全部、黒い



後編

父の仕事関係で招待されたそのパーティは、表向き玩具会社パンダイの新作発表なため、そのCMに関わる俳優も来ていたし、マスコミも来ていたし、なかなかの規模。
父が私を連れてきたわけは、あれです。お見合い相手物色。
わかってはいましたけど、全く顔も見ない相手よりは、ここでどんな方とお会いすることになるのかあらかじめ心づもりをしておいた方がよいと判断し、一応父のパートナー代わりに出席することにしたのでした。
案の定、澤野井製薬も招待されており(理由は私たち子どもには知らされておりませんが、おそらく開発の面で提携することがあるのでしょう)、その幹部の子どもである美登里さんも招待されているのがわかりました。
会場でばったり会いましたから。
お互いお断りしたくてもなかなかできない立場であることにため息をついたくらいです。
それはそうと、その肝心なパンダイの社長は、薄い頭に福顔の気のいいおじさん風で、美登里さんが王子様と称する方の親かと思うと、美登里さんの趣味がますます気になるところです。
でも美登里さんは面食いだったかしら。その辺は今一つ語り合ったことがなかったので不明ですけど、今までかっこいいと思う男の方の好みは決して私と外れてはいなかったので、顔の美醜について言えばそれほど悪趣味でもないはずです。
「あ、いらっしゃったわ!」
どうやら愛しの王子様とやらを見つけたようで、声が弾む美登里さんに連れられて、私はその方のお顔を間近で拝見することができました。
「え…」
今日呼ばれた俳優の誰よりもかっこいいと思いました。
「…美登里さん、あなた、相当な面食いだったのねぇ」
思わずため息が出てしまいます。
でもこんな方がいつも隣にいたら、大変そうで。
そして、王子様とやらばかり見ていて気づくのが遅れたのですが、エスコートしている女性がいたのです。
「あの方はもしや」
「…ええ、奥さんだと思いますわ」
かわいらしい方というのはわかりますけど、美人とは言えない感じですわね。十人並?
美登里さん憧れの王子様と比べるからいけないのであって、単体で見ればそれほど悪くもない。性格も素直そう。私たちよりもずっと。
「ねえ、美登里さん。確かにかなりかっこいい方ですけど、既婚者は…」
さり気なく転んだりしないようにエスコートしてるのがわかるくらいには、奥さんのことを大事にしているように見えますわね。
しかも学生結婚ということは、何かものすごく事情があったのでしょうし。
「あら、かっこいいのは王子様として当然のことよ。さりげなく助けることができるようなスマートな人にかっこ悪い人がいるわけないですもの」
…そうねぇ、そうかもしれない
「離婚されるのを待っていたら、美登里さんがお年頃を過ぎてしまわないかしら」
「あら、それほど長くはかからないと思いますわ」
そんなことを言うので、私としてはあまり夢見るものではありませんわとご忠告申し上げるべきかと悩んでしまいました。
と、そこへ司会からのアナウンスが。
先ほど、新製品の発表会は済んだはず。
「それでは、ここで初めての結婚記念日を迎えられる入江直樹さんご夫妻に一言いただきましょう」
わああと会場は拍手と歓声に包まれましたが、肝心のお二人の姿はいつになっても現れません。
いえ、確かそこに、と振り返ってみたのですけど、既にそこにはおりませんでした。
「ねえ、美登里さん」
と声をかけてみたものの、横にいたはずの美登里さんの姿もなぜか見えず。
あら、どこへいらしたのでしょう。
私は皆がざわめく中、例の入江夫妻の姿、もしくは美登里さんの姿を捜して会場内を歩いて行ったのでした。

 * * *

パンダイのパーティと聞き、父にお願いして連れてきてもらったのですけれど、来るかどうかわからない王子様の姿を見掛けたときは、これぞ運命だと私は神様に祝福を受けた気分でした。
父があちこちにあいさつをしたいと連れまわす中、会場中を歩き回り、ようやく王子様を見つけ、早速ご挨拶をしようとしたとき、葵さんにお会いしたのです。
声をかける前に王子様しか目に入っておりませんでしたけど、葵さんの言葉によく見ると、現在の妻である女性が隣にいらっしゃるのがわかりました。
気になって見ていると、そのうちその妻を伴ってどこかへ行く様子。
私、どうしてもご挨拶申し上げたくて、王子様の後をついていきました。
私が後を追いかけているというのに、チラリとも後ろを見ないでどんどん歩いていく二人。そんなに急ぐ用事がありまして?
私は首を傾げながらも追いかけていくと、奥の部屋、控室でしょうか、そちらに入っていく二人が見えました。
ああ、気になりますわ。
閉まった扉の向こうが気になって、いつになったら出てくるのか、ノックしてもいいのか悩んで扉の真ん前にいますと…。
中からガタンと激しい音が。
驚いて、もしや何かもめ事でも?と扉前でうろうろしてしまいました。

『離婚?』
『ああ、見ただろ。あの女性だよ』
『ひどい、女子高生に乗り換えるなんて』
『そんな次元で話はしていないつもりだ』
『もう、元には戻らないのね。私、潔く身を引きます』

…なんて。
少し想像が過ぎますかしら。
頭を振って少し気分転換でもしようかと思った時、今度は何か『いや』という声と唸り声が。
まさか暴力でも?
いえ、でも、まさかあの王子様が。
しばらくすると、今度はすすり泣くような声。
ああ、もしや、やはり、離婚話が進んで…。

『でもやはり離婚するのは、いや』
『わかってくれないか』
『ああ、これも私が至らないせいなのね』

などと別れ話が繰り広げられているとか?
でもこの扉、少し薄すぎやしません?仮にもロイヤルホテルですのに。
それとも、ここはただの控室で客室ではないからかもしれませんわね。
そのとき、廊下の向こうから急いだ足音が聞こえてきたのです。
「美登里さん」
「葵さん、私、どうしようかと思っておりましたの」
「こちらは?」
「お二人が入って行かれたようなので、お話をしたいと思い、待っていたのですけれど、どうやら中で別れ話の修羅場になっているようで」
「…別れ話の修羅場」
美登里さんは「ちょっと失礼」と断り、扉に耳をつけました。
私と目が合うと、「あら、はしたなくてごめんなさい。でも、このまま踏み込んでいいタイミングかどうかは知る必要が」とおっしゃったので、私もうなずいて同じように耳をつけてみたのです。
ああ、こんな場面を誰かに見られたら、私たち、何てはしたないと思われることか。
いえ、でもこれも必要なこと。

 * * *

『なんで今なの』
『昨日はあのまま寝たから』
『でも、お料理まだ半分しか食べてないのに』
『…後で運ばせる』
『でも、でも、入江くう…んっ…』

修羅場?
話し合いの?
私たちは二人で顔を見合わせた。

『ああ、ひどい』

ガタンと音がたち、二人してびくりと体を震わせるはめに。
ひどいんだ。
私たちは変わらず息をひそめておりました。

『おまえだってもう我慢できないだろ』
『そんな…意地悪』

離婚が?
少し、不穏なものを感じました。

『やぁ、そんな』

思わずごくりと息をのみました。
離婚話にしては、やけに生々しく…。

『ああん、もう許して』

何だか…。
思わず美登里さんを見ました。
美登里さんは不思議そうな顔でこちらを見ています。

『い、りえ…く…ん』

私は突然悟りました。
これは修羅場は修羅場でも、痴話げんかの類だと。
これ以上聞いていてはまずい、とそう思いました。
ところが、相変わらず目のくらんだ美登里さんは続きを聞く気満々です。
このままではただの痴女です。
私、そんな汚名を着るのはまっぴらごめんですわ。
美登里さんの腕を引っ張り、扉から少し離れさせることに何とか成功しました。
「何を…?葵さん」
「落ち着いて聞いてちょうだい、美登里さん」
「…はい?」
「言いにくいことを申し上げますが…」
「はい」
「あれは」
「あれは?」
「…離婚どころか、いたしている最中だと思いますわ」
「…いたしている…」
ああ、こういう時、美登里さんの天然ぶりがもどかしい。
それとも、もしかしてそういう男女の営みについての知識は深くないと?
全く知らない箱入り娘であったとか?
まさか、そんな。
私たち、女子高ではありますけど、数多ある女子高の中でも頭の出来は少々残念な方の部類に入りますし、いくらお嬢様ぶっても、年頃になってそういう類の話の一つや二つ耳にすることもございましょう。
あまり話には加わりませんけど、むしろそう言う話ばかりでは?
ましてや、そういう夢のような展開の小説には必ずありがちな展開ではなくて?
今どきの少女漫画ですらそういう描写はありがちだと思うのですけど。
しばらく沈黙の後、多分言われたことを認めたくなかったのだろう美登里さんが、目を見開きました。
「…一応あのお二人は夫婦ですから、いたすのは構いませんが、こんなところで始めるとは思いませんでしたわね」
だって、控室ですもの。ベッドが用意しているわけではありませんし。
そりゃベッドがなくてはできないものではありませんけど。むしろその手の話にはベッド以外の方が多い気がしますし。
全く、なんて小説だか漫画だか。
私はため息をついた。
「美登里さん?」
美登里さんは唇を震わせ青ざめています。
刺激が強かったかしら。それとも、不潔とかなんとか思うタイプでしたでしょうか。それとも、まだお花畑展開を夢見る夢子さんでいらっしゃるとか?
「…私、わかりましたわ」
「何を?」
美登里さんはきっぱりとおっしゃいました。
「あれは、あの女の策略にはまったのです」
…夢見る夢子バージョンでしたか。
私、これ以上どうやって説得したらいいのでしょうか。

 * * *

「うわ、いる」
じんこの声に理美も足が止まった。
「あの二人って、例のお嬢様と…あとは友だち?」
理美が廊下の先をうかがうようにして言った。
「もしかして入江くんと琴子の後を追いかけてってところかな」
「どうする?聞いてみる?」
「入江のおばさんに連れ戻してきてって言われちゃったしね」
じんこが意を決したかのように廊下の先にいるお嬢様二人組に声をかけることに。
「あの、ちょっとお尋ねしますけど」
お嬢様二人はこちらを見ると誰?という顔をした。
「入江くんと琴子…じゃわかんないか」
すると、例のお嬢様じゃない方がうなずいた。
「ええ、わかりますわ。パンダイの御子息とその奥様のことですわね」
「ああ、そう。その二人、もしかして見かけた?」
「…ええ、お見かけいたしましたわ」
歯切れの悪い返事にじんこは理美を見た。
「えーと、もしかして、お取込み中…とか」
じんこの言葉に友だちのお嬢様の方がうなずく。
「そっか。で、二人はあそこの控室の中なんだ」
理美はにやりと笑ってじんこにささやく。
「ねえ、これ、この二人、やり取りを聞いちゃったっぽい?」
「そうかもね。女子高お嬢様には刺激が強かったのかも」
その言葉が聞こえたのか、友だちのお嬢様がずいっとじんこと理美に近寄った。
「…あの、その、不躾ではありますけど、あのお二人は、離婚寸前とかではないですよね」
「え?琴子と入江くんが?」
理美がじんこの顔を見て噴き出す。
「ないない、ないよねー」
じんこが笑う。
「だって、入江くんって、あれで独占欲強いしさ、今頃琴子足腰立たなくなっちゃってんじゃないのぉ。そりゃ、どう見ても入江くんに言い寄ってるの琴子の方としか見えないけどさ、入江くんの方からプロポーズしてるんだから」
「まあ、そうなんですの」
友だちのお嬢様は驚いたように口元に手を当てる。
そして、声を潜めて言うには。
「…あの、お友だちの美登里さんなんですけど」
「え、なに、あの入江くんを王子様とか言ってる子?」
「まだ諦められないらしくって…その…」
「あー、琴子が離婚渋ってるとかなんとかいいように解釈してるってわけ?」
「琴子も苦労するわねぇ、あんなにもてる旦那と結婚したばっかりに」
じんこと理美がうんうんとうなずく。
よくあることなので、さほど驚きはない。
「簡単な解決法はただ一つ」
じんこがびしっと人差し指を立てる。
「入江くんに直接お断りさせる」
「それを素直にやるかしらね、入江くんが」
理美が二人が入っていったという控室の扉を見た。
「やらせるのよ。だって、あたしたちにまで面倒かけてるのよ。面白いけど面倒じゃない」
「そうですわよね」
友だちのお嬢様がため息をついて言った。
「それに」
じんこがにんまりと笑った。
「お友だちには悪いけど、あのお嬢様がどう出るかちょっと気になるわ〜」
「そろそろ第一ラウンドくらい終わってない?」
いつの間にか扉に耳を澄ませていた理美がそう言った。
「あー、じゃあ、ちょっとノックしてみよっか」
「大丈夫かしら」
心配そうに友だちのお嬢様が言う。
「入江のおばさんのせいにしておけば大丈夫でしょ。第二ラウンド始まる前に」
せーの、と意を決してじんこと理美で扉をノックすると、しばらくしてからようやく扉が開く。開けたのはもちろん…。
「…何」
「おばさんがそろそろ戻りなさいって」
「ああ、そう」
気だるげに、そして少しだけ乱れた髪をかき上げ、ネクタイも外した姿は、どう見ても事後の気配だ。
「ところで、琴子は?」
部屋の奥は見せまいとする入江直樹の向こうをのぞこうとじんこが背伸びをしてみたが、もちろん簡単に見せることはない抜かりのない男である。
「いるけど、何」
「…動けるの?」
理美が眉をひそめてみた。
「動けなくなるほどのことはしてないはずだけど」
この男は…と理美はしれっと答える目の前の色気満載の男を見た。
理美にも恋人がいるとはいえ、ちょっとぐらっと来るくらいにはかなりの色気に当てられる。
こんな風情で琴子と離婚?ありえない、と。
何だかんだと言ったって、実はこの男の方が琴子を手放さないんじゃないのと理美はにらみつける。
「…そこにいるんだけど」
後ろのお嬢様を顎で示す。
「…ああ、で?」
「で、じゃないわよ。いい加減自分で追っ払いなさいよ」
思わず声を荒げて言うと、入江直樹はふーんとあまり興味なさそうにお嬢様の方を見た。
それから扉をほんの少しだけ開けたまま(多分わざとだ)、琴子に声をかけに行く。
「…琴子、起きろよ」
理美は目をむいた。何このわざとらしいまでの甘い声。
それとも二人のとき、もしくはいたした後の声はこんなにも甘い声を出すのだろうか、この男は。
百歩譲って後ろにいるお嬢様への見せつけのためかもしれないが、その声音にぎょっとしたのは理美だけではなく、隣にいたじんこも同じだ。
後ろの友だちお嬢様も驚いたように立ちすくんでいる。
例のお嬢様にいたっては、どんな反応なのか、振り向いて確かめたいのを堪えた。
「入江くん…、ひどい…」
何やら寝ぼけたような声の後、ガタンと音がする。
いったいどこでいたしていたのだ、この夫婦は。
「おふくろが戻ってこいだとさ」
「うう…ん、わかった…」
そう言う声はするものの、一向に琴子は出てこない。
じんこは「あれ、無理じゃない?」とささやく。
理美は黙ってうなずき、さてこの状態をあの色男はどうするのかと思っていると。
「…行くぞ」
あら、置いていくつもりかしら、と理美が扉の向こうをのぞき見しようとしたその時、いきなり扉は大きく開いた。
「うわっ」
理美はのけぞり、じんことともに後ずさりした。
部屋の中からは、少し髪の乱れた琴子を支えるようにして入江直樹が出てきた。
「…大丈夫なの?」
琴子は途端に顔を赤くして「だ、大丈夫」と慌てて答えた。
…どこが。
理美とじんこはしれっとしている入江直樹に目線を向けた。
「せめて髪直そっか」
理美はため息をついて言った。
多分パーティの初めにはきれいに結ってあったであろう髪が一筋二筋落ちてきている。むしろ中でしていたであろうことを考えると、これくらいで済んだのが驚きなくらいだ。
「…入江くん、パーティなんだからさ、少し考えようよ」
理美は琴子の髪を直してやろうと近づいたが、その首筋に付いた跡にぎょっとして手が止まった。
この二人が夫婦であることは十分知っているが、こうまであからさまに跡を見せつけられたことはなかった。いや、実際にはあったのかもしれないが、少なくとも今までは目立たなかったというべきか。
今までずっとそばにいて見守ってきたが、どちらかと言うと琴子の押せ押せ状態で、いびつな夫婦だという感覚があった。いや、今でもあまり印象は変わらない。
それなのに、ようやく気が付いた。
意外にラブラブなんじゃないの、と。
もしかしたら、今までストイックな面を隠していただけで、自分に惚れている女である琴子に対しては何をしてもいいというだけのことなのかもしれないが。
いや、でも、何だかんだと琴子のピンチには結局さりげなく助けているではないか。
どうなの、この夫婦、と理美とじんこは無言で会話するように視線を交わした。
見たことがないわけではなかったが、琴子が?しかもつけたのあの入江直樹とか?
などと考えているうちに、琴子と入江直樹は廊下を歩いていく。
少しずつ歩けるようにはなっているが、このままパーティに出るにはちょっとストップをかけたい。あからさますぎて琴子が気の毒だ。
「ちょおっと無理なんじゃないかな」
じんこが言うと、入江直樹がこちらを向いた。
「上に部屋を取ってあるから、琴子はそちらで休ませる」
すると、しばし固まっていたお嬢様二人が動いた。
「直樹さん」
「…誰」
例のお嬢様が突撃したが、さすが入江直樹。琴子の時のように容赦がない。
「先日お会いした…」
「…ああ、妻の具合が悪いので、失礼」
ぴしゃりと言って、後は振り向きもせず歩いていく。
「でも、あの…」
おっと、まだ粘るか、お嬢様。
理美とじんこ、それにもう一人の友だちお嬢様もちょっと心配そうに見守ってはいるが、あの状態の入江直樹に近づかない方が、との忠告をするべきかと理美とじんこは迷った。
琴子を連れたまま、エレベータに乗り込む前に、入江直樹は琴子を抱き上げた。
決してロマンチックな抱っこではなく、どちらかと言うと荷物運びのようだったが、琴子はちょっと安心したように入江直樹に身体を預けて目を閉じた。
エレベータの扉が閉まる前にお嬢様の足が止まった。
そりゃそうだろうと納得するほど身震いするくらい冷たい視線をお嬢様に向けていたのだから。
「…ああ、まあ、あれも愛よね」
じんこがうなずく。
「こわぁい…」
理美が腕をさする。
お嬢様は動かない。
「会場に戻ろっか。おばさんに報告しないと」
「そうね。びっくりしたぁ」
動かないお嬢様は心配だったが、とりあえず役目は果たしたとばかりにじんこと理美はその場を後にしたのだった。

 * * *

いたしているの意味を頭が理解する前に、妻の友だちと思われるお二人がやってきたのです。
お二人があれこれ考えた末に控室らしき部屋の扉をノックしますと、王子様が顔を出しました。なんでしょう、今までにない感じです。
そして、妻を伴って部屋を出ていらしたので、ご挨拶することにしましたの。
「直樹さん」
ああ、早くお名前を呼び合う仲になりたいものです。
それなのに、まだ私のことを覚えていらっしゃらないのか、王子様は「誰」とのお言葉。
そう言えば私、まだ正式に名乗ったことありませんでした。
「先日お会いした…」
今こそ名前を名乗ろうとしたのです。
ところが、王子様は私の言葉を遮るようにしておっしゃいました。
妻の具合が悪いので、と。
なんてお優しい。
いくらいつか捨て去る予定の妻とはいえ、お身体を労わるのはさすが王子様です。
確かに足元もふらふらとして、妻の具合は悪そうです。
パーティでお疲れになったのでしょうか。これしきの事で少々情けないと思いますわ。
目もくれずに廊下を歩いてエレベータへ向かってしまわれるので、せめてもう一言だけでも、と声をかけたところ、エレベータに乗り込む前に妻を持ち上げてしまいました。ええ、あれは抱き上げると言うよりも、持ち上げる、ですわね。
その仕草にちょっと安心しながら王子様の行方を知ろうとエレベータに近づいた瞬間、王子様のお言葉とは思えない言葉を聞いたのです。
ええ、空耳かと思いましたわ。

気が付くと、心配そうに見つめる葵さんだけがそばにおりました。
「あのお二人のことはもう諦めになったら」
あの妻は、偽りの妻ではなくて?
「ちょっとはしたないお話ですけど、お二人はあんな控室でいたしてしまうくらい正真正銘の夫婦でいらっしゃるようですし」
控室で、いったい何が行われたと?
「まあ、おわかりにならなかった?どう見てもあの奥様、その…」
抱え上げた時に見えた、首筋に見えていたあれ?
あの方がおっしゃった言葉は真実だと?
「それに、こう申しては何ですけど、あの方は、王子様、というよりは、その…」
はっきりとおっしゃらない葵さんは、私の顔を困ったように見てため息をつきました。
「…私が諦めた方がいいとおっしゃるんですね」
ちょっと驚いたように葵さんが私を見ました。
「ええ、そう思いますわ。それに私、友人として既婚者を待つような美登里さんになってほしくないんですの。世の中には、きっともっとあんなところで見せびらかすようにいたす人ではない素晴らしい方がいらっしゃると思いますわ」
葵さんは力を込めてそうおっしゃったので、私は少し力が抜けてしまいました。
「さあ、私たちも会場に戻りましょう。そうでないとお互いの小うるさい父親が血眼になって探してますわ」
「…そうですわね、そうしましょう」
私と葵さんが二人で会場に戻ったとき、会場の中はまだまだ熱気で人々が騒いでおりました。
どうやら主役が抜け出してしまったため、主役抜きの場を収めるために何やら映像を流しておりました。
そこには、なんと幼少時のかわいらしい…。
「…あれ、先ほどの方ですわよね」
葵さんは笑いをこらえながらおっしゃいました。
「そのようですわね」
私も思わぬ映像に目が釘付けです。
ええ、そこには、かの王子様のお姫様だった姿が映し出されておりました。
「そういう趣味の方なんでしょうか」
「…さあ、私にはわかりかねますけれど」
ええ、幼少時は美少女だったなんて、詐欺ですわ。
もしかして葵さんのおっしゃるそういう趣味の方なのでしょうか。
「もしかして今でもそういう趣味があったり?」
葵さんが私を気遣うように見ています。
王子様というのは仮の姿だったのですね…。
私は少し失望して何かの気付けの飲み物をと手を伸ばしたところ、どなたかと同時に手を出したらしく、手が触れて飲み物を倒しそうになってしまいました。
「…あ…」
倒れてしまう、と思った瞬間、手を取られて濡れないように引き寄せられると同時に飲み物のグラスもしっかりと保持した方が。
「…ああ、お嬢さんに申し訳ないことを。失礼、他意はありませんので。飲み物はかかりませんでしたか」
「…え、ええ」
そのスマートな動作に、私はものすごく惹かれたのでした。
「それはよかった。では、失礼」
そう言って去って行かれた後ろ姿に私は思わず頬が熱くなりました。
あれこそ、そうよ。
「…王子様」
ぶっ、と珍しく葵さんが飲み物を噴き出す音が聞こえましたけれど、そんなことはどうでもいいくらい私は先ほどの方に夢中になっていたのでした。

 * * *

「ね、ねえ、もうちょっと、こう、荷物みたいじゃなくて…」
肩の上で琴子が残念そうに言う。
先ほどまでいい具合に力も抜けていたというのに。
どうやら移動する間に少しずつ覚醒したらしく、辺りを見回す余裕さえ出てきたようだ。
「お義母さん、待ってるんじゃないかな」
もぞもぞと動くので、取ってあった部屋の前に着いたところで下ろすと、そのまま足腰も崩れて座り込んだ。
「行って来いよ。歩けるならな」
琴子は顔を赤くさせて唸っている。鍵を開けると自分で必死に立ち上がったが、どう見てもそのままひとりで会場まで戻れる体勢ではない。
「もう、せっかくおしゃれもしたのに」
「会場の食事を食べるばっかりだったろ」
「だって、おいしそうだったし、お腹空いてたし。まだデザート食べてなかったのに」
まだいろいろ文句をつけそうだったが、どちらにしても歩けないのに会場に戻る選択肢はない。
それに、会場に戻るよりずっと有意義な夫婦の過ごし方がある。
「そう言えば、エレベータに乗る前に誰かいたよね」
琴子の言葉に「ああ、いたな」と返事をする。
琴子は持ち上げられて顔を見ていない上に、エレベータに乗るまではあまり周囲の状況を把握できるような状態じゃなかったらしい。
控室の外で聞いているのを知ったうえで喘がせた。
高校生には少し刺激が強かったかもしれないが、それでも平然と話しかけてくるその無知ぶりと図々しさに辟易した。
琴子とどこが違うと言われれば、もうあばたもえくぼで比べようがない。
部屋に入ったところで琴子はまたもやへたり込む。
「…入江くん、もう歩けない…」
こういう状況では遠慮なく甘えてくる。
原因が俺だからだ。
多分本当は恥ずかしいのであくまで自分で歩こうと思っているのだが、体が思うように動かないのだろう。
体力と根性はあるはずだったんだが、慣れないことに体力と気力の使い方が追い付かないらしい。
そういう俺もその加減がまだわからない。
琴子との付き合いも本当の意味で言えばまだ一年程度。
「まだこれからだ」
「へ?」
琴子を抱き上げてベッドに下ろす。
「俺はまだ満足してない」
そう言うと、琴子は「あ…」と声を出して再び顔を赤らめた。
自分だけ喘がされたのを思い出したのだろう。
それでも俺の顔を見ながら真面目に言った。
「あの、あの、入江くん、これからもよろしくね」
「ああ」
長い付き合いになるだろうから、心配いらねえよ。

『琴子以外いらないんだよ』

−Fin−(2018/12/10)







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