ドクターNのお見合い8
「…あら、見つかっちゃったようよ」
悪びれずに扉の向こうで声がした。
「な、な、なんでっ」
思わず扉を指差して、彼は怒ってみた。
「ごめんなさぁい」
そう言って後輩の奥方が扉を開けた。
やけにしおらしく謝っているが、やっていることは覗きだ。
「ちょっとご挨拶をと…ほほほ」
いや、挨拶は先ほど済ませただろうと突っ込みたかったが、彼よりも先に二人の首根っこをつかんで怒鳴ったやつがいた。
「いい加減にしろっ」
「だって、入江くん、気になるじゃない」
「ほらそんなに大声を出すと他のお客さんやお店に迷惑だから」
「迷惑なことをやった人間に言われたくないね」
そうだ、そうだ、と彼は珍しく後輩と意見が合った。
「見たって仕方がないだろ。どうせ結婚するわけでもないんだから」
「そりゃそうだけど」
「そんなこと言っては失礼よ」
いや、まあ、結婚するつもりはないのは確かですが、と彼はまだ扉を開けたまま繰り広げられている家族のやり取りを止めようと手を伸ばした。
「…ああ、失礼」
そう言って後輩は扉を閉めようとした。
生意気なりにも礼儀はあるらしいと彼は珍しく後輩を見直した。
「教授の紹介のホテル王のお孫さんですね」
後輩は彼の向かいに座っていた彼女を見て即座にそう言った。
「へえ…医者の道は諦めるわけですね。後のことはご心配なく」
「いや、諦めてないから、まだ!」
後輩の言葉に思わず突っ込み、バタンと閉められた扉を彼は再び開けた。
後輩の横では奥方が「ちぇー、面白そうだったのに」とふてくされている。
「勝手に決めるな、僕はまだ外科医だし、これからも外科医だ!」
茶店を出て行く後輩の背に彼は叫んだ。
後輩は振り向きもしない。
ちくしょう、あいつ、本当に生意気だな、と彼が地団太を踏んだとき、「あ、どうも、すみませんね」と言って彼を申し訳なさそうに追い越していった人物がいた。
この騒動から取り残されて今まさに置いていかれようとしてる後輩の父らしき人だった。
あのずうずうしい一家にこんなまともな人がいるとは、と彼は思ったが、つい先ほどの後輩を思い出してしまい、思わず「あれはいったいなんなんですかっ」とやつあたりをした。
後輩の父君は家族に目を向けた後、ふくふくとした笑顔を彼に向けてポンと肩をたたいた。
それは慰めなのか、諦めなのか、判然としないまま彼は通路に取り残された。
後輩の父君は何かを悟っているのか。
彼は「うーむ、奥が深い」とつぶやきながら個室に戻った。
個室に入ると、そこには大きな観葉植物が…と思ったら、立ち上がった彼女だった。
「な、何か?」
彼はとっさに時計を見た。
もう約束の時間かと思ったのだ。
しかしどうやらそうではないらしい。
彼女は微動だにしない。
「…凪子さん?」
彼は置物になったような彼女に声をかけた。
きっかり3分経ってから、彼女は頬を染めて言った。
「理想の方を見つけてしまいました」
「理想…?」
彼は見えない扉の向こうを思わず見た。
「…まさか」
彼は扉を指差した。
「おやじ専ですか?あ、いや、ああいう福の神のような人が理想だと?」
彼は先ほどすれ違った後輩の父君のことだと思い、そう言った。
しかし、彼女はふるふると首を振った。
「え、まさかっ」
彼は嫌な気分で尋ねた。
「…先ほどの顔だけはいいらしい僕の後輩ですか?」
彼女はこくりとうなずいた。
「ダメですよ、あいつはっ。先ほどいたちょっと物見高くてちょっと馬鹿っぽいけどもまあまあ可愛らしい奥方を連れているのを見たでしょう?あいつは既婚者なんですよ」
「ただの理想ですから」
「いや、理想だからって…。
あいつは確かに生意気なほど頭がいいかもしれないが、性格は極悪ですよ。
そりゃもう奥方ですら毎日泣かされるくらい冷血で血の色緑のようなやつなんですから」
なんであいつが理想なんだ!
彼は懸命に彼女に説明した。
「そりゃちょっとは家も裕福かもしれないが、あなたの家に比べればまだまだ吹けば飛ぶような家ですよ。
何だかんだ言いつつあいつは奥方にしか起たないんだから。
あ、いや…」
言い過ぎたかと彼女の様子を見たが、彼女は一向に気にしていないらしい。
いや、待てよ。
もしもこのまま放置して彼女があいつに懸想でもして迫って奥方との仲が悪くなったりしたりなんかしたらもっと面白いことになるんじゃないか?などとちらりと考えた。
「あー、でももしかしたらあいつも実は奥方に飽きていて、あなたのような人を求めてるかもしれませんよね」
彼女は血走った目をこちらに向けた。
彼はしめしめとほくそ笑んでもう一発何かぶちかまそうかと考えた。
ところが。
ピピピピ…とアラームが鳴った。
おや、もう時間だ、と彼が時計を見たとき、「お時間でございます」と音もなく彼の後ろから彼女のお付きの老紳士が現れた。
「うわっ」
彼はまたもや驚いて飛び上がったが、老紳士は彼女の様子を見てこそりと彼の耳にささやいた。
「実はお嬢様はイケメンがお好きでございます、内緒ですが」
ただのイケメン好きかいっ。
と言うかどこから見てたんだ。
「加えれば頭の良い方ももちろんお好きでございます」
彼は今までの苦労はなんだったのだと突っ込んだ。
「でもこのお話を受けた事情は…」
「憚られるお話ですので、あなたの上司様はご存じないかと」
「じゃあ、僕はいったい何のために」
「お嬢様のイケメン好きはどこまでかと思いまして」
「…で、僕は不合格というわけ?」
「そのようで」
「じゃあ、僕の後輩は彼女のおめがねに適ったと?」
「そのようでございます」
「でもあいつは既婚者だけど」
「もちろん承知でございますが」
「彼女があいつを好きになって追いかけたりはしないんですか」
「お嬢様は大変恥ずかしがり屋でございますから」
「…ああ、追いかけたりはできないわけね」
彼はため息をついた。
なんだかとても疲れた。
「失礼だけど、お嬢様とその周りの方々は、彼女のその…特殊性をご存知で?」
この際文句を言われようといいやという気持ちでぶっちゃけた。
「もちろん承知でございますが、世の中は広うございますから」
と老紳士はにっこりと笑った。
彼は老紳士に言った。
「その控えめさが好きだとか言うイケメンのアラブの金持ちだとかさ、彼女のお金にとらわれないやつもいるかもしれないしね」
「さようでございますね」
「彼女は確かにちょっとあれだけど、見た目ほど悪くはないと思うよ」
「さすがお目が高い、名うてのプレイボーイでございますね」
「いや、もう、いいけどさ」
老紳士はまたもや音もなくお嬢様と去っていった。
お嬢様が果たしてイケメンで頭の良い会社を継げるくらいの人間と結婚できるかどうかは謎だが、少なくとも彼は彼女の幸せを願おうという気にはなった。
そうだよ、人間顔じゃないしな、と彼は茶店を出た。
もちろん支払いは老紳士が済ませていた。
こんなことならもっと高そうなものをオーダーするんだったと彼はせこいことを考えた。
そんなこんなで再びホテルのロビーに戻ってきた。
「あ、西垣先生!お見合いはどうでした?」
「あら、琴子ちゃん、そんなこと聞いちゃダメよ」
「え、まさか振られちゃったの?西垣先生が?」
「そんなはっきりと…」
二人の女性の声は、静かなロビーに響き渡った。
「……いーりーえ〜〜〜〜!」
彼は怒りに震えて叫んだ。
「やだ、入江くんならもういないわよ」
後輩の奥方はあっさりと彼に言った。どうやら後輩と父君は先に帰り、野次馬でご母堂と奥方が残っていたようだ。
「琴子ちゃん、僕はね、振られたわけじゃなくて」
「振ったんですか?」
「いや、見合いなんてしてないからっ」
「えー、でもあれは見合いですよね」
「お仲人さんがいらっしゃらなかったけれど、最近はそういうスタイルも多いらしいから」
「だーかーらー、聞けよ、誰でもいいからっ」
彼とご母堂と奥方の三人は、静かなる高級ホテルのロビーで支配人に注意されるまで声を張り上げていたのだった。
もちろん事情はロビー全体に知れ渡る。
このままでは彼は二度とこの高級ホテルに足を踏み入れることはできないだろう。
上司である教授は、彼に二度とお見合いを勧めなかったという。
(2012/07/31)-Fin-