前々から心臓に気をつけろと言っていたのに。
それも、俺と会社を継ぐ継がないの口論の末に。
1.革命のエチュード
一時的なつもりで会社を手伝うと宣言した。
ところが、手伝うどころじゃない。つぶれる寸前の会社を立て直さなくてはいけないことがわかった。
俺と口論しただけでオヤジが倒れるなんて、本当は思っていなかった。
他にも何か心臓に負担をかけるような出来事があるのだろうとは思っていたが、正直ここまでとは思わなかった。
会社で疲れて帰れば、家では琴子が新婚気分で出迎える。
どうせおふくろの入れ知恵に違いない。
まずい飯を食わされ、とんでもない弁当を持たされ、俺は会社と家を往復する。
俺がどんなに会社で働いても、琴子がどんなに家事をがんばっても、おふくろがどんなに看病しても、裕樹がどんなに手伝っても、おやじは再び心臓発作を起こした。
俺は半分あきらめていた。
このまま大学に戻ることはないかもしれない、と。
病院でノンちゃんに会って、つかみかけていた夢をとりそこなった気がした。
その日の夜、先のことを考えるとどうしても眠れなかった。
明かりを消したリビングのソファに座り、俺は暗闇を見つめていた。
…医者になりたい。
それは初めて自分からつかみ取ろうとした夢だった。
しかし、おやじのことを考えると、このまま自分だけが夢を見ることはできなかった。
階段を誰かが下りる音がした。
見事な鳥目らしいあいつが、手探りで水を飲もうとしているらしかった。
悩んでるのかと聞かれ、俺は珍しく素直になった。
「おやじ本当は」
部屋に戻る琴子をなぜ引き止めて話す気になったのか。
「本当は良くないんだ」
「えっ」
今考えても気の迷いとしか言いようがない。
「このまま悪化したら手術することになるんだ」
相談してもいい知恵なんか絶対に浮かぶわけがないのに。
「し…手術って心臓の…あっ」
もっとよく話を聞こうとして近寄った琴子は、ソファにぶつかって倒れこんできた。
思わず腕を抱えて支える。
見えないくせに本当に不注意だ。
あいつは見えていないようだったが、抱え込んだ腕と一緒にあいつの心配そうな目をのぞき込む羽目になった。
暗闇の中であいつの見開いた目を見つめる。
俺がどんな顔をしているのかも気づいてはいないだろう。
ましてや、どんなことを考えているのかなんて。
「ご、ごめ…」
慌てたように離れる。
お互いの体温だけが腕に残される。
その暖かさが人の証。
そして、琴子に触れた証。
そのまま腕を引き寄せたい衝動を抑えて、おやじの会社の不景気具合について俺は淡々と話した。
そう、また別の夢を見ればいい。
医者になるだけが人生の目標じゃない。
俺は自分にそう言い聞かせる。
琴子に話しながら、自分を納得させようとしていた。
「あの大会社を立て直すのも結構やりがいがあるからな。面白そう…」
不意に、背中に柔らかさと暖かさを感じた。
琴子が俺の背中に抱きつきながら泣いていた。
俺は泣いていなかった。
それでも、泣きたい気分だったのは確かだったから、俺は琴子の重みを感じながら黙って座っていた。
琴子が、俺の代わりに泣いてくれているのだと思った。
多分、こいつだけはわかっているんだろう。
どんなに医者になりたかったのか。俺が医者になって何をしたかったのか。
俺はそのまま身じろぎもせず、琴子が泣きやむのを待った。
誰もいないリビング。
このまま抱きしめてしまえばよかったのかもしれない。
でも、それでは、あまりに俺が情けなさ過ぎるから。
つかみそこなった夢の代わりに、琴子を手に入れようだなんて、あまりに身勝手すぎるから。
きっと琴子は暗闇だからこそ俺に抱きついてきたのだろう。
明るい中だったら、きっとすぐに照れて離れていくのだろう。
そして俺は、暗闇だからこそこうして琴子に抱きしめられたまま動けないのだろう。
もう一度見つめあったら。
…俺にもどうなるかわからない。
そう思ったときだった。
「ぶえっくしょん!」
盛大なくしゃみを俺の肩にぶちまけた。
「おまっ…、鼻水つけるなよっ」
「つけてないわよ!」
慌てて琴子の腕を逃れて飛びのく。
俺は内心少しほっとしてつぶやいた。
「…寝る」
「あたしも寝なくっちゃ」
歩きかけると、琴子はまたソファにつまづきそうだった。
仕方がないので、先に廊下と階段の電気を付けて明かりを示す。
琴子はほっとしたように俺の後から廊下に出てきた。
未来のことはわからない。わからないから、まだ可能性はある。
もしかしたら会社は立て直り、おやじは病気が治って仕事に復帰して、大学へ戻れる日も来るかもしれない。
まだ可能性はゼロではない。
そう思うと、俺は階段を上りながら人知れず笑みを浮かべた。
俺は多分、今日のこの暖かいぬくもりを忘れないだろうと思った。
(2006/07/25)
To be continued.