タ 絶え間なく降る
珍しく風邪をひいた…と思う。
でも熱が上がるだけで、何も問題なさそうなので、もしかしたらただのぼせてるのかもしれない。
「琴子ちゃん、具合はどう?」
部屋のドアが開いて、おばさんが顔を見せた。
「あ、大丈夫です」
驚いて起き上がると、額に乗せてあったタオルがずり落ちて、ベッドの脇に落ちた。
「あら、そんなに無理して起きなくていいのよ。
私がいますからね、どーんと甘えちゃっていいのよ」
「す、すみません」
「本当にねぇ、あの子ったら会社休んで看病しようとか思わないのかしら」
「いえ、そんな」
「だいたい、傘持って出かけたはずなのに、ずぶ濡れになって帰ってくるって、どういうことなの」
「そ、それは…」
まさか、入江くんが傘を放って抱きしめてくれて、キスまでされて、急いで家に帰るなんて思わなかった。
しかも家に帰ってすぐにプ、プロポ−ズ…!
きゃーきゃーきゃー。
…あ、ダメ、また熱が…。
「琴子ちゃん、大丈夫?」
「は、はい…」
外は雨も止んでいたけど、あたしは朝からベッドの中だ。
入江くんは会社に行って、もしかしたら沙穂子さんと会うのかもしれない。
あたしも本当は金ちゃんに会いに行かなきゃいけないのに。
「あたし、夢を見てるんじゃないですよね」
思わずそうつぶやく。
昨日のことは夢だったんじゃないかって、朝目覚めてから思ってる。
入江くんとは顔を合わせないままで、あたしはただベッドに寝ていて、一人さみしい妄想だったなんてことじゃないのかと。
「ふふふ、昨日のビデオ、見る?」
「ビ、ビデオ?」
「そうよ、ちょっと待っててね」
おばさんはそう言って急いで部屋を出て行き、ビデオを抱えて戻ってきた。
「ほら、ごらんなさいな」
巻戻しされたそのビデオは、この入江家の廊下が映っていて、そこにはあたしと入江くんの後姿。
しかも昨日部屋に入る前の会話と抱き合っている映像がばっちり映っていた。
あの入江くんが、あたしに向かって「大好きだよ」と言ったあの場面まで。
「こ、こ、これは…」
「ほほほ、どう?傑作でしょ。
あれほどつれない態度をとっていたくせに、一晩でこの変わりよう。
裕樹が前に言ってたのよねぇ。お兄ちゃんは琴子ちゃんのこと好きなはずだって。
そのときはどうしても教えてくれなかったけれど、こうして見ると、あの子だって相当好きだったってことよね。
意地悪は好きの裏返しってこと?本当に、もう、わかりにくい子よねぇ。
でもこれで確信が持てたでしょ。お兄ちゃんが結婚したいって言ったのも間違いないわよ。
だって、こんなにラブラブなんですもの」
繰り返し、繰り返し、巻戻しては見せられる場面に、あたしは赤面どころかますます熱が上がるのを感じながら眠りについた。
確かに入江くんはあたしを好きだと言ってくれたみたい。
でもこれからあたしたち、どうなるんだろう。
…なんだか、あまり変わらないような気も…。
気がつくと、あたしはまた眠りこんでいた。
* * *
人の気配を感じて目を開けると人影があった。
のぞき込んでいたらしい人影が目に入った。
「あ…あたし、また眠っちゃってた」
「…寝てろよ」
「い、入江くん?」
暗くなった部屋にいたのは、入江くんだった。
様子を見に来てくれたらしいけど、あたしを起こさないように電気を消したままだった。
「熱は」
「う…ん、下がったみたい」
それでもあたしは入江くんをよく見たくて、ベッドの上に起き上がった。
「おふくろに聞いた」
「…何を?」
あたしはあのビデオのことが気になって、どきどきしながら問い返した。
だって、入江くんがあれを見たら、絶対怒るわよね。
おばさんにも内緒にしてくれって言われたし。
「今日一日熱があったって?…悪かったな」
「え、ええっ、うん、だ、大丈夫。入江くんが悪いわけじゃないし」
はぁ、びっくりした。
まさか入江くんが悪かったな、なんて。
「元はと言えば、雨が降るって言われてたのにおまえが傘を持たずに出かけたからだ」
あたしはむっとして言った。
「そりゃ、そうだけど。入江くんだって傘を放り投げたわけだし…」
息を呑んだような気配があって、どうやら入江くんの痛いところをついたらしい。
暗い中で目を凝らしても、入江くんの姿がよくわからない。
鳥目って、こういうとき不便。
「ねぇ、電気つけていいかな。
よく見えな…」
そう言いかけたとき、入江くんの気配が凄く近くなった。
すぐそば、あたしの目をのぞきこむようにしてベッドに座っていた。
「これで見えるか」
「…み、見えないけど、感じる」
くっと密やかな笑い声がした。
「じゃあ、これは?」
入江くんがそう言った後、唇に気配を感じる。
「入江くんの…手。…指かな」
頬に当てられた手から、そっと唇に指が押し当てられる。多分入江くんの親指だと思う。
唇じゃなかったことにあたしはほっとした反面、少しだけ残念に思う。
「ふーん、わかってんじゃん」
「…わ、わかるわよ」
「じゃあ、これは?」
まぶたに当てられたのは、多分唇。
そして、頬に。
あたしはもう何も言えなくて、近寄った入江くんの体からほのかに感じる香りと吐息にくらくらとめまいがしそうだった。
唇が重なると、絶え間なく続くキッスに、あたしは息もできなくてついぐったりとしてしまった。
「…息はしろよ」
「ど、どうやって…」
そこでまた笑い声。
「また夢にするなよ」
「…しないよ」
そう言うと、一つだけため息が聞こえた。
首に手が当てられた、と思ったら、柔らかい感触とチクッとした痛み。
な、なに?
あたしは動くこともできずに入江くんが何事か終わるのを待った。
「入江くん…?」
「…じゃあな」
そう言ってあたしの返事も待たずに部屋を出て行った。
部屋が暗くてよかったのは、唯一つ、あたしの真っ赤な顔を見られずに済んだってところだけかな。
最後に入江くんが唇を付けた場所に触れると、あたしはようやく落ち着いてきた。
あたしは多分一生入江くんを好きでいる。
あたしの愛はこれから先もずっと入江くんに捧げ続けるだろう。
まるでそれは、昨日の絶え間なく降る雨のように。
(2012/06/15)
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