「いいえ、あれは入江くん待ちよ!」
「そうかもしんないけどー、入江くんが望んだわけじゃないでしょ」
一緒にのぞき込みながら言うセリフじゃないわ、じんこ。
「でもちょっとかわいい」
理美がフンフンとうなずく。
「でもちょっとバカそう」
あたしはふふんと笑った。
「あー、お金持ちっぽい」
じんこは鞄にぶら下がっているキーホルダーを見て言った。
「おまえらほど頭悪くはないだろ」
あたしたちの言葉に即座に否定をしてきた声に慌てて振り向く。
「入江くん!」
「帰るぞ」
「待って!」
あたしは入江くんの袖を引っ張った。
「今ここから帰ったら、確実にあの女の餌食よ」
嫌そうに袖を引っ張り返して「関係ないだろ」と門に向かう。
「ああ、待って〜」
あたしの追いすがりもむなしく、入江くんは堂々と大学の門を出ていく。
ああ、そんな歩き姿もス、テ、キ。
「結婚しても変わらないねぇ」
じんこは気の毒そうにあたしを見る。
一応まだ結婚一年未満の新婚のはずなんだけどな。
「外ではラブラブなところを見せつけるのはきっと嫌なのよ」
「ラブラブねぇ…」
理美とじんこが顔を見合わせる。
そんなつれない入江くんが門を出ると、待ち人顔の女子高生はすかさず駆け寄ろうと…。
「あ、転んだ」
理美がそのすッ転び方に吹き出す。
なのに入江くんはすたすたとそのまま歩き去った。もちろん女子高生と反対の方向へ。駅がそっちだからね。
「え、あれ、どうなの」
じんこは今度は女子高生に向けて気の毒そうな顔を向ける。
「…多分入江くんの視界に入ってないんじゃないかな」
理美の分析を最後まで聞かずにあたしは駆け出した。
「入江く〜ん」
* * *
やっとのことであの方にお会いできたというのに、声をかける前にあの方は行ってしまいましたわ。
それというのも肝心なところで私が転んでしまったからで。
さっと手を取って「大丈夫ですか」って助け起こしてくれると思っていましたのに。
あの方はただまっすぐ前だけを見つめて行ってしまわれたの。
「ああ、王子様…」
「お、王子…えっと、大丈夫?」
あの方の代わりに女の方が私に手を差し出してくれました。ちょっと笑いながら。
「ありがとうございます」
その手を取らせてもらって立ち上がると、前方を髪の長い女の方が駆けていきました。
「入江く〜ん、待って〜」
あの方の後を追っていったようですけれど、それでもあの方は振り向くことなく歩き続けていくので、知り合いではないのかしらと思ってしまいました。それにしてはお名前を呼んでいるようでしたし。
「入江さん、とおっしゃるのですね」
「はい?」
ちょっと大人っぽいきれいな女の方が、私を立ち上がらせた後で少し制服をはたいてくださいました。とてもお優しい。
「…あ、ああ、入江くんね」
あの方を振り向いておっしゃいました。
「でも入江くんにはもう琴子っていう奥さんがい…」
もうお一人、私に話しかけてくださいましたのに、私どうしてもあの方のお名前が知りたくて言葉をさえぎってしまいました。
「入江、何さんとおっしゃるのでしょうか」
ここでお二人が顔を見合わせて何やらご相談を…。
「入江直樹って言うのよ」
お二人はにっこりして答えてくださったので、私は大いに感謝して帰宅することにしたのでした。
ええ、このままでは制服も汚れてしまいましたし、もう少しきれいな格好で改めてお会いしたかったので。
* * *
「いいの?琴子のこと教えなくて」
「だって、人の話聞かなさそうじゃん」
じんこはしれっと答えた。
「お嬢様の思い込みって怖いわ〜。よりによって入江くんが王子様だって!」
理美が笑いながら言う。
「顔だけは王子様だけどね」
「態度は王様よね」
じんこはううん、と否定した。
「あれは魔王よ、魔王」
「爽やかとは対極にいるわよね」
「実際の性格知ってそれでもひかないのって、琴子くらいよね」
じんこはくくっと笑った。
「で、琴子にはどうする?黙っとく?」
「琴子もめげないから、がんばって追っ払うでしょ。理美だってこのままの方が面白いって思ったから名前教えたんでしょ」
「ふふふ、まあね」
理美とじんこは二人で今後を予想してふふふと笑い合った。
* * *
「入江くんってば、少しは待ってくれたっていいじゃない」
琴子が怒りながら、それでも後をついて来た。
「もう、あの女子高生といい、結婚してもちっとも入江くんの周りって落ち着かないんだから」
落ち着かない筆頭はおまえだ、琴子。
「女子高生が何だって?」
「ひどい、入江くん。女子高生に反応するなんて。やっぱり若い方がいいのね」
そうやって勝手に解釈する琴子の中で、俺と結婚したという事実はどうなってるんだ。
「ひーどーいー」
口をとがらせて文句を言うが、女子高生がどこにいたのか。
思ったより閑散としている駅の改札を抜けても、琴子の声だけが響く。
「うるさい」
俺の言葉をものともせず、琴子は「ここはびしっと妻として言うべきよね」とこぶしを握っている。
びしっと何を言うのか知らないが、せっかく早く帰ることができるのだから、いろいろやりたいこともある。
「とりあえず妻としてやることやってからな」
「へ?」
振り向いた琴子に軽くキスをすると、一度で黙った。
「えっと、あの…や、やだ、入江くんったらこんなところで」
単純だな、琴子は。
これでしばらくは黙るだろう。
* * *
お名前が判明し、情報収集したところによると、あの方は斗南の至宝、天才と呼ばれるような素晴らしいお方だとわかり、容姿といい、頭脳といい、本当に王子様のような方でした。
「美登里さん、でも私、黒い噂もお聞きしましたの」
「黒い噂とは?」
「…ええ、美登里さんが見初めた方のことを悪く言うつもりはないのです。どうか誤解なさらないでくださいましね」
「もちろんですわ、葵さん」
そう言うと、葵さんは少々躊躇いながら話してくださいました。
「ええ、その…複数の女の方と付き合ってるとか、実はもう結婚して子どももいるだとか、女に貢がせてるとか、性格は反社会的勢力の方のようだとか」
「…まさか、そんな」
「あ、でも、もう一つ素晴らしい噂もありましてよ」
「この際どんな噂でも」
「お父さまは大会社の社長で、家は世田谷で、あ、でも美登里さんの家ほどではないかと」
「あんな王子様のような方ですもの。皆さんがねたんでいろいろ噂されるのはわかる気がしますわ」
「今度はきちんとした調査会社を通してお調べになった方がよいと思いますわ」
「ええ、そうしますわ。それより、葵さまこそ西垣さまと見合い話があったのでは?」
葵さんは少しだけ頬を染めて恥ずかしそうに答えた。
「…まあ、美登里さんったら、医師になられたばかりとはいえ、私より十も上で、今はまだちょっと」
「そうですわよね、少しおじさんすぎますわね。でもいずれはそういう殿方とお見合いをさせられるのでしょうから、今のうちは好きな方とお付き合いできたらと夢見ますわよね」
「ええ。それに西垣さまはちょっと軽薄なところがおありになるから、私はちょっと…。お年を召していても誠実な方がよろしいわ」
私は父のパーティで会った西垣さまを思い出した。
眼鏡をかけた優しそうな印象ではあるけれど、それがそのままその方の本性だとは思ってはいない。そういう方ばかりがいる腹黒い世界を見てきたせいですわね。
「そう考えたら、入江さまなんて、ちょとくらい黒い噂があっても」
葵さまはそうおっしゃってくださったけれど、やはりここはちゃんと調査を入れるべきかしら。
ああ、私、こんなに黒くて、あの方にふさわしいのかしら。
ついため息が出てしまうのでした。
* * *
「琴子、今日も待ってるわよぉ」
じんこの言葉に大学の門に一番近い校舎からそっと見ると、門の外にやはり例の女子高生が立っていた。
「なんたって入江くんは王子様らしいから」
ぷっと吹き出して理美が言った。
失礼ね。入江くんは見た目だけなら十分王子様よ。…ちょっと口が悪いけど。
あたしだって最初の頃は王子様がいるー!って思ったもの。
ちょっと誤算だったのは、その王子様がものすごく意地悪だった、てところだけど。
それでもあれで優しい所もあるのよ。
あ、もちろんそんなところは、他の人は知らなくてもいいんだけど。
「どうせ入江くんは実験で遅くなるから、今から待ってたって無駄になるわよ」
そう言ったそばから…。
「あ、入江くんだ」
な、何ですって?
あたしは慌ててじんこを押しのけて見た。
入江くんがあの女の毒牙にかかってしまう!
見た目は清純そうな女子高生だって、入江くんを目の前にしたらとんでもない雌豚に陥るのよ!
「…琴子、どちらかというと入江くんの方がもっとひどいから大丈夫じゃ…」
「そうそう、誰だ、おまえくらい言いそうよね。って、聞いてないか」
理美とじんこの話も耳に入らないまま、あたしは慌てて入江くんと女子高生の間に割って入った。
女子高生は少し戸惑いつつも、視線は入江くんの方に。
入江くんはというと、突然立ちはだかったあたしを怪訝そうな目で見ている。
「入江くん、危ない!」
「…どちらかというとおまえが邪魔で危ない」
「どなたですか、この方」
三者三様に見合って、動けない。
「入江直樹様、お慕い申し上げております」
突然女子高生がそう言った。
入江くんはあたしを見て「それで?」と言った。
いや、言ったのはあたしじゃなくて、そこの女子高生なんだけど。
「こいつの許可取らないと口も聞いちゃいけないらしいから」
入江くんがあの意地悪そうな顔で笑っておかしそうにそう言った。
「ですからどなたでしょうか」
「あ、あたしは、入江くんの妻よ!」
「自称、妻の方ですか」
「失礼ね、正真正銘入江くんの妻です」
そう言って立ちはだかったあたしの後ろを「俺、急ぐから後よろしく」と歩いていこうとする入江くん。
「ちょっと、入江くん!」
少しくらい自分の口で肯定していってよー!
まるであたしが自称みたいじゃない!
女子高生に改めて向き直ると、女子高生はまじまじとあたしを見て言った。
「あの、自称、妻さん」
「だから自称じゃなくて、本物の、入籍を済ませた妻です。入江琴子というちゃんとした名前が」
「え。あの方が、既婚者?妹さんとかではなく、ちょっとお馬鹿そうな方が妻?」
今はっきりおバカそうって言ったわね。
そりゃ入江くんと比べたらバカだけど!
あなたも結構おバカそうに見えるわよ。
「だいたいリサーチ不足なんじゃなくて?この辺りじゃ入江くんがあたしと結婚したって大騒ぎだったのに」
そう言うと「そうですわね。やはり葵さんのおっしゃる通り調査会社を入れるべきでしたわ」とつぶやいた。
こっわ!この子、こっわ!本気で調査会社入れるとか、お嬢様って怖い。
「あなたこそ名乗りなさいよ。人の名前聞いておいてそのままだなんて、ずるいわよ」
「私が名乗ってくださいとお頼みしたわけではありませんから」
「それでも、夫を誘惑する女を見咎めた妻が要求するんだからその素性くらい明かしてもいいんじゃなくて?不倫となったら慰謝料だってもらえるのよ」
つい先日見ていたドラマでこういうセリフがあったのよね。役に立ったわ。
「不倫にはなりませんわ」
「そりゃ入江くんがあなたみたいな女子高生を相手にするわけないから」
「いえ。そうなったら、あの方はきちんと妻と別れてから改めて交際を申し込まれるはずですから」
女子高生の微笑みに、あたしは開いた口が塞がらない。
この女子高生、話通じない。
それともあたしがおかしいの?
いえ、めげちゃダメよ、琴子。
「入江くんは、そういう積極的に迫ってくる女が苦手なのよ」
ぶっと門の陰から声がした。
ちらっと見ると、理美とじんこがお腹を抱えて笑っている。
ちょっと、そこ笑うところじゃない。
「わかりました。とりあえずもう一度きちんと調べてから対処いたしますわね。私の調査不足でしたことは謝りますわ」
そう言って女子高生はようやく立ち去っていった。
なんだろう、この敗北感。
* * *
「ちょっと、聞いた?あのセリフ」
「ぶっふふふっ、積極的に迫る女って琴子が一番だったわよね」
「だってそれに押されて入江くん結婚する気になったんだしね」
琴子は二人の言葉を聞いて顔を赤くして言った。
「それは入江くんがそう言ってたけど、実はもっと前からあたしのこと…」
琴子の言葉にじんこと理美はさらに笑った。
「だとしても、誰も信じてないから辛い所よねー」
「も、もう、二人ならわかってくれると思ったのに」
琴子がすねた。
「わかってるわよぉ。一番辛かったのは琴子だし、やっと入江くんとくっついて、良かったって思ったのはあたしたちだって同じだよ」
じんこがそう慰めると、琴子は拳を握って言った。
「それなのに、あの女子高生ときたら…。お義母さんと相談してぎっちぎちにやっつけてやるんだから!」
他力本願な言葉を吐いた琴子は、そのまま怒りながら帰っていった。
理美とじんこは顔を見合わせて「でもあの女子高生なかなかめげないわね」「ホント」と言い合ったところに、その原因となる男が戻ってきた。
「あれ、入江くん。今琴子が帰っていったのに」
「うん、あの女子高生とやり合って、妻なのになんか迫力負けしちゃって」
そう言うと、何でもないといった顔をして琴子の夫は言った。
「ふうん。興味ない」
「え、だって、入江くんのことでしょ」
理美の言葉にも動じずにしれっと言った。
「女子高生の問題だろ」
「琴子がかわいそうでしょ」
じんこが言ってもそのポーカーフェースは崩さずに言い放った。
「琴子が俺の妻なのは間違いないし、俺が訂正することなんてないだろ」
そのまままた校舎に戻っていく後姿を見ながら、理美とじんこはつぶやいた。
「何、あの自信満々」
「そりゃ間違いないけどね。間違いないけど、なんか腹が立つ〜」
「ちょっとは困ればいいのに」
「そうよ、困ればいいのよ」
二人は顔を寄せて何事か話し合ったのだった。
* * *
「あら、まあ、そうなの〜」
琴子ちゃんから聞いた話は、そろそろ刺激が欲しい頃と思っていたので、好都合だわ。
「そうね、琴子ちゃん、その女子高生のことは一緒に考えましょ」
「はい、お義母さん」
は〜、いいわぁ、お義母さんって響き。
いつの間にか直樹なんておふくろ、なんて。昔はあんな子じゃなかったのに。
せめて母さん、とか。
裕樹も見習ってしまうのかしらね。なんでも直樹の真似をするから。
そりゃ男の子は他の子の手前かっこつける子が多いけど。私の知り合いの息子さんは皆の前じゃおふくろ、らしいのに、家族の前では母さんって、ちゃんと呼んでくれるって。
ま、それはともかく、その女子高生っていうのはお嬢様学校だっていう話だけど、名前がわからないんじゃ捜すのも大変ね。
ここは一つ私が一肌脱いで…。
「それじゃあ、琴子ちゃん、夕食を手伝ってくれる?」
「はい、お義母さん」
は〜〜〜、いいわ。素直なお嫁さん。
もう、こんなかわいい琴子ちゃんを悩ませるなんて、うちの息子ときたら…。
何であんな無愛想で毒舌な男がいいのかしらね。顔なんてそのうち禿げあがってしわくちゃのじじいに誰でもなるのよ。もっと言うと、直樹なんて両方の祖父の血をひいて禿げあがること間違いなしなのに。
うちの琴子ちゃんったら、天使だわ、天使。
パパなんて頭が薄くなろうが、その優しさも全く薄まらないいい人なのに。
相手が琴子ちゃんで、ほんっとうに良かったわ〜。
禿げあがる前に上手く惚れてもらえて良かったわね、直樹。
(2018/10/25)
To be continued.
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