大きな花の下にて




ひろむくんが急に走り出した気配がした。
こんな暗い中を危ない、と思って、引き留めようと追いかけた。
すぐに追いつくと思っていた。
思っていたけど、あたしは今浴衣姿で、下駄で、治りかけとは言え足を痛めていて、しかも手にかき氷を持っていたのをきれいさっぱり忘れていた。
後で入江くんにどうしてそれだけのことをきれいさっぱり忘れるんだ、と呆れられた。
でもその時は何かわからないけど、暗くて危ないしとか、どこへ行くんだろうってことが思い浮かんで、追いかけなくちゃって思ったの。

結果的に、ひろむくんは皆より少し離れた場所に立っていた。
何か言っている。
少し離れてしまうと花火でちゃんとは聞こえない。
誰かに何か言ってる?
誰に?
どこに向かって?
ああ、もう、鳥目って不便。
追いついた、と思ったら、ひろむくんは今度は坂を下り始めた。
「どこ行くの?!」
ひろむくんに声をかけると、「かこちゃんが、ばいばいって」と焦った様子だ。
あたしも焦って、ひろむくんの後に続こうと思ったのに、足が突っかかってようやく気付いた。しかも片手にかき氷で、入江くんがくれたかき氷を無駄にしてはという思いが働いて、あたしはバランスを崩した。
そのままばたりと倒れてしまうと思ったところで、誰かの腕に支えられた。
そのたくましくも頼りがいのある腕は、なんと入江くんだった。
「入江くん?」
「バカか!」
…う、結論から言えばバカだと思うわ。
でもかき氷は死守したのよ!
「おまえはそこでかき氷でも食っとけ」
え、入江くんは?
気が付くと、入江くんはそのままひろむくんを追いかけてくれるようだった。
…何で?あたしの代わりに?
それともあたしを追いかけてきてくれたの?
それなのにあたしを置いていくの?
じゃあ、やっぱりあたしを追いかけてきてくれたわけじゃないんだ。
あれこれいろいろあったけど、全ての謎はひろむくんが握っている、と言ってもいいのかもしれない。
でも謎自体は部屋で起こったことだし。うーん…。
花火があがっているけど、明かりはそれだけで、鳥目なあたしが片手で坂を下っていくのは正直無理かもしれない。おまけに浴衣だし、下駄だし。
だから、まずは入江くんの言う通り手に持ったかき氷を片付けてしまうことにした。
あたしは今までにないくらいの早さでかき氷を食べた。
別にそのままそこに置いて行ってもよかったんだけど、せっかく入江くんがくれたんだし、とか考えたらもったいなくてそのままにしておけなかった。
うー、キーンと来た。
でも食べ終わって、それを手にぐしゃっとつぶして握りしめると、あたしは浴衣の裾を少し持ち上げて、下駄も脱いで坂を手探りで下り始めた。
どうやらほんの少し下ったところで平らになったらしいと感覚でわかったところで下駄をはき直す。
「い、入江くーん」
呼んでみるけど、ひまわり畑からは何も返事はない。
向こうの方で少しがさっと音がする。
その音の方に向かって歩いてみた。
ひまわりは夜でも変わりなく立ちふさがっている。
その上には花火。
時折花火の明かりでひまわりの花が輝く。
こんなふうでなければそれはとてもロマンチックだっただろう。
「ひろむくーん」
なんで誰も返事してくれないんだろう。近くにはいなんだろうか。
でも広大な土地でもなく、旅館のそばのひまわり畑なわけだし、ここで遭難するわけじゃないし、せいぜい迷子になるくらいよね。
どうしてあたしはこんなところでひろむくんを追いかけることにしたのだろう。
多分、ひろむくんがかこちゃんという女の子に会いたくて捜していることに、あたしはどこかでちょっと共感していたのかもしれない。
あたしは入江くんを追いかけて、追いかけて、一緒の家に住んでいたのにいつだって入江くんの姿を見たくて、少しでも見たくて教室に行ったりしていた。
入江くんの家を出てからしばらく、入江くん不足になりそうだった。
入江くんがそばにいるのが当たり前になっちゃいけないって思っていたのに、いざ家を出てしまうと、それがどんなに幸運だったのかを思い知ったのだった。
ああ、ぜいたくだ。
ちょっとでも入江くんの目に留まればラッキーだったのが、入江くんと話もできて、一緒に家に住んで、それ以上を望んでいたなんて。
でも、乙女としてはそれ以上を期待してしまうのは仕方がないことなのよ。
そんなことを考えた後、あたしはまたひまわり畑の周りを歩き出した。
皆がいる方に行けば、あたしが何をやっているのかとおばさまも裕樹もわかるはずだったのに、鳥目のあたしはそちらとは反対の方向に向かっていた。
皆の方に向かっていると思っていたのに、あたしはやっぱりバカだ。
「おーい」
風がさっと吹くと、ひまわりが揺れる。
あ、確かそんな歌あったわよね。
ざわざわだったかしら。(←ざわわです)
少し心細くなってきた。
風が吹くとざわってひまわりが動いて、ここを通さないぞって言われてるみたいで。
いや、通らないけど、と自分でツッコミ入れながら、暗闇の向こうをのぞいてみる。
…うん、何も見えないし、聞こえない。
上で開く花火の音だけが響く。

 * * *

琴子の後を追ってすぐに、皆と少し離れた位置で琴子が立っていた。
琴子の少し向こうに子どもが立っているのが見え、坂を下り始めた。
琴子はかき氷片手に「どこ行くの?」と声をかけている。
そのまま追いかけようとして、草に足をとられた。
あのままでは転ぶ、と思ったら、つい体が動いた。
人に借りた浴衣を汚すな、という衝動だったのかもしれない。
腕の中にそのまま琴子を支えて立たせると、まだ追いかけようとする琴子をにらんでかき氷を食って待ってろと言った。にらんでも鳥目のこいつには見えなかったらしいが。
このままではきっと琴子は再び追いかけようとするだろう。
何故あの子どもを追いかける必要があるのか知らないが、このまま放っておけばいいだろうに。
このまま放っておいても琴子が追いかけて面倒なことになるのは目に見えている。
子どもを連れ戻すかとひまわり畑に下りた。
子どもは走ってひまわり畑を走っていく。それこそ転びそうになるのも構わずに。
途中で姿が消えた。
ひまわり畑の中に入っていったようだ。
子どもなら簡単に入っていくことができるだろうが、こちらは図体のでかい男だ。
琴子ですら躊躇したひまわりの間を入っていくのは結構大変だろう。
ひまわりを掻き分け、「おい」と強めに声をかけた。
子どもはほんの数メートル先に立っていた。
その先に誰かがいるらしい。
暗くてよく見えない。
花火の明かりも時々しか届かない。
懐中電灯があれば楽だっただろう。
子どもは俺の声に驚いて振り返ったようだった。

「かこちゃん、待って」

多分、あの女の子のことだろう。
何故こんなところにいるのか知らないが、いい迷惑だ。
なおもひまわり畑を進むと、ぼんやりと女の子が見えた。
女の子はしゃべっていない。
しゃべっていないのに、男の子の方は何事かしゃべっている。
会話になっていないだろ、と思う。
「誰がいるんだ」
そう聞けば、「かこちゃん」と男の子は答える。
「誰だ、それは」
「…おじいちゃんのしりあい」
部屋にあった額の絵を思い出す。
「もしかして、あの絵のモデルか」
「にてるけど、わかんない」
「どういうことかわからないが、こんな時間にこんなところにいたら家族は心配するぞ」
「もう、かこちゃんにあえないのかな」
男の子にゆっくり近づくと、女の子は一歩後ろに下がったように見えた。
俺が近づくのが嫌なのか。
「らいねんは、かこちゃんにあえるかわからないって」
「もう来ないってことか」
「ぼくにもよく、わからない。おじいちゃんは、もしかしたら、らいねんからはしばらくあえないかもって」
「どこの誰かもわからないのか」
「…うん。おじいちゃんもおしえてくれない。おかあさんはしらないって」
そろそろ花火も終わりに近づいてきたのか、連発した花火が頭上で次々に開いていく。
琴子が何か叫んだような気がしたが、それも花火の音にかき消された。
「…かこちゃん、いっちゃう」
ひまわりの向こうに、確かに女の子はいる、と思う。
思うが、それは花火の明かりにちらちらと映る影絵のようだ。
本当にあれは、現実の女の子なのか。
俺はようやくそこで違和感を認めた。
ずっと、何かおかしいと思っていたそのことが、今になってようやく認める気になった。
琴子は見ていないのに、どうして俺に見えるのかはわからない。
「かこちゃんはね、こどもとおじいちゃんくらいにならないとあえないってこのあいだいわれたの。
がっこうへいくようになると、しぜんにあえなくなるかもって」
それなら、俺がぼんやりとでも見ているのはどういうわけだ。
「おにいちゃん、おねえさんにいじわるしてたでしょ」
琴子がおねえ『さん』で俺がお兄『ちゃん』なのは、どういうわけだ。
「かこちゃんが、すきだからっていじめちゃだめだよって」
好きじゃない、と反論しても多分聞いてはくれないんだろう。
それでも一応反論しておく。
「そもそも意地悪じゃなくて、琴子がバカなのが悪い。それから、あいつは好き嫌いの対象外だ」
「うん?そうなの?」
ドン!と最後の花火の打ち上げが終わった。
二人して見上げた後、男の子が叫んだ。
「あ、かこちゃんがいない!」
短い、ほんのひと時の花火大会だった。
一番大きな締めの花火だったのだろう。燃え尽きる音がチリチリと聞こえるかのような余韻の火の粉が落ちていく。
「…きえちゃった」
いっちゃった、ではなく、消えちゃった、か。
完全に暗闇になったひまわり畑は、風に揺れてがさがさとひまわり同士がこすれる音がする。
「戻るぞ」
そう言えば、男の子は「うん」と素直にうなずいた。
結局、あれは何だったのか。

ひまわりの間を抜けて、戻っていく途中でバカ面が現れた。
「あ、入江くん、よかった〜」
何の屈託もなくにこにことしている琴子があまりにも平和すぎて、間抜けすぎて、力が抜けそうだ。
「ひろむくんもよかった〜」
何が良かったのか言ってみろ。
「気になったから来たはいいけど、やっぱり見えなくって」
「上でおとなしくしてろって言っただろ」
「うん、でも心配になって」
「で、あの坂一人で登れるんだろうな」
「あ、うん、えーと、ちょっと入江くんには見せられないかな」
そう言って、浴衣の裾をいじっている。
何となくわかったが、ここでまたそれを披露するのか。
坂の上に立ち、琴子に手を出した。
「早くしろ」
「え、う、うん。ありがとう」
琴子が慌てて俺の手を握る。
坂の上まで引っ張ってやりながら、それでも琴子は足をとられてよろめいている。
下りるときはどうやったんだか。
「ところで、ひろむくんはどうしてひまわり畑に行ったの?」
男の子は琴子を見上げて言った。
「かこちゃんにばいばいしにいったの」
「え、かこちゃん、帰っちゃったの」
「…うん、たぶん」
「そっか〜、会ってみたかったな」
「おにいちゃんはあったよね」
「えー、ほんと?」
期待に満ちた目でこちらを見る。どんな女の子か説明しろってことか?
「さあな」
何となくそれが腹立たしくて、坂の上に着いたのをいいことに、琴子の手を放した。

「まああ、お兄ちゃん!しまったわ〜、カメラ持ってこればよかったわ」
「や、おばさま、そんな」
その瞬間、日常が戻ってきた気がした。
どうやら花火が終わってもなかなか戻ってこない俺たちを気にしてこちらの方へ来たらしいおふくろと裕樹がいた。
「ママ、どうせこんな暗くっちゃ映らないよ」
「もう、こんなふうに手をつなぐなら、今度は夜間も暗闇もオッケーなカメラを買わなくっちゃ」
「そんな無駄遣い必要ない!」
そもそも手をつないだわけじゃなく、手助けしただけだ。
いつまでも坂の下に放っておいたらそれまたうるさいくせに。
「あ、あら、この子が例の男の子ね」
「…こんばんは、はじめまして。いらっしゃいませ」
「こんばんは。さあ、僕ももう戻りましょうね」
「はい」
男の子は素直にうなずいた。
少しだけひまわり畑を振り返ると、「ばいばい」と小さくつぶやいた。

( 2016/09/16)


To be continued.