大きな花の下にて




お盆も過ぎたというのに、まだまだ暑い。
いつから夏はこんなに暑かっただろう。
小さな頃は遊ぶのに夢中で、日が暮れるまで思いっきり遊んでいた。
暑い日差しの外を眺めながら、あたしは痛む足を見下ろした。
テニス部の合宿で捻挫した足は、少しずつ良くなってきたけど、夏休み中はもうどこにも行けそうにない。
入江くんは適当にテニス部に出て汗を流して、本屋や図書館に行ったりしている。
正直、夏だからとか、そういう雰囲気じゃない。いつもと同じ。多分これが春でも秋でも冬でも同じことしていそう。
友だちとどこかに行くわけでもなく(…友だちいないのかも)、渡辺君と会ったりしないのかな。(あたしが知っている入江くんの遊んだりできる友だちって渡辺君しか知らない)
ひょこひょこと変な歩き方で部屋の中を移動すると、思ったよりもどしんどしんと響いたのか、隣から「琴子、暴れるなよ!」と裕樹の声がした。
「暴れてない!」
そう言い返すと、一応シーンとして反論はなかった。
暴れるわけないじゃない、足くじいてんだから。
入江くんはまだ帰っていないのかな。
合宿中は良かったな。
入江くんのそばにずっといられて。
そ、そりゃ鬼のような地獄の特訓はあったけど。
新しい部屋はもうすぐ完成するけど、今はまだ前の部屋のままだ。
きれいに引越ししたはずなのに、元通りになっていたのに驚いた。
もちろん下着類なんかは衣装ケースそのままで運び込まれていたけど、服なんかはクローゼットに新しく入っていたりして、おばさまに感謝だ。
入江くんはまたもや裕樹と同じ部屋に追いやられていて、それはちょっと申し訳ない気はしている。
そんなある日、おばさまが言った。

「琴子ちゃんの足が早く治るように、湯治に行きましょう」
「と、とうじ?」
「温泉よ」
「ああ、温泉ですか」
「ぷっ、何だと思ったんだよ」
裕樹のからかう言い方にむっとしながら、あたしはおばさまの話の続きを待った。
「それでね、いいところがあったのよ〜」
そう言っておばさまはパンフレットを広げた。
露天風呂付別棟旅館と書かれたそのパンフレットには、涼し気な雰囲気の敷地の中に、いくつかの別棟が散らばっている旅館だった。
多分、高級、だよね?
「あ、あの、もしあたしのけがのためだったらもったいないので…」
「あら、この夏は結局どこにも行っていないから、夏の終わりを皆で楽しみましょ」
「うわー、でもママ、この別棟ってたくさん泊まれるの?」
「パパはもしかしたら無理かもしれないわねぇ」
「え、おじさま、お休み無理ですか」
「そうね、お盆は過ぎちゃったし、会社がどうかしらね」
「うちのお父さんは…」
「相原さんは、来られたら、ということだけれど」
「じゃ、じゃあ、それじゃあ」
「ええ。私と琴子ちゃん、それからお兄ちゃんと裕樹の四人ね」
うわー、入江くんと温泉…。
「お、お兄ちゃん!」
裕樹は早速入江くんに報告に行ってしまったようだ。
入江くんは、嫌がる、かな?
報告された入江くんは、既に抵抗する気をなくしたらしく、「いつからだよ」とだけ聞いてきたのだった。

 * * *

温泉地と言えども、暑いのには変わりない。
朝から蒸した空気の中、おふくろの運転する車に乗って、東京からは少し離れた温泉地に行くことになった。
表向きはテニスの合宿中に足を挫いて痛めた琴子の湯治らしいが、単にどこにも出かけていない裕樹とおふくろのためだ。
もう出かけるのにもうんざりしていたところだったのに、こうして連れていかれることにさほど抵抗しなかったのは、大学自体の夏休みがまだ続くからに他ならない。
裕樹の場合は九月の初めから学校は始まるが、琴子と違って宿題は自由研究を残して全部済んでいるはずだ。
自由研究にしても、残りはまとめてお終いなはずだ。
今年は何を研究していたんだっけ?昨年は琴子の観察日記とやらをつけていたのが傑作だった。内容的には少し裕樹の脚色も入ってはいたが、概ね琴子の行動に変わりはないので問題はない。
温泉地は観光地よりも奥に行くにつれてホテルなどの大きな旅館もまばらになる。
近くを流れる川は、蒸れた季節を少しだけ涼し気に見せている。

「入江くん、ほら、あそこにサルが!」
「お兄ちゃん、この川で何か捕れるかな」
「魚がいたとして、その道具は?」
横から琴子が意地悪気に聞く。
「ああ、サルが乗っているかと思った。言葉を話す珍しいサルだなと思ったのに」
「誰がサルよ!」
と言いつつ、琴子は吹き出しでもあったらウッキー!と唸り声を上げていそうな様子で裕樹に言い返している。
この二人はこの車中でずっと付かず離れず、俺よりも姉弟らしい喧嘩を繰り広げている。
「…うるさい」
俺の一言でさすがに黙る二人。
それも長くは続かず、「ねえ、入江くん、温泉まんじゅうって、温泉を使ってるのよね」と怒られたことなどどこ吹く風だ。
俺はそれに答えることなく無視を決め込んで、目をつぶった。
最初からそうすればよかったのに、あまりにもうるさ過ぎてそうすることすら忘れていたのだ。
ところがもうわかる通り温泉地に着いているので、目をつぶってほどなくして旅館に着いた。
少し離れたその地は、周りを原生林なのか後で手入れして植えたのか不明だったが木々に囲まれていて、ところどころ建物が分散して見える。
「わーい、着いた!入江くん、ほら、着いたよ!」
言われなくとも見ればわかる。
勢いよく車から降りて、あちこちを見回している。とても大学生には見えない。
裕樹の方がよほど落ち着いている。
「おばさま、荷物持ちますね」
「あら、いいのよ、琴子ちゃん。お兄ちゃんに持たせれば」
「俺はポーターじゃねぇ」
「大丈夫です、おばさま。あたしこう見えて結構力持ちなん…」
そう言っておふくろの荷物まで持とうとした琴子だったが、持ち上げた時点で自分が足を挫いていることを忘れていたみたいだ。さすが、バカ。
「どけ」
そう言って仕方なく荷物を複数持ちあげる。
どうして女の荷物はこう重いんだ。いったい何が入ってやがる。
「あ、ありがとう、入江くん」
おとなしく荷物を俺に任せることにしたようだ。そりゃそうだ。何のために湯治に来たんだか忘れる方がどうかしている。
そのままフロントまで行くと、支配人が出迎えた。
「入江様、いらっしゃいませ。社長には大変お世話になっております。支配人の山本です。このたびはご利用ありがとうございます」
やはり親父の伝手だったのか、支配人が直々に部屋に案内するという。
荷物も預けて案内された部屋は、旅館というよりはコテージといった方がふさわしく、それぞれの部屋が別棟になっているタイプの部屋だった。
つまり、俺たちが泊まる部屋は独立していて、他の別棟はうまく隠されていてここからでは見えないようになっている。
そして、その別棟の中には部屋が三つ。
座机の置いてある部屋をはさんで両側に部屋がある。つまり、そこを男女に分けようというつもりらしい。
「わあ、すごいね、入江くん」
「あ、温泉?露天風呂があるよ、ママ」
各部屋にはもちろん露天風呂がそれぞれついている。
大浴場もあるにはあるが、各部屋の独立した開放的な露天風呂が売りなのだ。
「まずは大浴場にも行ってみましょう」
そう言って、おふくろは琴子を誘って早速風呂の準備をしている。
「お兄ちゃん、僕たちも行こうよ」
「ああ、そうだな」
せっかくなので、夕食までの間に大浴場の方に行くことにした。
荷物の置かれた部屋はもちろん新しい。
それなのに、どことなく暗い感じがする。
思えば、既にこの時に何か嫌な感じを持っていたのだ。
「お兄ちゃん、準備できたよ」
裕樹の声につられて、そのことはとりあえずそれ以上考えなかった。
着いたばかりで難癖をつけるには、部屋は申し分ないくらいだったのだ。

(2016/07/15)


To be continued.