10
その夜は、本当に何も起こらなかった。
あれほど怖かった夜も、ぐっすりと眠ってしまって、目が覚めたらさわやかな朝だった。
結局、ひまわり畑で何があったのか、誰かいたのか、全くわからなかった。
玄関に置かれていた額は、入江くんの手によって元の位置に戻してあった。
ただし、あのお札もはがしてあって、結局何だったのか、よくわからないままだ。
お札をはがしても何もなかったことを考えると、やっぱりいたずらだったのかなって思う。
ひろむくんにお札のことを聞いたら、僕じゃない、と言った。
誰かお客さんのいたずらかもしれない。
こんなふうに騒ぎ立てる誰かを想像していたのかもしれない。
額はよく見ると、花畑に囲まれた女の子の絵だった。
ああ、そう言えばあの記念館にあった絵とよく似ている。
もしかしてあの記念館の画家が描いたのかも。
そう思うと、それも貴重な気がしてくる。
別棟に戻る途中、ひろむくんには「おねえさんはかこちゃんにあえなかったのかぁ」と残念そうに言われた。
うん、あたしもどんな子か会いたかったな、と言ったら、「なんでおにいちゃんはあえたんだろう」って。
かこちゃんも女の子だから、かっこいい入江くんに会いたかったのかな。
「うん、でも、かこちゃんは、おじいちゃんとこどもしかあえないんだって」
「じゃあ、裕樹くんは?何で入江くんは?」
「ぼくもよくわかんない」
そう言ってひろむくんは首を傾げた。
「おねえさんは、あのおにいちゃんがすきなの?」
「えー、やだー、そんなはっきりと」
「そうなんだ。…ああ、そっか」
ひろむくんはうなずいた。
「ねえ、何がそうなんだって?」
「うん、あのね」
そこでひろむくんは入江くんの方を見た。
入江くんはじっとこちらを見ている。
「…やーめた」
「え、何、何なの?教えて、ひろむくん」
「だって、あのおにいちゃんこわいもん」
そう言って笑って入江くんを指さした。
「えー、入江くん、こんな小さい子脅さないでよ」
入江くんは「別に」と不機嫌そうだ。
「それじゃあね、おねえさん」
「うん、じゃあね」
そう言って手を振ったら、入江くんが戻っていくのを見てそっと言った。
「おにいちゃん、おとなぶってるけど、こどもだよね」
「へ?」
入江くんが、子ども?
それ、どういうこと?
もう少し、ヒントを!
ひろむくんはそのまま本館の方に走って戻っていった。
そんな会話が気になったけど、ひろむくんは翌朝、あたしたちの前には現れなかった。
夜更かしして起きれなかったのか、女将さんに怒られたのかもしれない。
「琴子ちゃん、何だかんだと湯治にならなかったわねぇ」
「そんなことないです。お風呂、何回も入っちゃいましたし、足も大丈夫ですし」
「ああ、家にも露天風呂が欲しいわねぇ」
「でも、こういうところで入るから特別感が味わえていいんだと思います」
「そうねぇ、そういうものかもしれないわねぇ」
おばさまはそううなずいた後、「で、お兄ちゃんとは何か進展したかしら」とこそっと聞いた。
「残念ながら」
そうは言ったものの、入江くんと間接キッスもしちゃったし、手もつなげたし、ちょっとはいいことあった、かな。
この夏、結構楽しかった。
お父さんと二人だったらこんなことないものね。
思い出もちょっとだけできて、よかった。
* * *
おふくろと琴子が二人でまたろくでもない会話をしている。
裕樹は「勝手なこと言ってるよね。迷惑かけてばっかりだったのに」と言うが、部屋の額をまだ恐々と眺めた。
あれだけ怖がっていた琴子があっさりと受け入れたことに裕樹自身が驚いていた。
「琴子って、鈍感」
確かに、あれほど怖がっていたこともすでになかった感じだ。
こっちとしては琴子が知らない事情がなんとなくわかったこともあって、かえって複雑な気分だ。
結局、あの女の子の正体はわからない。
もしかしたら、座敷童とかそういう類の何かだろうか。
ここは東北ではないし、そういうものがどの辺にまでいるのか知らない。
どこにでもいるものなのかも調べたことがないので知らない。
だいたい、座敷童がいたとして、それが何の得になるのだろう。
座敷童を見ると幸運が訪れるならいいが、もたらされた言葉があれでは、喜んでいいのかすらわからない。
「あれ、結局何だったのかな」
「さあ。座敷童とかの類かもな」
そう言えば、裕樹は「あー、なるほどぉ」と何故か納得したようだ。
「じゃあ、あの座敷童が怖くて追い払うために誰かお札を貼ったのかもね。でもお札って、多分効かないよね。それに座敷童って幸運をもたらすって言うから、追い払ったらそれはそれでもったいないかも。あ、じゃあ、僕たち、ちょっと幸運に恵まれるかな」
「…そうだといいな」
そんな話をして別棟を出て、おふくろは本館へあいさつに行った。
俺は荷物を運ぼうと別棟の小道を歩き出したところ、何かがコン、と頭に当たった。それは軽い音を立てて小道に落ちて転がった。
「なっ…?」
何だよと怒鳴ろうとして、ふと気づいた。
落ちてきたのは、空のペットボトルだ。
あの日、ふただけを残して消えていたのと同じ水のペットボトル。
腹立ちまぎれに飲み干して、テーブルの上に置いたはずの。
そして、誰もこのペットボトルを放り投げることなんてできない。
皆は俺より前を歩いていて、真上から落とすなんて芸当ができるはずはない。
頭上には何もなくて、上から放り投げることも不可能だ。
おまけにこんなものが上の方から放り投げられたら、それなりにダメージがあるだろう。
このペットボトルは、それこそすぐ上から、落とされた感じだ。
まさか。
思わず振り向く。
誰もいない。影すら見えない。
額といい、ペットボトルといい、座敷童はいたずら好きだとは何かで聞いた覚えはあるから、そういうことか。
そのまま放置するのも何なので、ペットボトルを拾う。
「入江くん、どうしたのー?」
琴子が一向に来ない俺を気にして振り向いた。
そのまま荷物を持って車の方へ行くついでに拾ったペットボトルを琴子に押し付けた。
「何、これ」
「やる」
「え、どういうこと?ゴミ?!」
押し付けられたペットボトルをしげしげと見て、何かひらめくことがあったのか、琴子は顔を赤らめて「う、うん、片付けておくね」とペットボトルを鞄の中にしまった。
持って帰るつもりか?と突っ込みたかったが、どちらにしても今ここで捨てる場所はないので放っておくことにした。
琴子がどう解釈したのか、俺は知りたくない。
家に帰ればまた同居生活の始まりで、騒がしい毎日になるのだろう。
「入江くん、また明日からもよろしくね」
遠慮がちに、それでいてしっかりと琴子がそう言った。
よろしくはしてやらねーよ。
そう思った途端、一瞬誰かが笑った気がした。
後ろを振り返る。
もちろん誰もいなかった。
上り始めた太陽がただまぶしかった。
「どうしたの、入江くん」
「いや」
何も。
ただ、不思議と気味の悪い感じはなかった。
笑われたことが少し引っかかるくらいだ。
「また来たいな〜」
呑気に琴子がそう言った。
背後で誰かが笑う。
笑って、またおいでと言った気がした。
まさかな。
バカなことを考えたと頭を振った。
* * *
「久しぶりよねー」
そう言って琴子がはしゃぐ。
あれから何年がたったのか。
琴子がもう一度、どうしても来たいと言ったので連れてくることになった。
あの旅館はなおも健在で、観光地も何も変わっていなかった。
ある意味レトロで新鮮かもしれない。
あの頃、ああやって拒絶していた感情を、結局は土壇場で優先した。
結果的に家族を連れてここに来ることになるとは、思ってもいなかった。
受付を済ませて別棟に行こうと本館を出たところで娘は一人で走っていき、慌てて戻ってきた。
「パパ!おんなのこがいた!」
ああ、と俺はうなずく。
戻ってきて一番にそう報告した娘を抱き上げると、「こんにちは」と大人びた声であいさつをする少年がいた。
「こんにちは、お世話になります!」
「お久しぶりですね、お姉さん」
「え?」
「ひろむです、憶えていませんか」
「え?あ、旅館の子ども?」
「そうです。宿泊者にお名前見つけて、お待ちしてました」
「そうなの?えー、わー、大きくなっちゃって」
「こんにちは!」
大きな声で娘が言うと、「こんにちは」と笑う。
あのころの面影がないとは言わないが、すっかり成長しているので不思議な気分だ。
「結婚されたんですね」
「ああ」
「あんなに否定していたのに」
「そうだな」
「今も多分かこちゃんは健在みたいですよ。僕はもう会えませんが。それから、あのひまわり畑、爺さんが亡くなってやめようかと思ったんですが、地元の人たちががんばってあれから毎年育ててくれて、すっかり名物になってしまいました」
「そうみたいだな」
娘がはしゃいでいた理由はそういうことなんだろう。
「娘さんはもうかこちゃんを見たようですね。さすがです。ゆっくりとご滞在ください」
旅館の息子らしくそう言うと戻っていった。
前と同じ別棟が取れないかと予約をしたが、なかなか大変だった。
何かの気配がする、という客は少なからずいて、それを逆手にとって座敷童の宿として有名になっていたからだ。
「パパ、かこちゃんってだあれ?」
「かこちゃんは…」
さて、なんて説明するべきか。
普通に座敷童と言ったら、そんなものじゃないと怒られそうな気もした。
「ママ知ってるわよ!昔からお宿にいる女の子なの」
横から得意満面で琴子が言った。
「ぷっ」
思わず吹き出すと、琴子が「なによ―、本当のことでしょ」とむくれる。
会ったこともなかったくせに、と揶揄すれば、あれはタイミングが悪かっただけよ、と言い募る。
「パパはかこちゃんと会ったのね」
「ああ、そうだよ」
不本意ながらね。
今ならわかる。
子どもっぽい、ただの意地悪をする子どものような俺。
座敷童とはただの子どもではない。
子どもを見守る守り神のようなものだ。
ただ、笑っていたのだろう。
意地悪をする俺を。
そして、多分憤ってもいたに違いない。
落とされたのが空のペットボトルでよかったよ。
よく来たねと今度は歓迎してくれるだろう。
まるで未来のこんな日を知っていたかのように、またおいでとあの日見送ってくれたのだから。
「後でひまわり畑に行きましょうね!」
今度は、琴子と三人、手をつないで。
あのひまわり畑へ。
(2016/09/16)
大きな花の下にて-Fin-