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かつてあれほど響いていた懐かしい声が聞こえなくなってはや一週間。
病棟はかなりの静けさと落ち着き。
確かに何年か前まではこんな感じだったよな。
いや、これが普通なんだよ。
活気はあっても落ち着いたナースステーション。
怒鳴り声のしない日々。
でも、なーんか物足りないと思ってしまう。
それは僕だけではないようで。
「なんだかちょっとだけ気が抜けるわねぇ」
桔梗君なんてそんなこと言ってるけど、一番迷惑かけられてしりぬぐいさせられたのなんて君だからね?
清水主任なんて、がたっと音がするたびに何だか反応して振り返ってるし。
これって、何事か起きたらいつもダッシュで駆け付けるくせがついてるせいだよね。
ちなみに、あいつはいつも通り。
あいつって誰かって?
憎たらしいくらいに優秀で、先輩の僕に用事を押し付けまくって平然としていて、ちょっと奥方にちょっかいかけただけで魔王のように怖いやつ。
「琴子ちゃんいないと、寂しいだろ」
「別に」
つれない返事だな。
「家に帰ればいますから」
あー、そうだったよね。君の奥方だもんね。
そう、その奥方の琴子ちゃんが先日ようやく産休に入ったんだ。
つわりと闘い、大きくなるお腹でそこ退けそこ退けとばかりに闊歩してた数か月。
あとは生まれるのを待つだけ。
「もちろん生まれたら見に行くよ」
「………」
後輩はもの言いたげにこちらを見てからため息をついた。
そのため息は何だよ、こら。
「女の子かな〜。そりゃ琴子ちゃんと君の子だから、悔しいけど美人だろうね」
「男だったらどうするんですか」
「どうって、おまえに似なきゃいいなって」
その瞬間、後輩は何とも言えない顔をして僕を見た。
何なんだよ、さっきから。
「いえ、何だか女が生まれるのをみんな期待してるみたいで」
「はあ、そりゃ君の御母堂だろ」
あのすさまじいくらいに行動力があって、迫力があって、強引な御母堂は、確かに後輩の母君で間違いないだろう。おまけに嫁の琴子ちゃんとの方が仲がいいときた。嫁姑問題がないのは理想だよね。
「確かに俺に似るよりは琴子に似てほしいですけどね。…頭以外」
さり気なく付け足したな。
そりゃ琴子ちゃんの成績はちょっと…、いや、かなり残念だったらしいけど。
うんうん、おまえみたいに愛想無しに似るよりは、たとえ頭が少しくらい残念でも琴子ちゃん似の方がずっといいもんな。
「でも教えませんよ」
「なにぃ?」
「生まれても教えません」
「おい、こら、お祝いしようって言ってる先輩に向かってなんだよ」
「生まれたての子どもにそんな汚れた人を見せるのはどうも」
なんだって、おい。
誰が汚れてるって?
意地でもお見舞いに行ってやる。
覚えてろよ!
「先生、それよりも今日の指示出しは終わったんですか」
「いや、まだ、これか…」
「さっさとやってください!本日の受付はあと五分ですからね!」
清水主任にそう言われて時計を見れば、いつの間にか指示出し終了まで本当に五分しかない。(外科病棟では翌日の指示出し終了時間を決められている)
できない、できないよ。
無理だよ、五分なんて。
だってこれ、このパソコン、患者さんのデータ出すのに一分以上かかるんだもん。
「時間に遅れたら、全部自分で採血ラベルもすべて出しておいてくださいね」
採血ラベルなんて勝手に出るもんじゃないのか。
じりじりと一人、二人と指示出しに精を出したものの…。
「はい、五、四、三、二、一、終了でーす。本日の指示受け時間は終了いたしました。後は緊急に限り受け付けます」
「ええー!桔梗君、何とかしてくれよぉ」
桔梗君は眉を上げて冷たく言い放った。
「できません」
ところがもう一人のリーダーのマユミちゃんは「じゃあ、今食堂で噂の謎のプリンを手に入れてきてくれるって約束してくれたら、あたしが指示受けてあ、げ、る」と言ってくれたのだった。
「うん、うん、手に入れてあげるよ」
「本当?」
「ああ、約束しよう」
「じゃあ、今日のところは許してあげる。だから早く終わらせてね〜」
「わかったよ、マユミちゃん」
僕はその言葉に気を良くしてせっせと残りの指示出しを終えたのだった。
桔梗君はちょっと心配げな顔で「いいんですか、そんな安請け合いして」と言ったのだが、僕は目先の指示出しに気を取られ、桔梗君の言葉もそのままスルーしてしまったのだった。
謎のプリンを手に入れるために、これから起こる困難も知らずに。
(2019/09/28)
To be continued.