1
『新コーナー あのドクターNが帰ってきた!!』
満足そうに彼はうなずいた。
何も卑屈になることはない。
事実彼はいくつもの恋愛相談を受け、実際にいくつもの恋を経験したのだから。
『ドクターNの婚活にカツ!』
一体誰が考えたのか、そのタイトルは正直その太い眉がひそめられ、メガネがずり落ちるほどだったが、既に決まってしまったものを覆すような権限はさすがに彼にはなかった。
考えてみれば、Nのつくドクターなんて山ほどいる。別に正体がばれたわけではないのだ。
前回はちょっと動揺してしまったが、あの時も彼女たちは彼を雑誌のドクターNとは思っていないようだった。
今回は実は雑誌が違うので、帰ってきたなんていうのはちょっと違うのだが、そういうあおり文句を入れておいたほうが読者の食いつきがいいとか。
以前(ずっと読んでいる読者でもそれがいつだったのか、当然思い出せるはずがないが)惜しまれながらも終了したコーナーの再登場のように書いてあれば、なんとなく人気コーナーが復活したような感じで見られるだろう、というの編集部の狙いだ。
今時読者の意見がハガキ、というのは古いので、最近はメールでも送れるようになっているし、彼のところへの質問も編集部を介してメールで送られてくる。
もちろん彼もメールで送り返す。
万事がそれなので、実際にドクターNの素顔を知っているのは担当者だけである。
これなら不用意にばれることも少なくなるだろう。
今度は医局に雑誌を持ち込むようなことはしないと彼は決めていた。
前回あの入江にばれた(多分)のは、やはり雑誌を医局に置いたのがいけなかったのだろう、と彼は反省する。
雑誌は中高生のものから20歳代を対象にしたものへとうつった。
しかも独身女性中心の雑誌だ。
ドクターNのプロフィールは秘密にしてもらったが、編集部の談では『イケメンで優秀なドクターNがお答えします!』などとなっている。
当然顔写真は載らないが、シルエットくらいは載せてもらってもいいかもしれないと思っている。
シルエットとして載せるなら、どういうポーズがいいだろうか。ちなみにシルエットなのでたいして変わらないと思うが、少なくとも撮影スタッフは見ているはずなので問題ない。
…そんなドクターNの日常。
(2011/07/12)2011/07/15掲載
2
「真理奈さ〜〜〜ん」
彼の同僚の一人である後輩医師が、そんな声を上げながら廊下を駆け抜けていった。
そんなふうに呼ばれて追いかけられるのは外科病棟看護師の一人だ。
言うなれば、彼女は恋愛と結婚は別、と考えている意外に現実的で医師にとっては扱いやすいタイプだ。
上手く引っかかった医師と結婚できればもうけもの、ではあるが、実際の彼女は手堅くて、口で言うほど遊びまくっているわけではなさそうだ。
残っている独身医師なんて、彼を除けばどれも似たり寄ったりでどこかしら敬遠される要素があるものだ。
実家も病院であればうるさい姑がいたり、いまだマザコンだったり、あまりにも勉強に勤しんだために面白みもない男だったり、趣味に費やすお金が多すぎて実は金も暇もない男だったり、浮気性だったり。
まあ、医師だからといって誰もが極上であるわけがない。その辺の普通の男と一緒だ。
彼もまだ結婚するには少しばかり躊躇がある。
もちろん適当な年齢、もしくはこれぞという相手さえいれば結婚しても構わないと思っているので、独身主義なわけではない。
どこかに自分にぴったりな相手がいるに違いないといろいろな相手と付き合っているに過ぎないのだ。
後輩医師が追いかけていったところで、外科看護師の彼女は足早に移動し、全く後輩医師の声がけを無視している。
やれやれ。追いかけることしかしないなんて、あれじゃあ落ちるわけがない。
ついひとり言も出てしまう。
「へ〜〜〜〜〜〜、いつも追いかけてばかりいる人のセリフとは思えませんね」
後ろを振り向くと、無表情にそう言って後ろを通り過ぎたもう一人の後輩医師。
やたらに顔が良くて(彼の次に)、結婚してるのにもてまくって(彼の次に)、しかも結婚しているのは同じ外科看護師で、その奥方は全く正反対なタイプとは!
「言ってくれるね。僕は追いかけている振りをしてるんだよ。そのほうが女としても気持ちがいいもんだろ」
「…せいぜいストーカーに間違われないようにしてください」
「相変わらず失礼だな」
「あいつの周りは半径5メートル以内立ち入り禁止ですから」
「どうやって仕事するんだよっ」
しれっと牽制かけてくる微妙に愛妻家なやつ。
そんなふうに牽制かけるくらいなら、冷たくしなけりゃいいのに。何なんだ、あいつは。
可愛い妻に「入江く〜ん」と声をかけられて追いかけられると、いかにも面倒くさいというオーラを出して応対する。しかも話が終わる前にも構わず仕事モードに切り替えるということをやってのける男。
どうせ家ではあの仏頂面を崩して甘えまくったりしてるんだろう。
多分そういうやつだ。
彼はそう決め付けて口の悪い後輩医師の後姿を睨みつけた。
「そんなことより」
彼は新しく始まったコーナーの最初の話に追いかけても報われない哀れな後輩医師を出すことに決めた。
(2011/07/12)2011/07/18掲載
3
『婚活に励む者達へ。
結婚相手を選ぶのに何を重要視しているだろうか。
容姿か収入かそれとも愛か。
どれも全部あったほうがいいに違いないが、恐らく多くの者は優先順位をつけたり、これだけは譲れないという条件を選ぶのだろう。
僕の後輩に年がら年中意中の人を追いかけている男がいる。ある意味ストーカー的だが、彼とて決して条件は悪くない。
容姿、頭、収入、家柄と思ったより揃っている。
ではなぜ彼は意中の人から相手にされないのか。
それはずばり「愛」であろう…』
そんな書き出しで始まった今回の話にドクターNの筆は進む。
正確にはパソコンのキーボードの音が静かな室内に響いていた。
バックには女性アーティストの優雅なバラードをかけ、傍らからはコーヒーの香りが漂っている。
生意気な後輩はいけしゃあしゃあと自分の妻のコーヒーが一番だと言ってのけた。
彼のこだわりの豆と入れ方に勝るものはないだろうと自慢したその後でだ。
なんて嫌味なやつだと思ったが、そこは先輩である彼がぐっとこらえてぜひともそのコーヒーを飲みたいと言ったが、それこそけんもほろろに断られた経緯がある。
おっといけない、いけない、今はその後輩の話ではなく、もう一人の二番手後輩の話を書くんだった、と彼はコーヒーの入ったカップを手に取り頭を振った。
二番手後輩とはなかなかいい言い回しだと思っている。
何をやってもあの生意気な後輩に勝てたためしはない、実にかわいそうな経歴の持ち主らしい。
学生時代…それこそ遡れば高校時代から苦汁を舐めていたのだという。
全国模試でも一度も抜けず、T大に行くだろうと思っていたら、付属の大学にあっさりと進学し、同じ学部に進んだものの相手にもされず、気がついたら医学部に転部されていて、同時に出して挑戦した論文もことごとく生意気な後輩が選ばれたという。
同じ世代に生まれたことを恨めばいいのだが、何よりもその二番手であることに甘んじないで努力し続ける姿勢は素晴らしいと思う。
生意気な後輩は、何をやらせても卒がない。およそ失敗という言葉がやつほど似合わない人間も珍しい。まあ、だからこその『生意気な』後輩なんだが。
彼はコーヒーの香りを堪能してから口をつけた。
ううん、このまろやかな味わいは最高だと彼は満足そうにうなずいたのだった。
「何を言うんです、真理奈さんは最高です!」
医局に入ると、例の二番手後輩が叫んでいた。
仕事場にそういう感情を持ち込むとろくなことはないと思ってはいるが、彼の場合はそんなことをとがめる気はさらさらない。
仕事は楽しいほうがいいに決まっている。
周りには見目麗しい女性がたくさんいるのだから、仲良くなったほうが何かと得だし、セクハラで訴えられる危険性もなくなると思っている。
だいたいセクハラなんて、ちょっと好ましいと思っている相手からされてもなんとも思わないどころかちょっとうれしいと思えるくらいなのに、同じことを嫌いだと思っている相手からされると嫌悪感丸出しでセクハラだと訴えるのが女性である、と彼は思っている。
その点でいけば、二番手後輩がいくらそう叫んだところで、脈のない相手にとってはセクハラだと思っていることだろう。
いや、声高にセクハラだと訴えている様子はないから、相手もまんざらではないのか。
それともやはり彼はキープしておくべき存在として適当に相手しているのだろう。うん、そうに違いない。
よし、続きはこれでいこう、と彼は手帳を取り出してメモするのだった。
(2011/07/17)2011/07/21掲載
4
『理想の結婚相手とは』
そう書いてふむ、と彼は手を止めた。
自分が思う理想の相手は、と考える。
できれば女性(当たり前かもしれないが、彼は若干男にももてることがあるし、最近のニューハーフは侮れない。しかも身近に実例がいる)、顔は見られれば何とかいけるが、そりゃ可愛いかったり美人だったりすればなお良い。
そして、自分より少しだけバカだとなお良い。
頭の良い女性も良いが、少しだけおバカ、というところがポイントかもしれない。
つまり、バカすぎても苦労する。
そう言えば、と彼は思い出す。
正直あの生意気後輩の奥方は、決して頭が良いとは言えない。
仮にも看護師国家試験に受かったくらいだ。替え玉受験でもしていない限りそれなりに勉強はしたんだろう。
勉強面だけならともかく、あれこれと勉強不足を感じるが、どうせあの生意気な後輩は、それすらも鼻で笑っているのだろう。
しかも周囲には小バカにしているように思わせて、実は教え込むことにやりがいを覚えたりしてたりなんかして。そうだ、あいつはそういう陰険なやつだ。
何も知らないのを自分好みに教え込む…それもいいのかもな。
彼は思わずそう考えたところで猛然と続きを書き出した。
「ねぇ、今月号の『ミ・アモーレ』読んだ?」
ナースステーションを通りかかったところ、そんな声が聞こえてきたところで彼は足を止めた。
「ああ、今月号はマリッジ特集だったわね」
「モトちゃんには関係ないか」
「しっつれいね。ああ、あたしだって結婚したいわよ」
「でもモトちゃん、性別的に日本じゃ無理なんじゃ」
「別に籍を入れることだけが全てじゃないわよ」
「そうは言うけど〜」
性別的に問題がと言われた男声の主は、美貌は素晴らしいが残念ながら性別は男だ。
並の女より女らしい面もあるのだが、やはりここは日本で、性転換手術でも受けて外見を変えないとなかなか受け入れがたいのかもしれない。
うん、うん、いくらオネエタレントが流行っても一般の嗜好がそう変わることはないからな、と彼は一人うなずく。
そして、彼はさりげなく聞き耳を立てながら、何故僕のページの話題は出ないんだ、と思っていた。
いや、もちろんそんなことは口が避けても口に出すことはできなかったが。
彼は少しだけ会話に割り込んでみることにした。
「なに、君たちも結婚願望はあるんだね」
「やっだ、先生、当たり前じゃないですか」
「真理奈君はキープ君がいるから余裕かな」
「…それ、冗談でもやめてくださいよ」
「確かに性格はあれだが、家柄も悪くない、頭も悪くない(まあ、二番だけど)、職業医師ならこれから先に期待は持てるだろうし」
「その性格が最大の問題でしょ」
「うーん、なるほど。やはり最後は性格で来るわけか」
「だって、一生過ごすんですよ」
「それなら、琴子ちゃんは大変だろうね」
そう言ったところ、彼女たち(やや語弊はあるが)は顔を見合わせた。
「大変ったって…」
「あれはパフォーマンスよね」
「入江先生なら多少のことは許せるって言うか」
「アタシだったら、入江先生が結婚してやるから性別変えろっていうなら念力使ってでも変えてみせるわぁ」
あー、そう、そういうこと。
「でも、あの偏屈さが一生続くんじゃ、振り回されて大変だろう」
「あら、琴子だって相当なもんですよ。あの入江先生が振り回されてるんですから」
きれいにウインクしながら桔梗幹が言った。
確かにあの天然ドジッコ属性の奥方ならさもありなん、と彼は今日は見えない姿を探してナースステーションを見回してみた。
「あれ、今日は琴子ちゃんいなかったっけ」
「いますよ。でも、そう言えばさっきから姿見えないわね〜」
そう言いながら桔梗も同じように見回した。
それでも特に用事はないので、彼はナースステーションを出て行くことにした。
そのとき、廊下の向こうから半べそでやってくる琴子の姿があった。
「おや、琴子ちゃん、泣きそうな顔してどうしたの」
「いえ、あの、大丈夫です」
「また入江のやつにでもいじめられたの?」
「だ、だって、入江くんったら、せっかく検査室で出会ったのに、廊下は走るなとか大きな声でしゃべるなとか、それしか言ってくれなくて」
いや、それは普通だろうとその場にいた誰もが突っ込んだが、あえて口にはしなかった。
「それに…」
そこまで言って、はっとしたように彼を見た。
「ご、ごめんなさいっ」
そう言って走ってその場を逃げ出した。
いや、走るなと言われたばかりだろうと周りの誰もが突っ込んだが、琴子は知るはずもない。
「なんなんだ」
彼はそうつぶやいたが、まさか「あいつの半径5メートルには近づくな」と冗談ではなく言われたと知るのはそれから間もなくのことだった。
(2011/07/25)2011/07/25掲載
5
その日の彼は大いに不機嫌だった。
明日手術の患者に説明をするはずだったのだが、こともあろうに指導医の彼を差し置いて生意気な後輩が説明しただけで、あれほど渋っていた患者は手術同意書にあっさりとサインをしてよこしたのだ。
いや、喜んでいいのだが、なんとなく面白くない。
もちろん彼にとっては優秀な後輩を持つというのは楽でいいことなのだが、あからさまに差を見せられては面白いはずもない。
「西垣先生、折り入ってご相談があるのですが」
不機嫌だった彼にそう言ったのは、あまり空気を読まない二番手後輩だった。
それでも相談と言われて断るほど彼は意地悪くもない。
「何かな、ちょっと忙しいんだが」
「ええ、実は今度デートをするんですが…」
皆まで聞かず、彼の機嫌はたちどころに戻って愛想よく言った。
「そうか、そうか、デートなんだ。なに、この僕に任せたまえ」
彼は胸を叩いて話のできる場所まで二番手後輩とともに移動するのだった。
『初めてのデートはどこへ行くか、悩んだことはないだろうか。
男がすんなりと決めてくれればいいが、どこへ行く?と聞かれたら、君はなんて答えるだろうか。
無難に映画か、遊園地か、ショッピングか。
食事をして飲みに行って、もしかして最後はホテルまで?』
彼は二番手後輩にデートの心得を聞かれたのだが、その後輩は彼の言葉をいちいちメモしてぶつぶつと暗記している。
その通りに行動しなくてもいいし、少しは応用を利かせたほうがいいだろうと彼はアドバイスもしたのだが、なかなか男女関係に疎い二番手後輩は、マニュアルから抜け切れないらしい。
初めてデートに行ったときは、なんと寄生虫館に行ったらしいから、相手が怒って帰らなかっただけでもありがたいと思えと説教したのだった。
その後は相手に言われるまま食事をしてショッピングで済ませていたらしいが、ここは一つ男らしいところを見せてほしいと小耳にはさみ、無難でおしゃれで寄生虫館よりももっとましなデートコースをお伺いに来たらしい。
「ところで琴子ちゃんとはどんなところにデートに行くんだ?」
ランチの後、生意気な後輩がたまたまそばにいたので聞いてみると、その後輩はふっとバカにしたように笑って答えた。
「結婚してるのに、デートなんて」
「それはいけないなぁ。結婚してるからこそたまには恋人気分でデートして喜ばせてあげなくちゃ」
「…必要ないんですよ」
手早く資料を揃えながら生意気な後輩は言った。
「仕事の行き帰りだとか、すれ違うことが多いから家でゆっくり二人で過ごす時間とか」
「そうやって二人で過ごしてるから必要ないってか?」
いや、それは違うだろう、と彼は心の中で思う。
「いえ」
「なんだ、何が違うんだ」
「琴子が言うんですよ。二人で過ごすだけで十分幸せだって。デートにも匹敵するくらい貴重な時間ですからね」
彼はその言葉を聞いて、本日一番の不愉快さを感じた。
けーーーーーっ、それはさりげなくのろけてるのか?
この鉄仮面のような顔で、妻が幸せだと言ってるから自分もそれが幸せだと言いたいのか?
彼はその言葉をぶつけるのかろうじて我慢した。
既にその場に後輩はいなかったし、その言葉の裏に潜むものが妬みだと本能で感じ取ったからだった。
そして、空気を読まない二番手後輩がまたもや声をかけた。
「あの、計画を早速真理奈さんに話したらですね、『そんな当たり前のコースじゃ物足りない』と言われて、どうしたらいいですかね」
彼は手に持っていた外国製のお高い聴診器を力を込めて引っ張った。
その修理代に頭を悩ますのはまた後の話である。
(2011/07/31)2011/07/31掲載
6
広く浅く付き合うことをモットーとしている彼は、ある日人生初かと思えるくらいのときめきを覚えた。
それは彼が外来を終え、玄関ロビーを通って病棟へ向かおうと歩いている最中の出来事だった。
メガネの汚れが気になり、メガネを外してハンカチでそっと拭ったとき、なんと彼の目の前で急に倒れた人がいた。
いや、正確には転んだために倒れたのだ。
彼はその人に当然のごとく声をかけた。
「大丈夫ですか」
この場合相手は女性だったが、一応腐っても医師の彼は、それが多分むさくるしい男だろうとくそ生意気な子どもだろうと声をかけただろうが、声のトーンにはいささか違いが出たことだろうと思われる。
もちろん女性だとわかったため(ちなみに若いか高齢かはこの時点ではメガネを外していたため確認できていない)、彼は優しく幾分丁寧に声をかけた。
彼が近寄って助け起こすと、間近で見た女性の顔はどストレートに好みだった。
慌ててメガネをかけてもう一度見ると、誰が見ても美人、の一言だった。
その美人は肩までの黒髪をかき上げ、彼の顔を見て丁寧に言った。
「ご迷惑おかけしました、ありがとうございます」
その声も彼の好みだった。
つまり、これはもう何が何でもモノにしなければ、と彼の血が騒いだ。
「いえ、いけません。幸い僕はここの医師なんですよ。
さあ、こちらへ来て大丈夫かどうか確認しましょう」
彼はその胡散臭いスマイル全開でいたって真面目に言った。
「ええ、でも、カーペットが敷いてありましたし、多分大丈夫だと…」
「大丈夫だと判断するのも医師の仕事の一つですから」
と、半ば強引に手近なソファに誘導してその女性を座らせた。
これが医師でなければセクハラだろうが、彼は女性の膝や腕などを丁寧に観察した。
その白く美しい手足がカーペットで擦れていないかどうか心配だったのだ。
「本当に丁寧にありがとうございます」
女性は少し頬を染めて微笑すると、頭を下げて立ち上がった。
「もしも何かありましたらぜひご連絡ください。診察いたしますよ」
彼は今にも立ち去ろうとする女性に名刺を差し出して、有無を言わさず手に握らせた。
その際に触れた柔らかな手にうっとりとしている間に女性は立ち去ってしまった。
ついうっかりと、彼にしては珍しく、気になる女性の連絡先はおろか名前さえも聞いていないことに気がついたのは、ほんの数分後のことだったという。
果たしてもう一度会えるのかどうかもわからない女性に彼はほんの数分で夢中になったのだった。
(2011/08/03)2011/08/11掲載
7
その日の彼は使い物にならなかった。
昼の出会いが彼の生活を変えてしまったのだ。
もちろん女性に声をかけられれば応じるが、その日の彼はデートに行くような気分ではなかった。
遅くに取った昼食は喉が通らず、軽くうどんを口にしただけだった。
一目ぼれを今までバカにしていたが、本当にあるものなのだと彼は思い知った。
「元気ないですね、先生」
食堂を出て、エレベータで一緒になった検査技師のマユミちゃんが彼の顔を覗き込んで言った。
いつもの彼ならこういうシチュエーションなら喜んで唇を寄せただろうが(もちろん寄せるだけで上手くかわされることが多いので空振りに終わるのがほとんどだが)、彼は先ほど会った女性のことを考えていたので、生返事で答えた。
「たまには人生について悩むこともあるんだよ」
「えー、そうなんですかぁ?」
もちろんマユミちゃんがその返答を端から信じていないことはうかがえるが、いつも調子のいい彼のことなので、あまり気にしていないようだ。
「それじゃ、先生、またお食事に連れて行ってくださいね」
それだけ言ってマユミちゃんはエレベータを降りていった。
彼はこれ見よがしに(エレベータ内には誰もいなかったが)ため息をつくと、何とはなしについいつもの外科病棟に降り立ったのだった。
「そうよ、もうほんっとにかっこよかったの。一目ぼれよ、一目ぼれ」
浮き立つような声で言うオカマナース…失礼、女性の心を持ち残念ながら男性の身体を持って生まれた桔梗幹が言うのが聞こえた。
「その一目ぼれ、何度目よ」
あきれたように二番手後輩の思い人である品川真里奈が言った。
「だって、一目見てびびっときちゃったのよ」
「びびっとねぇ…。あ、どう思います、先生?」
ナースステーションにやってきた彼を見て、彼なら同意してくれるだろうと話を振ってきたのだろう。
しかし、彼は昨日までの彼ではなかった。
「いや、あると思うよ、一目ぼれ」
「えー、先生まで」
そんなばかな、とでも言いたげな顔で彼を見返した。
「本当に一目見た瞬間に他はどうでもよくなるものなんだよ」
「…やけに実感こもってますね」
「いや、何、僕だって経験がないわけじゃない」
「そうなんですか。でも一目ぼれでうまくいくカップルって聞いたことないんですよ、あたし」
「そ、そうなのかい…っと、そうだってね…」
彼は答えながら心重く沈んだ。
そう、彼が一目ぼれした相手の名前も所在地すらも知らないのだ。これではうまくいくはずもない。
「あら、いるじゃない、実例がそこに」
幹が指した先には、何やら一所懸命カルテに記入している琴子の姿があった。しかもさりげなく彼から5メートルくらい離れている。
「でもねぇ、あれって、最初は琴子の一目ぼれかもしれないけど、結局はその後の押せ押せが効いたわけでしょ。ちょっと違うと思うわ」
「んもう、そういう水差すようなこと言わずに見守ってくれればいいじゃないの」
「はいはい、わかりました。モトちゃんのことだから、あと3日もすればまた別の人にびびっときてるかもしれないしね」
「ひどい言い方ね。いいわよ、見てらっしゃい」
そう言って幹はぷりぷりしながらナースステーションを出て行った。
思わず彼はその後を追いかけて幹に声をかけた。
「あら、先生、どうしました」
「いや、なに、どうやってその一目ぼれを成就するのか興味があってね。そもそもその一目ぼれの主はわかっているんだろうかとか」
「いえ、すれ違っただけですけど」
「な、なんだって。すれ違っただけの人と、ど、どうやって」
「…先生、目が血走ってますけど」
「いや、すまない。ちょっと僕の恋愛観からするとなかなか興味深くてね。これでも恋愛に関してはうるさいんだ」
「まあそうですね。出会った場所ははっきりしているので、その場所にもう一度行ってみて、まずは特定するかしら。常連だったみたいだし、また近いうちに会えそうな気がするのよね〜。そもそもそういうところからして運命的なものを感じるわけだし」
「ふむ、それで?」
「それでって…とりあえずアタックあるのみです。この辺は先生のほうがお得意なんじゃ?」
「ま、そうだね、うん」
「運命的なもの…」
彼はそうつぶやくと、ふらふらとそのままエレベータに乗っていくのだった。
その日の午後、彼は無駄にロビーで時間を費やしたが、その理由は誰も知らない。
もちろん仕事をしない彼を探して同僚や後輩や病棟ナースが電話をかけまくっていたことや教授からやんわりとお叱りを受けたことは別の話である。
(2011/08/08)2011/08/08掲載
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彼は運命という言葉をよく口にしたが、運命そのものはあまり信じていなかった。
女の子と偶然会えば「いやー、ここで会うなんて運命的だね。どう、今からお茶でも」とか「多分こうなる運命だったんだよ」と口説いたことも数知れず。
ところが、彼が本気でその言葉を口にする日が来ようとは思わなかったに違いない。
あの運命的な日から数日後、通れども通れども(それこそ無駄に思えるくらい彼はロビーを往復した)あのどストライクな彼女にはなかなか会えなかった。
お陰で雑誌に連載中の話もあれ以上進まない。
もちろん今まで軽快に書いていたせいかストックだけはある。
締め切りまでまだまだ時間はある。
今回ばかりはさすがの彼でもうまくいかない恋路を思い悩んでいたのであった。
「最近先生がおとなしいって評判ですけど、誰かいい人でもできたんですか」
こう問われればつい「僕を本気にさせるのは君だけだよ」などと口が勝手に動く。
これをあの彼女が聞いていたらと思うと多分いたたまれない気持ちになるのだろうが、今までの日常をすぐに変えることは出来ない。
今日も口だけは快調に動くのを止められないまま歓談していたが、その視界の隅に運命の彼女が通っていくのを見た。
彼はその場で目の前にいた外来ナースのハナエちゃんを置き去りにして、ふらふらとその彼女の後を追いかけた。
もちろん病院内なので、彼がふらふら歩いていても目の前を歩く彼女は露ほどにも彼を気にしていない。白衣でよかったと言うべきか。
彼女は内科外来の前で立ち止まった。
彼は外科医で内科には手術依頼の際しか縁がない。
まさか内科の患者を無理やり彼の担当にすることなど不可能だ。
この場合はごく普通の手段としてさりげなく彼女のカルテを盗み見ることくらいしかできることはない。
もちろん彼に守秘義務という壁などあって無きが如しだ。
彼は堂々と内科外来へ入っていき、彼女のカルテを探した。
「あ、先生、何か用事ですか」
「うん、まあ。あの外で待っている女の患者さんなんだけど、ちょっとカルテを見せてもらえるかな。もちろん担当には内緒にしてね」
ちょっとした秘密共有を女は好きだと思っているので、彼はすかさず内科外来ナースのアキコちゃんにウインクした。
「え、ええ。内緒ですよ」
そう言って差し出したカルテを彼は素早く目を通した。
「何か気になることでも?」
「そうだね。今はまだいいか」
「お役に立ちましたか」
「ああ、もちろん」
彼のセリフに内科外来ナースアキコちゃんは勝手に都合よく解釈した。
「今度はイタリアンですよ、先生」
そんな言葉を背に彼は内科外来を出た。
先ほどまで外来待合に座っていた彼女はいつの間にか姿は見えず、彼はまたもや無駄に外来とロビーと駐車場までを往復しながら彼女の姿を捜したのだった。
(2011/08/13)2088/08/13掲載
To be continued.