9
あの徒労に思えたロビーの往復も無駄ではなかったと彼は意気揚々と作戦を練ることにした。
そこへため息をついた間違えて男に生まれてきた心は女性(自称)の桔梗幹が一緒のエレベータに。
「あ、先生」
「どうしたんだね、きれいな顔が台無しじゃないか」
「もう、先生ったら口だけは上手いんだから」
「で、先日の一目ぼれの彼とはどうなったんだ」
「それですよ。仲良くなるまではいったんですけどね」
「ほお、そりゃ凄い」
「でも、彼女がいたんですよ、そりゃもうすっごく可愛いコ」
「まあ、それくらいは」
「そうはいいますけどね、この美貌をもってしても生まれながらの性別までは変えられやしませんからね」
「ここはフィリピンにでも…」
「先生、それ以上いうと怒りますよ」
「…もう怒ってるだろうに…」
「本当に好きな人にはありのままのアタシを受け入れてほしいんです」
「…そりゃ無理ってもんだろう」
「何か?」
ごっほんとわざとらしく咳をしてから、彼は慌てて言った。
「彼女がいても奪うくらいの気概が欲しいねぇ」
「そりゃ先生は彼持ちだろうが人妻だろうがお構いなしかもしれませんが」
「いや、一応モラルはあるんだよ、これでも」
「へ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、全く存じ上げませんでした」
嫌味のように幹が言うと、反論する前にチン!とエレベータの扉が開いた。
幹は病棟へ、彼はそのまま医局に戻ることにした。
エレベータの中で先ほどの会話を思い出す。
もし彼女に彼がいたら?
そりゃもちろん…。
「奪う!」
と彼は意気込んでこぶしを握った。
医局のある階に着いたエレベータの扉が開くと、そこにはあの生意気な後輩の姿があった。
一応先輩である彼を立ててくれて先にエレベータを降りた(…と彼は思っているが、先輩である彼を立てたわけでなく、単に降りる人を優先したという普通のマナーに従っただけのようだ)彼だったが、握ったこぶしを黙って下ろした。
扉が閉まる寸前、生意気な後輩はこう言った。
「色ボケは程々に」
彼は既に下に降りていったエレベータに向かって叫んだという。
「おまえに言われたくないっ!」
(2011/08/18)2011/08/18掲載
10
彼は次の週、浮かれ気味で内科外来前へ行った。
「お、いたいた」
そんなひとり言まで出てしまう。
彼女は清楚に文庫本を広げて外来の順番を待っているようだ。
彼は時計を見ると、およその時間を計算する。
大学病院の外来というものは、待ち3時間、診療3分とまで言われているので、たとえ予約どおりだろうと彼女の診療時間まで多分1時間はくだらないだろう。
しかしこのたくさんの人の中で誘い出すのもさすがに気が引けるので、彼は診療が終わるのを待つことにした。
ちょうど検査室に用事があったのを幸いに、彼はその時間をつぶすことにした。
約1時間の後、放射線室から出てきた彼は、目の前を通り過ぎる彼女を見かけ、さりげなくすれ違いざまに目の前でどうってことない資料の束を落とした。
あまりにも古典的な手だが、心あるものなら慌てて拾うのを手伝ってくれるというわけだ。
もちろん彼女は彼の目論見どおりに書類を拾うのを手伝ってくれた。
「いやあ、申し訳ない。関係のない人にまでご迷惑を」
彼はそこで彼女の顔を見ておや?というふうに眉を上げた(もちろんわざとだが)。
「いやあ、あなたは先日ロビーでお会いしましたね」
彼はさも偶然というように声を張り上げた。
彼女は首をかしげて彼の顔を凝視している。
「もしかして覚えていらっしゃらない?」
彼は作戦そのものが失敗かと固唾を呑んで見守る。
「え、ええっと、もしかしてロビーで転んだときに丁寧に診察してくださった方でしたかしら」
その言葉が出て彼は心の中でガッツポーズをした。
よし、覚えているようだ!と彼は自分ではとびっきりだと思われる笑顔で彼女に言った。
「そうです、その節は大丈夫でしたか」
「はい」
「今回は僕がご迷惑をかけてしまいましたね。
お礼と言ってはなんですが、せっかく再会したのも偶然ですし、すぐそこの喫茶室でお茶でもいかがですか」
「え、あの」
「大丈夫です。そこは先日オープンしたナチュラルが売りの体に優しいお茶を置いていますから」
彼は有無を言わせずに彼女を素早く誘導して、彼女が疑問に思うよりも早く注文も済ませてしまった。
ちょっと強引だったかと彼女の様子を見ると、内装を見回しながらもすぐに出てきた注文のお茶に目を丸くしている。
「まあ!紅茶かと思ったら、中国茶でしたのね」
「ええ、病院内のカフェにしてはしゃれているでしょう」
「ええ、本当に」
「…先日お見かけして以来、あなたのことが気になっていたのですよ」
常套句であるが、ここは素直に口にするほうがよいと彼はお茶を一口味わいながら言ってみた。
「思ったよりもおいしいんですのね」
気になっていた、の言葉を軽くスルーされ、彼はもう一口お茶を飲んで気持ちを落ち着けた。
「あなたのその上品さ、いずれ名のあるお嬢様ではないかと」
「私、世間知らずと祖父からも言われておりまして、お恥ずかしい限りです」
「いえ、それも一つの魅力だと思いますよ、あなたにおいては」
「そう言っていただけると…」
なかなかいい手ごたえだ、と彼は満足そうにうなずく。
「ところで、先生は内科のお医者様なんですか」
「いえ、僕は外科医です」
「外科医…」
途端に少しだけ彼女は顔を曇らせた。
「実は…」
彼女が口を開きかけたとき「先生!」と後ろから声をかけられた。
「急患です!」
振り向くと、外来ナースのハナエちゃんが立っていた。
「え、急患って」
「急患は、急患ですよ。さっ、行きますよ、先生」
「あ、ちょっと、キ、キミ、また後日改めて…」
彼はプライベート用の名刺だけを彼女の手に押し付けると、外来ナースハナエちゃんに引っ張られるようにして喫茶室を出て行く羽目になったのだった。
「ちょ、ハナエちゃん?」
「先生、ここで口説いたらまずいですよ」
「へ?」
「気付かなかったんですか?周りは耳をこーんなに大きくして聞いてますよ」
「そ、そうか」
「先生らしくないですね。いろんな方と仲良しなのは先生のことだから許しますけど、患者さんに手を出すときはせめて皆の目がないところで、ですよ」
「そ、そうだね」
「ね、そういうことで、あの患者さんとまたお会いしたかったら、今度わたしと六本木のバーですよ」
「あ、ああ、まあ、そういうことで」
「じゃ、約束ですよ〜」
彼は引っ張られた白衣を正して、ネクタイを締めなおした。
なんだかハナエちゃんにいいようにやられた気もするが、とりあえず名刺も渡したし、ハナエちゃんには快く六本木のバーにでも連れて行って彼女との渡りをつけてもらうか、などとのんきに考えていた。
そう、彼はまだ何も知らなかったのだ。
(2011/08/22)2011/08/22掲載
11
彼は女の子に声をかけるのは当たり前のことだった。
自然に口からぺらぺらと出てくる言葉は、どんなに薄っぺらくとも女の子の悪口は出てこない。
女の子を褒めたり諌めたり、本命とはならなくとも少なくとも気持ちよくお付き合いできる術として身につけたものである。
たまに憎まれ口しか口にしないやつを見ると、その子どもっぽさに呆れたりもする。もちろん言わずともあの生意気な後輩は数の内である。
生意気な後輩の奥方はバカ正直なので、反応を見るのは非常に楽しい。
それなのに、他のやつが奥方をからかうのを知ると、途端に睨みつけたり奥方に優しくなったりするのだから、とことん素直じゃない子どもなやつだと言えよう。
ともかく、そんなふうに本命をいじめるような幼稚なことはしない、というのが彼の信条だ。
もっとも、肝心の生意気な後輩の奥方はそれでもメロメロなんだから、どれだけ調教されきっているのやら。
「うーん、もっと積極的にいくべきだったか」
そんなことを彼が唸りながら考えていると、「先生、お嬢様は難しいですよ」とささやかれた。
振り返ると、したり顔で桔梗幹が言った。
「だいたいですね、お嬢様は良くも悪くもマイペースな人が多いんですから、自分のペースにもっていこうというのが無謀ってもんですよ」
「いや、そうは言うけどね、案外強引な人にも弱いのがお嬢様なんだ」
「まあ、お嬢様はちょっとした悪にも心惹かれるらしいですけどね」
「そうだろ〜」
「…って、先生は自分が悪だって思ってるんですか」
「いや、それはちょっと違うだろ。悪ぶって見せるのも悪かぁないけどね」
「まあ、本物の悪はそこにいますけどね」
そういう幹の視線を目で追ってみれば、相変わらず職場で繰り広げているバカップル振り。
「もう、入江くんのいじわるっ」
「…おまえがバカなのは本当だから仕方がないだろ」
「だって、だって…あたしは一所懸命やってるもん」
「一所懸命だって結果が悪ければ患者は死ぬんだ」
「そんなこと、わかってるもん」
「わかってるんなら、ちゃんとやれよ、最初から」
「…うん」
そんなやり取りをナースステーションの片隅でやっている。
さりげなく奥方の頭をくしゃくしゃっとなでまわしたりなんかして。
職場だからいちゃいちゃしないとか言っておきながら、その同じ口でどん底まで落としておいてほんの少しだけ持ち上げるような仕草をする。
これより前のやり取りは、二人が夫婦だと知っていないものなら(いや、知っていてもなおのこと)、はらはらするような罵詈雑言が飛び交っていたのだから、周りにいるものはたまったもんじゃない。
あいつにけんかを吹っかけるのだけはやめようと決心するには十分な険しさだった。
ましてや奥方にあの物言いじゃ、他人にはどんな言い方をするのか想像するのも恐ろしい。
「誰も見てないと思ってるのかしらね」
「…見てても関係ないんだろ」
「言ってることは正論なんだけどね。何でかしら、このもやもやした気持ちは」
幹は持っていたトレーをうちわ代わりにしてふらふらと仰いでいる。
重いだろうに、それでもしつこく仰いでいる。
「あれは悪ぶっているというより、結構な悪ですよね」
「ああ、そうだね。わかっていてやってるから始末が悪い」
「で、お嬢様はああいうのにも弱いんですよ」
「どういうことだい」
「あら。他の人には愛想よくて自分だけ特別厳しいっていうのも、なんとなく女心をくすぐられるんですよ。
先生は誰にでも優しいから、それはそれでいいんですけど、誰かにだけ特別に見せるっていうのがポイントなんですよ」
「じゃあ、先輩なのに僕には特別厳しい扱いっていうのは、あいつは僕に惚れてるってわけかい」
「あ、あら、それはちょっと、ねぇ…」
困ったように幹が笑ってそそくさと去っていく。
「ふん!悪がどうした。僕は僕のやり方でアタックするさ」
そんなふうに彼がつぶやいたところに、いちゃいちゃし終わったらしい生意気な後輩がやってきた。
「ほっんとーにおまえは性格悪いな。琴子ちゃんをああやって泣かせて実は凄く満足してるんだろ」
「満足?あいつがバカなのが悪いんですよ」
「どうせ泣いたのすらかわいいとか思ってるくせに」
「へー、誰がそんなこと言ったんですかね」
「…いや、誰も言ってないが」
なんだか悪のオーラが漂ってくるぞ、と彼は一歩後ずさった。
「では先生がそう思ってるんですか」
「い、いや、一般的な意見を…」
「一般的な意見ですか」
どうして後輩に遠慮しなければいけないんだろうか、と彼は思ったが、まるで大魔王のような悪のオーラとツンドラのような寒々しい空気が漂ってくるのを感じ、彼は「おおっと、そろそろ検査の時間だ〜」と適当な言葉をはいてその場を逃れたのだった。
後に彼は語る。
「琴子ちゃんに手を出した者は、速攻で処刑だな。
それも周囲にそれとわからないうちに速やかにかつ再起不能な形で。
しかも誰も恐ろしくてそれを指摘できないんだよ。
完全な悪だよ、やつは」
(2011/08/27)2011/08/27掲載
12
あれから数日、彼は次の機会をただひたすら待っていた。
本当はカルテを見たときに頭の中に刻み込んだ住所地に偶然を装って行ってもいいのだが、お嬢様は単独で家の周りをあまり歩かないものだとわかっているし(多少偏見はあれど)、彼女の行動範囲をまだ知っているわけでもないので、待つしかなかったのである。
幸い彼女の病気は2,3ヶ月に一度の通院で済むものではなく、最低一週間に一度は通院しなければならない類のものだったので、さほど焦る必要はなかったというわけだ。
しかも通院すれば確実に完治するというのも安心材料といえるだろう。
「そう言えば、最近調子出ないわね〜」
桔梗幹が開いているページは、何を隠そうあの『ドクターNの婚活にカツ!』のページだった。
「えー、何が?」
「いまいちキレがないって言うか」
「元々そんなのにキレなんかなかった気がするけど」
真理奈は横からひょいと幹の開いているページをのぞいて言った。昼下がりの休憩室での出来事である。
「だいたい婚活のことを語るのに、自分が独身っていうのもいただけないわよね〜」
幹はコーヒーを飲みながら、せんべいをかじる。
「ただ自分が結婚できないからここで文句たれてんじゃないの」
「婚約者でもいるってんなら、まだ救われるのにね」
「それともプレイボーイ気取って俺はいつでも結婚できるってほざいてんのかしらね」
「ああ、あるある、そういうやつに限って勘違いも甚だしいでしょ」
真理奈は思わず手鏡から顔を幹に向けて言った。
琴子はその場にいなかったが、先ほどまで昼休憩で、琴子が座っていた場所に手帳が落ちているのを幹は見つけた。
「あら、また手帳を落としてる」
「琴子って、昼休みによくその手帳見ながらニヤニヤしてるわよね」
「さあ、何か妄想してるんでしょ」
幹はいつものことだと思っていたが、その手帳に何が書いてあるのかは気になった。
ただのスケジュールなのか、何か妄想ごとでも書き連ねてあるのか。
幹が視線を向けるより先に、真理奈が素早く手帳を開いていた。
「あ、ちょっと、勝手にいいのかしら」
そう言いながら、幹もしっかりと開いた手帳のページを凝視している。
「どれどれ」
真理奈は最初のほうにある月間予定をぺらぺらとめくり、何かマークが書いてるのを発見した。
「これ、もしかしたら入江さんと…の日なのかしら」
「えー、でも昨日はマークが書いてあるけど、証拠はなかったわよ」
ここで幹が言う証拠とは、もちろん琴子のあちこちに残されている愛の証…もといキスマークのことである。
普通の人はあまり残さないが、入江直樹は残す。それも人目につくようにわざと、がポイントである。
天才と言えど、独占欲は人一倍なのは周知の事実であった。
「じゃあ、何かしらね〜」
二人してう〜んと考える。
「入江さんにいじめられた日とか」
「そんなの毎日でしょ」
真理奈はあっさり言った。
入江夫妻に対する評価はこんなものである。
「もう、いいわ、次!」
そう言って、いまや真理奈以上にノリノリになった幹の指示により、真理奈は週間予定のページをめくった。
そこに事細かに妄想とも日記とも言えるものが書いてあった。
「…琴子って、こういうことには案外まめよね」
それを見て思わずため息をつく幹。
「うっわ〜、あたしが男だったら絶対嫌だ」
「で、昨日のところには何かが書いてあるのよ」
二人で顔を寄せ合って見てみると…。
『入江くんと検査室でばったり。二人は出会う運命だったのね(はーとまーく)』
「………」
思わず言葉もない二人。
一体どこの片想い少女だ、と内心突っ込んだが、言葉にはならなかった。
「…ある意味、健気よね」
幹の言葉に真理奈は顔を引きつらせて言った。
「もう結婚してる夫婦でこれはないでしょ」
「まあね。あれだけ堂々と昨日しました、な証拠までつけてる妻のやることじゃないわね」
広げて放置された雑誌を横目で見ながら、『ドクターNの婚活にカツ!』の著者にでも教えてあげたいと思う幹だった。
(2011/09/05)2011/09/05掲載
13
何度も言うが、彼は独身主義なわけではない。
時々落ち着いたらどうだと上司から見合いの話も進められるが、どうもお嬢様は苦手だと敬遠していた。
その彼がお嬢様にときめくとは。
今時のお嬢様は、お嬢様とは名ばかりで、案外遊んでいるもので、結婚まで処女というタイプはかなり希少となっている。
もしかしたら一般人のほうが処女率が高いんじゃないだろうかとさえ思っている。
いや、それも今時の女子高生は処女にこだわりがなくて早く捨てたいとすら思っている子も多いから…などと朝っぱらからくだらないことを考えていた彼は、うっかりそれを見逃すところだった。
「おやおやおや〜?」
彼は通り過ぎようとした足を止めると、すかさず壁と観葉植物の陰に身を潜ませた。
生意気な後輩が誰か女性と話しているのが見えたのだ。
相手の女性は影になっていてよく見えない。
しかも、なんでこんなところで〜?と彼は訝しげにもう少し近寄ろうと試みた。
見つかってしまっては面白くもないので、あくまで慎重に、だ。
ちなみにこんなところで、という彼が思う場所は、外来からも遠く離れた人気のない、どちらかというと逢引でもするような場所である。
周りは木が生い茂り、ひっそりとベンチも置いてある。
渡り廊下からは少し離れているため、彼なんかも時々利用したこともある。
患者だろうかと彼は少し近づいた。
移動した場所は、生意気な後輩は見えるが、女性の姿が背中しか見えない。
どちらかというと上品な、どこかで見たような、と彼は記憶を手繰る。
も、もうちょっと…。
先ほどより慎重に近づく。
もしかしてあの生意気な後輩が浮気か?
彼は興味しんしんだった。
もちろん奥方には黙っていてやろう。
ようやく向きを変えて女性の顔が見える位置に………。
…い、い、入江…!!
危うく大声を出すところだった彼は、息を飲み込んだ。
いや、本音を言えば大声どころか罵倒ものだろう。
なぜ、おまえがっという多大なる疑問を胸に、彼は悔しさのあまり身悶えした。
ベンチをこっそり見ている陰でぷるぷると震える白衣を着た中年は、あまり見栄えのいいものじゃない。
念のため一言言っておくと、彼は自分が中年であることを自覚はしているが、公言はしない。
都合のいいときだけしがない中年を演じてみたり、程よい大人の男感を演出はするが、あからさまに中年呼ばわりをされると、後でちょっとだけ意地悪してやろうかというくらいには自分を若いと思っている。
それはともかく、ぷるぷると怒りと悔しさが体中を駆け巡る中、こうなったら浮気の証拠をつかんでやるとばかりに耳を澄ませた。
「おじいさまは今でもあれでよかったとしみじみおっしゃっていますわ」
おじいさままで懇意の仲か!
「それでも、あの短い期間、決していつもあいつのことを考えていたわけではなかったんですよ」
「…ええ。美術館でのやり取りは、今でも心に残っていますわ」
なに?!既にデートを済ませている仲か!
僕ですらまだデートに誘ってもいないというのに。
彼はもっと会話をしっかり聞こうと更に近寄った。
しかし、少々近寄りすぎたかもしれない。
「ちょっと失礼」
生意気な後輩はそう言った途端、真っ直ぐに彼のいるほうに目を向けた。
こんなに離れているのに目が合うとはどういうことだ、と思う間もなく、生意気な後輩がちょっとしゃがんだ姿勢をとった直後、彼は何かガツンとした衝撃とともに目の前に星が飛ぶのを感じた。
…それっきり、彼にその場での記憶はない。
次に彼が気付いたのは、しばらく後にそこを通りかかった患者の悲鳴でだった。
「大変!お医者さんが死んでるわーーーーーー!!」
院内ニュースのトップになったが、彼が何故そこで倒れていたのか、説明できる者はいなかったという(もちろんあのツンデレ大魔王をのぞいて)。
(2011/09/12)2011/09/15掲載
14
彼は額に大きな絆創膏を貼り付けたまま、まだ時々疼く傷跡を気にしていた。
なんてこった。
犯人はわからない、浮気の証拠もつかみ損ねた、散々だ。
浮気の証拠をつかんだと思った途端、彼は何者かが投げた(多分)何か硬いもの(そばに血のついた小石が落ちていた)が額に当たり、昏倒したのだった。
一歩間違えば殺人だぞ、と彼はわめいたが、残念なことに彼の額はかなり丈夫で、若干の傷を負った程度で済んでしまった。ゆえに警察沙汰にならずに済んだ(もちろん病院側が阻止した)。
彼にも後ろめたい事情があった。人の話を盗み聞くという諸々の状況説明を何とかごまかす必要があったせいだ。
あの浮気現場を阻止したのは、もしかしたら生意気な後輩かもしれないが、あれだけ離れていた彼を発見し(会話が微かに聞こえたくらいなので実際にはそれほど離れていなかったと思うが)、なおかつ正確無比に彼の額にクリーンヒットさせるのはかなりの芸当を必要とする(彼は後輩の運動神経の良さを知らない)。
いまいち「犯人はあいつだ!」と糾弾するのも躊躇われた。
無謀を承知で声高に言ってみてもいいが、その後の展開を想像できない以上やめておいたほうが無難だろうという考えに至った。
彼の日常のモットーは当たらず触らず平穏に、だ。
恋愛に関して刺激を求めすぎる傾向はあるが、日常生活ではこれでも慎重派なのだ。
もっとも人に言わせれば、恋愛の刺激を求めるやつに平穏な生活はありえないという矛盾した考えを本人は実行できていると思っているちょっと勘違いな人、というのが彼だ。
そんな彼なので、傷が癒えるまでお嬢様な彼女に会いに行くかどうか非常に悩んだ。
傷跡を見せて同情をかうか。
しかし、どこで傷を負ったのか説明せねばなるまい。
あえて傷には触れずにさりげなさを装うか(それはどうやっても無理だとは思うが)。
彼は病院玄関ロビー横を歩きながら考えた。
自然と足は彼女を探す方向に。
人がざわめく玄関ロビーには、いくつかのソファが置いてある。
人と待ち合わせたり、少し休んだり、タクシーを待ったりするのに都合のよいゆったりとしたホテルのような感じだ。
もちろんホテルと違うのは、そこかしこに車椅子の患者がいたり、パジャマ姿の者も大画面テレビに見入っていたりするところだろう。
ロビーから眺めると、忙しそうに行き来する医療関係者が見える。彼もそんな一人だった。
彼はロビーの中ほどにこわばった顔の奥方を見つけた。
その表情は少しだけ憂いを含み、何事か決断を迫られているような雰囲気である。
しかもそこにやってきたのは例の彼女だった。
悔しいことに、彼女はあの生意気な後輩と知り合いだったというのを彼は知った。
それをもっと詳しく知ろうとした矢先に件の昏倒事件となってしまったわけだ。
もしやこれは、浮気がばれて奥方から彼女に直談判か?!
またもや彼はこそこそと場所を変えながら彼女たちに近づく。懲りない人である。
白衣を手早く脱ぎ、目立たないように当然後ろから近づく。
奥方は鈍いので問題ないとして、彼女にばれるのは非常にばつが悪い。
もしも直談判で彼女が傷ついたなら、すかさずそこにつけ込むのも悪くはないかも。
…などと彼は思っていたが、そもそも彼女が不倫をするような人間だと考えたところが浅はかと言いたいだろうが、ここはひとまず見守ることにしよう。
二人はロビーからは離れていき、あの彼が紹介したカフェへと入っていった。
あんなところで話し合いができるのだろうかと彼は首を傾げたが、あの二人が知り合いだとは思っていないところが既に間違いである。
彼はカフェの入り口で「いらっしゃいませ」と言おうとした店員の口をふさぎ、「しーーーーっ」と大げさに身振りをして、彼女たちから目立たない席に陣取った。
店員は目を白黒させながら何とか彼に従ったが、それを報告に行ったオーナーは肩をすくめて「あの先生は好きにさせておいて」という言葉に水すらも出さずに放っておくことにした。何せ客は次から次へやってくるのだから、構っていられないのである。
彼はまんまと潜入に成功した。
(2011/09/12)2011/09/15掲載
15
「…聞いてびっくりしました」
開口一番、奥方はそう切り出したのを聞いて、彼はそうだろうそうだろう、とうなずいた。
「知らないところで直樹さんにお会いして、嫌な気持ちになりませんでしたか」
「…そんな」
彼女は美しい顔を緩ませて、緊張気味の奥方に微笑んだ。
「直樹さんにお聞きかと思いますが」
「あ、そうだ」
思い出したように奥方は持っていた鞄の中をごそごと探り、何か包みを取り出した。
「あの、これ、今更で申し訳ないんだけど、結婚祝いなんです」
「え、そんな」
け、結婚祝い?!
人妻かっ。
「やっぱり少しだけ後ろめたくて、今どうしてるのかも聞けなくて…だから、本当に今更なんだけど」
「いいえ、うれしいわ、琴子さん」
ど、どういうことだ?
「でも、貧血なんて、がんばりすぎなんですよ」
「大丈夫だと思ったんだけど」
「いいえ。つわりがあってもちゃんと栄養は取らないと」
「…そうね。あれほど貧血が進んでるとは思わなくて」
つ、つわり?!
妊娠中か!
「それも貧血で病院に通って初めて妊娠に気付くなんて、恥ずかしいわ」
そう言って彼女は白い頬を染めた。
カルテの病名は確かに貧血だったのを彼は見たが、さすがに中までは見ていなかったのを悔やんだ。
残念だが、人妻で妊娠中となれば諦めるしかない。
人妻だけならまだよかったのだが…と彼は不埒なことを考えていた。
ゆえに少しだけ影に気付くのが遅れた。
「…外来はもう始まっているんですが、こんなところでお茶とは、随分余裕なんですね」
上から降ってきた暗黒大魔王の声に彼はカフェの椅子にしがみつきながら口をパクパクさせた。
何故後輩にここまで怯えなければいけないのか。
何もかもその後輩が醸し出す不穏な空気がいけないのだと彼はすかさず立ち上がった。
「か、彼女は知り合いかい?」
これだけは聞いておかねば、という気持ちで彼は言った。
「彼女?」
彼の視線を辿り、奥方の向こうの女性に目を向けているのを見た。
「先日彼女と二人きりで話していただろう」
生意気な後輩は鼻で笑って言った。
「ああ、沙穂子さんのことですね。彼女は元婚約者です」
「な、なんだとー!」
きっとこの冷酷大魔王にこっぴどく振られて傷心の彼女は適当な男と勢いで結婚してしまったに違いない、と彼は思ったが、当たらずとも遠からずという具合か。
「そ、そのことは琴子ちゃんも知ってるのか」
「…知ってますよ。彼女を振って琴子を選んだんですから」
あの奥方に彼女以上のどんな魅力がっと彼は驚愕したのだが、どうやらつい口に出していたらしい。一瞬、ほんの一瞬だけ生意気な後輩の眉が上がるのを見た。
「外科外来婦長が至極丁寧にお出迎えしてくださるそうですよ」
しかし、そう言った後は表情をピクリとも変えることなく、それはそれは丁寧に彼に向かって言った。
おまえは死神かっと彼が思ったところで状況が変わるわけではない。
彼は地獄の外科外来婦長が凄い形相で出迎える外来に出向かわなければならない。
彼は名残惜しげに彼女を振り返る。
彼女は奥方と楽しそうに話をしている。
その視線を遮るようにして恐怖の大魔王が立った。
「…その目に映すのももったいない」
彼は自分の耳を疑った。
先輩に向かって言った言葉とは思えなかったが、抗議しようとした口は開けられたまま後ずさるようにしてカフェを出て行った。
彼がデートにすら誘えなかった彼女が、この生意気な後輩の元婚約者だったと?
しかもどう見ても才色兼備のような彼女を振っただと?
彼はよれよれと地獄の外来へ歩いていった。
いつの間に噂が回ったのか、彼は会う人皆に「そういうときもあるわよ」とか「さすがの先生もお嬢様には通用しなかったんですかね」とか「一人くらい振られたってまだ大勢いるでしょ」とか、と口々に慰められた。
いったい誰がしゃべったんだ!と彼は辺りを見回したが、そこにいたのはあの暗黒オーラを身にまとった生意気な後輩だけだった。
まさかあいつが…?
いやいやいや、いくらなんでもあいつがそんな話をあちこちにばら撒くか?
余分な話はしないだろうし。
彼はそう思っていたが、噂が回るのにはほんの少しの情報でよいのだ。
むしろ情報が少ないほど想像力が噂を拡大する。
そんな噂の威力は、学生時代に嫌というほど味わってきた人間がいるのだ。
彼はさすがにそれを知らなかった。
知らずにいて正解かもしれないが。
かくして、彼は病院中の人間に振られ男として扱われ、さすがの彼もしばらく落ち込んでいたという。
『諸君、婚活なんてバカバカしいことはやめたまえ!
いつの時代も一部の者たちだけが常においしい思いをするのだから。
結婚という罠にはまってはいけない。
君のそばのバカップルに騙されてはいけない。
独身者だろうが既婚者だろうが、楽しく生きた者勝ちだということを忘れてはいけない。』
一番最後の分だけ妙に説得力があると評判にはなったが、以後彼に執筆を頼もうとする雑誌社はいなかったという。
(2011/09/13)2011/09/15掲載
ドクターNの婚活−Fin−
(2012/02/13改稿)