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「あら珍しく二日酔いですか?」
そう言われて僕は振り向いた。外科病棟での出来事だ。
ナースステーションの机にぐったりと体を預けていたせいだ。
「違うよ。悪酔いはしても二日酔いはしないというのが僕のポリシーなんだから」
「…なんですか、その迷惑なポリシーは」
「迷惑か?極めてまっとうだと思うんだけど」
間違って男に生まれてしまったとかいう看護師の言葉に返しながら、青い顔で現れた後輩を見た。昨夜一緒に飲みに行くことになった真面目なのに猪突猛進の後輩だ。
ただでさえ青びょうたんなんだから、これ以上悪くなりようがないというのに、とてつもなく顔色が悪かった。今すぐ倒れそうなくらいだ。…そんなに飲んだかな…?
「お…はよう…ございます…」
ぼーっとしたまま挨拶してきたので、僕は後輩を見て「二日酔いかい?」と先ほど自分が問いかけられた言葉を投げかけた。
「い、いえ。不肖この私、そんなたるんだことでは…」
そう言ってびしっと身体を伸ばした後輩だったが、その途端に「う…」と青白いを通り越して土気色になった。
「ここで吐くな、走れ!」
後ろから叱咤された後輩は、言われるがままダッシュで走り去っていった。
ああ、ありゃ今日は使い物にならねえな。
見送った僕は、後ろから叱咤したもう一人の後輩を見やった。
後ろからよくわかるよな、とか思いながら。
「おはようございます、入江先生」
語尾にハートマークでもついてそうな弾んだ声で、間違って男に…ええい、面倒だ、オカマの桔梗君が僕とは全く違う態度で挨拶をした。
「先生、オカマが…とか思いませんでしたか、今」
「…とんでもない、えーと、その、ニューハーフだったっけ?」
「厳密に言うと違いますから」
「何がどう違うんだよ」
「ゲイは、男が男として男が好きな人、オカマは男が女として男が好きだけど、女の恰好を好む人、ニューハーフは、男が女として男が好きで、身体すらも女になりたい人、とでも言えばいいかしらね。アタシは、男に間違えて生まれてしまったと認識はあるけれど、別に女の恰好をしたいわけでもなく、男が好きだけど、男の考え方はしていないの」
「…ややこしいよ」
「いいのよ、わかってくれる人がどこかにいれば」
そんな会話をしているうちに廊下の方から勢い込んで品川君が入ってきた。
「あ、いた!」
僕を見つけると、鬼の首をとったかのように椅子に座っていた僕の胸ぐらをつかんできた。
いや、あの、僕、一応医者なんだけどね。
「先生!余計なこと言わないでくださいよ!」
「な、何だったかな」
そんなふうに返しながら、僕は頭の隅で例のことが頭に浮かんでいた。
「あいつ…」
あいつって、もしかして、例の真面目な後輩のこと…かな。
「あたしの前でオムライスの店の暗唱始めたのよ!」
へ?あ、ああ、雑誌が短時間のうちにボロボロになっていたのはそういうわけか。
「あたしにどうしろって?」
「し、知らないよ」
「雑誌渡したの、先生でしょ?!」
「あー、いや、そう、かな…」
あらぬ方を見て言葉を濁すと、ふん!とばかりに僕から手を放して言った。
「で、その中に気に入った店はあったかい」
「それとこれとは別問題よ!」
まったく…と品川君は手を腰に当てて仁王立ちだ。
「蒼い顔して出ていったけど、品川君にそんなことをする余裕はあったんだ」
僕の言葉に品川君はふんと顔を背けた。
「きっと今頃トレイの便器に顔突っ込んでますよ」
そんな身も蓋もない…。
でもどうやらオムライスデートはするらしい。なんとなくだけどね。
「あー、ところで今日は琴子ちゃんいないね」
「琴子は今日は夜勤ですよ」
桔梗君の言葉に僕はちらりと生意気な後輩を見やった。
「妊娠中でも夜勤やるのか、大変だな」
「そうは言っても人手不足で、本人が了承して身体に異常がなければ、ですね」
背中で琴子ちゃんの話題はちゃんと聞いているのがわかる。
ちょっと前までゲロゲロ吐きまくっていたのだから、大した進歩だ。いや、母体の神秘といったところか。
「それで?先生は随分と朝から気分が悪かったようですが」
「…ああ、そう言えば。人の心配をしているうちに自分の身体は良くなったみたい」
確かに先ほどまでの気怠い感じがなくなった。もちろん仕事へのやる気はまだちょっと出ないけどさ。
「随分と単純な身体ですこと」
「うん、僕もまだまだ若いってことかな」
「単にさぼりたかっただけでは」
「いやいや、そんなことは。僕のこのみなぎる気力を見たまえ」
そう言って拳を握ったところで背後から大魔王の声が響いた。
「さすがですね。では、僕は小児科へ行ってきますので、担当患者の薬出し、お願いします」
「へ?」
振り向くと、僕の背後からすっと気配が消えた。
やつは既に外科のナースステーションを出ようとしている。
「あ、おい、ちょっと?!担当患者って、おまえとかぶってるの七割なんだけど?おーい!」
そう叫んだところで奴が振り向くこともない。
どっちが上司だよ!
そこへすかさず本日のリーダーナースが僕へ容赦のない言葉を浴びせた。
「先生、今日の薬出しオーダーの締め切りは十時となってますので、時間厳守でお願いします」
「え?いつもより早くない?」
「連休前ですので」
「れ、連休?」
「世間は来週連休ですよ。しかも船津先生も消えたまま戻りませんし」
「え、それって…」
「船津に任せているオーダーはもちろん…」
「…残念ながら終わっていません」
「ええっ!ちょっと待て。船津とかぶってる患者も合わせると…」
「急いでください。困るのは患者さんです」
ええーーーー!
リーダーナースの後ろから、何事?という感じで清水主任が僕を見た。
「えーっと、やれば…いいんだよね、やれば」
僕はおとなしく院内オーダーのためにパソコンの前に座ることにした。
いいんだよ、余程のことがなければオーダーなんて前回と同じでいいんだから。ポチッとボタン一つで…。
オーダーを始めてすぐにオーダー自体が上手く動かなくなった。
「あれ?えーっと、えいっ」
おいおい、ここまで来てフリーズかよ。
僕はあちこちいじってみたが、元に戻らない。
「おーい、動かなくなったんだけど」
後ろにいたナースに言ってみたところ、ナースは鬼の形相をして「今からちょうど忙しいんですから、ご自分で何とかしてください!どこかの使えないオヤジじゃあるまいし」と返された。
「…はい」
僕はおとなしく引っ込めた。
確かに今からの時間は受け持ち患者を一通り回って、点滴だの処置だので、病棟ナースは必死だ。
どこかの使えないオヤジってのは、誰かに恨みでもあるんだろうか。
会社勤めだとよくOLが愚痴ってるパソコン使えないオヤジのことか。
いや、僕は使える男だぞ!
もう一度パソコンに向き直っていじってみたら、突然ピーっという鋭い音がして、ブウンとパソコンがダウンした。ブラックアウトだ。
「うわあ」
僕が思わず声を上げると、後ろから何事かとリーダーナースが振り向いた。
「何やってるんですかっ」
鋭い清水主任の声が飛ぶ。
「え…えーと、システムダウン、か…な…」
「この忙しいときに!」
「いい加減にしてくださいよ!」
立て続けに清水主任とリーダーナースの声が追い打ちをかける。
「すぐに電話して!」
「はいっ」
僕は仕方がなくシステム管理室に電話をした。
システム管理室の人はすぐに来てくれたが(どうやら中央管理室でどうダウンしたかもわかっていたらしい)、清水主任とひそひそ会話していたと思ったら、ふーっと清水主任が長いため息をついた。
「先生、何をどういじったか覚えていますか」
「うん?さあ、もう覚えてないな」
「先生のIDは本日使えませんので、今から入江先生に薬の処方をお願いしてください」
「代わりのIDは?」
それにはシステム管理室の人が答えた。
「それも今すぐは無理です。お昼くらいにはご用意できると思います。それまで他の方のIDで検査データ等は見てくださいますか」
言外に、手間を掛けさせやがってというオーラが出ているのは気のせいだろうか。
「仕方ないなぁ」
仕方がないじゃねーよ、おまえのせいだろ、と言われる前に、僕はそそくさとその場を立ち去ることにした。
しかし、一つ大きな問題が。
「くれぐれも、入江先生に急ぎでお願いします、と」
「…急ぎで…ね」
「はい」
あいつに、急ぎで、と他のオーダーも全部、お願い、するわけね。
残念なことに、検査データ位ならその辺にいる看護師のIDを借りてものぞけるが、少なくとも薬のオーダーともなると医師のIDが必要になってくる。
僕は暗ーい気持ちであの大魔神を捜した。
いや、すぐに見つかったんだ、あいつの言い残した通り小児科で。
屈辱的ながら、僕は丁寧にお願いしたさ。プライドもくそくらえだよ。
当然のことながらあいつは無表情でパソコンに向かうと、清水主任もどきの長〜いため息をついた。
オーダー締め切りの十時まであと少し、というところだったが、ヤツは間に合った。
さすが天才入江直樹だよ。
目にも止まらぬオーダーさばきであっという間にオーダーを全てし終えた。
「やあ、悪かったね、システムダウンでさ、ID停止されちゃって」
「サーバーダウンにつながらなくて幸いでした」
「いやぁ、いくらなんでも…」
「…どういじったのか知りませんが、システムそのものをダウンさせる能力があるとは驚きです」
「そんな大げさな」
「今頃は産業スパイでも疑われていないといいですね」
「まっさか〜」
「システム管理室では、そうい疑いがあると即刻管理室側でID停止してダウンさせるそうですよ」
「…冗談、だよね」
「本当かどうか、本当なら上から話があるからわかりますよ」
「そう言えば、管理室の人、清水主任とひそひそ話してたんだよな」
「どちらにしても、午後ももしIDが使えないとなったら…」
「あ、そうなったら、あれこれと頼むよ」
「…あれこれ、とね」
その瞬間、僕はぞっとするようなオーラを感じた。
やばい。
何かはわからないが、何かやばいぞ。
「えーっと、船津先生のオーダーはやってないんだよな。どこ行ったかな、船津先生は」
そう言って、一目散にその場を抜け出したのだった。
危ねー!
危うく何か失うところだったよ。(…命?)
それにしても僕が産業スパイ?
ないない。
…ないけれども。
「あ、先生、医局長が捜していましたよ」
小児科病棟を出たところでいきなりそう声を掛けられた。
「そ、そう?」
まさか。
まさか、ね。
逃げるべきか行くべきか、僕は廊下でしばし立ち尽くしていたのだった。
(2016/07/20)
To be continued.