ドクターNと好みのオムレット




最近できたどこかうまい飯屋はないかと無料グルメ雑誌をぼんやりと眺めていた。
昔と違ってこういうグルメ雑誌も無料でくれたりするんだから、いい世の中になったものだ。
「先生、またおいしいところ連れて行ってくださいね」とかなんとかかわいい女の子に言われてしまえば、そりゃ張り切って探すのも苦じゃない。
むしろこういう無料雑誌に載っていても、なかなかすぐには行けなさそうなところこそ行き甲斐があるのだ。
女の子たちだって無料雑誌くらいはチェックしている。こういうのにはクーポンがついていたりするしね。
安いところや手軽なところな、今度行こうか、と女の子同士でも簡単に行けるだろう。
しかし、ちょっとしたディナーになると、女の子同士でじゃあ今度行こう、とはなかなかならない。おしゃれなところに行くのは、やはり男と一緒がいい。むしろおごってくれたらラッキー。ついでに合コンなんかもあればなおのこと、とかいう打算がつきものだ。
そこをせこいだのなんだのと言わずにちょっと誘ってあげれば、ちょっとしたデートは簡単だ。その後続けて付き合うかどうかは別だけどね。

「先生、どうか、僕にご教授ください!」
そんなふうにすがるようにして僕の白衣を引っ張るのは、後輩の一人だ。
真面目な彼だが、外科の看護師にゾッコンなのだ。ああ、このゾッコンなんて言葉も今は廃れたね。でも、他に言いようがない。
惚れまくっているなんてかっこいい言葉じゃなくて、デレデレというほど二人は親しくなく、未だ知人以上恋人未満といった感じなのだ。
もちろん相手の看護師だって、彼のことを憎からず思ってはいるし、だからこそ食事にもたまのデートにも付き合うのだ。これで付き合っていないというのもおかしな話なのだが。
「この間青山のレストランには行ったんだろ?」
「ええ!大変喜んでいただけました」
「それなら、それを参考に、そこで喜んで食べたものを中心にまた同じように店探せば、そこそこ上手くいくんじゃないのかな」
「それはそうなんですが、今度はおしゃれな店じゃなくて、気軽に入れるオムライス専門店をと言われまして」
「なるほど。女の子が好きそうな感じだね」
「ですが、僕はそういう店には全く入ったことがなくて」
「うーん、僕もランチくらいでしか入ったことないな」
「そこを何とか!」
白衣をぐいぐい引っ張ってくるので、引っ張り返しながら僕は手に持っていた雑誌を渡した。
「それなら、ここにも少し載っているから、これを参考にしたらどうかな。今話題の店ばかりだから、人気みたいだから一緒に行ってみないかとかなんとか…」
「あ、ありがとうございます!!」
力強くそう言うと、彼は僕の手から雑誌をひったくるようにして勢いよく持ち去った。
彼はこういうことには疎いので、こういう無料雑誌があることすら知らないんだろう。

「あいつ、放っていきやがった」
珍しくそうつぶやいたのは、もう一人の後輩だ。
医局に入ってくるなり放置された箱を見て言ったのだ。
「ああ、なんか必死だったからね。忘れちゃったんじゃないかな」
「品川も余計なことを」
おっと矛先がそこにまで行くか。
きっと今頃は品川君も身震いしていることだろう。品川君こそ、さきほど必死の形相で詰め寄ってきた哀れな後輩の想い人なのだ。
ちなみに今来た後輩はその放置されたものをどうにかして片付けるのかと思いきや、どうにかする前にそこに彼女が現れた。
いや、先ほどの品川君ではない。
「いーりーえーくん」
医局にひょっこり現れたのは、後輩の愛しの彼女…ではなくれっきとした妻の琴子ちゃんだ。
同僚の誰よりもどじっこ気質の彼女は、ただいま妊娠五ヶ月。ようやく安定期といったところだ。
「ああ、今帰る」
なんと、帰る、と?
そう、この後輩こそ、惚れきっているという形容詞がふさわしい。
ちょっと僕より顔が良くて、頭が良くて、背も高い、くそ生意気な後輩は、その恵まれた資質のすべてを愛しの妻に捧げている。
「帰るってことは、この大荷物をこのままにしておくのか」
「…もともと俺の仕事じゃありませんしね。あいつを呼び戻してやらせればいい」
「そうだろうけどさ、たまには少しくらい手伝ってやろうとは思わないのか」
「あいつの仕事を手伝うと、うるさいんですよ」
「ああ、まあ」
「それに、黙って片付けるなんてことをしたら、余計に仕事奪っただのなんだのと言ってくるのが目に見えますよ」
「うん、そうかも」
「そんなに気になるなら、先生が片付けておいたらどうですか。あいつだって、まさか先輩医師に手伝ってもらって文句は言わないでしょう」
「いや、ちょっと待て」
「入江くん、まだ忙しかった?」
「大丈夫だ」
そう言って、振り返りもせずにくそ生意気な後輩は妻を連れて帰っていった。
ああ、そうだよな。
身重の琴子ちゃんより大事なものなんてこの世に一つもないだろうしな。
そうだろう、そうだろう。
だが、しかし!
どうすんだよ、これ!
医局の机に広げられた教授直々のサンプルの数々。
確か整理してどこかに運んでくれとかなんとか…。
こういう時には教授にゴマすり激しい例の後輩がやるって言うのが相場なんだ。
しかも、今日はもう研修医ですら出払っている。
どうする、これ?!
しんと静まり返った医局には、他に誰もいない。きっと意図的に皆帰ったに違いない。
大量のサンプルを前に、僕はすでに敗北を感じていた。
さっさと帰ればよかったよ…。
夜中も過ぎて片付け終える頃、ようやく我に返ったらしいあの真面目な後輩が慌てふためいて戻ってきたのだった。
遅いよ!!
「申し訳ありません。僕に夕飯をおごらせてくださいっ!」
そう言って手にはよれよれになった雑誌を握っている。
無料雑誌もそこまで読まれれば、本望だろうよ。
その日は珍しく真面目な後輩に引きずられるようにして居酒屋に(その時間にはそういうところしか開いていなかった)繰り出したのだった。

(2016/07/15)


To be continued.