結婚狂想曲
5.雨だれ〜そして、プレリュード
ずぶぬれの琴子に声をかける。
驚いたように俺を見つめている。
「待ってたんだよ、おまえを」
他の誰でもない、おまえを。
琴子を傘の中に入れながら、俺の中の何かが壊れていくのを感じた。
琴子と二人、傘の下を歩いた。
隣にいるのにまだ遠い。
「あいつと会ってたのか」
「プロポーズされたって?」
「何て答えたんだよ」
矢継ぎ早に問いかけて、安心を得ようとしていた。
雨で視界は悪く、車のライトが乱反射する。
大通りを過ぎ、住宅に囲まれた通りを歩き続ける。
「なっ…、何て答えようが入江くんには関係ないじゃないっ」
自分は他の誰かと婚約しておきながら。
琴子の声が聞こえるようだった。
「そうだな」
俺はそれ以上何も言えなかった。
どうして言える?
婚約しておきながら、琴子には結婚するなと言うのか?
いまさら?
早く他の男とくっついて、俺の視界からいなくなればいいとさえ思っていたというのに。
それなのに、今、琴子が結婚するかどうか、それを考えるだけで息もつけない。
「あたし、金ちゃんと結婚する」
多分それが一番うまくいく。
俺も琴子も会社も全てがうまくいく。
そのはずなのに、俺は違う一歩を踏み出そうとしていた。
「アイツのこと、好きなのか」
雨が降り続く。
「そ、そりゃ、す…好きよ」
視界が雨で煙る。
琴子の言葉が、傘に雨が跳ね返る音と一緒になって、痛いくらいに耳にこだまする。
…違う。
俺はこだまする声に強く否定する。
「ふんっ、おまえは好きって言われたら、好きになるのか」
「な、なによ。悪いっ」
…そんなはずはない。
おまえは単純なやつだけど、いつだって自分の意思で俺にぶつかってきたはずだった。
俺のことが好きで…、いつだって俺の邪魔ばかりして。
今だって、うまくいくはずの縁談をお互い目の前にして、その先に進めない。
「あたしは6年も片想いして、実らない恋に疲れちゃったの。
入江くんは沙穂子さんのこと考えてればいいでしょ!」
…水が、あふれ出る。
悲鳴のような琴子の言葉に、かろうじてせき止めていた想いがあふれ出ようとしていた。
「あたしのことなんて…」
気がつくと、琴子の頬を打っていた。
琴子は頬を押さえながら、たたいた俺をなじって泣き出した。
どうしてこいつはこうバカなんだろう。
俺は琴子の声に負けないくらい大声を張り上げて言った。
「おまえは、オレが好きなんだよ!」
琴子ははっとしたように俺を見つめる。
「オレ以外好きになれないんだよ」
どうして抑えていられたのだろう。
こんなにもあふれるほどの想いがあったのに。
「だけど仕方ないじゃない。入江くんはあたしのこと好きじゃないんだもん」
そういって泣き出す琴子が愛おしかった。
「あたしのことなんて…」
またそう琴子がつぶやいた。
あたしのことなんて好きじゃないんでしょ?
雨粒と共に琴子のつぶやきがこぼれ落ちる。
降り続ける雨の下で、俺の手は震えていた。
琴子の頬に涙があふれ出る。
頬に触れると、冷たさと暖かさを感じた。
親指で涙をぬぐう。
あふれ出した想いは、もう止まらなかった。
琴子を抱き寄せて、キスをする。
…涙と雨の味がした。
キスをしたまま頬に触れると、琴子は暖かかった。
唇を離すと、琴子は俺の胸を押しやり、信じられないといった顔をしてつぶやく。
「だって…、入江くんは…」
キスをしても信じない。
もちろんそれは自業自得。
今まで何も意思表示してこなかった俺の罪。
そして、からかい半分で口づけた過去。
だから俺は強く抱きしめる。
「オレ以外の男、好きなんて言うな」
強張っていた琴子の身体から、ようやく力が抜けた。
やっと伝わったと感じて、先ほどまで震えていた身体をもう一度強く抱きしめた。
「…二回目」
「何?」
抱きしめた俺の耳元で琴子がささやく。
「…キスしたの」
俺はすかさず「三回目だろ」と返した。
戸惑う琴子の耳元にキスとため息を落としながら、清里でのキスを思い出していた。
そう、あのときから、こんなにも好きだったのに、どうして忘れてしまえるなんて思ったのだろう。
「もう数えなくていいよ」
ひび割れた心にゆっくりと愛がしみこんでいく。
渇いた地面が雨で潤うように。
これから数え切れないほどのキスをすればいい。
そうして満たされて、やっと俺は顔を上げた。
「琴子、帰るぞ」
思いついた俺は、琴子の腕をつかんで雨の道を歩き出した。
もちろんもうずぶぬれだったが、琴子は傘も差さずに黙々と歩き出した俺にまた戸惑っていた。
家はもう、目の前だった。
* * *
家に着くと、ずぶぬれのまま何か話をしていた相原のおじさんに向かう。
「お話があるんです」
俺はもう、決めていた。
俺にとって琴子は、おそらく一生に一度の相手だ。
もう、琴子以外、いらない。
多分、琴子ほど愛しく想う相手は現れないだろう。
「琴子さんと…お嬢さんと、結婚させてください」
その場にいた俺以外の全員が、腰を抜かすほど驚いた。
つい今朝までは、俺は沙穂子さんと結婚することになっていたのだから無理もない。
「でもこれからずっと一緒にいるのは、こいつ以外考えられなくなったんだ」
俺は心の底からほっとしていた。
やっと、言うことができた。
どうして今まで意地を張っていたのだろう。
つまらない意地を張り続けて、自分の気持ちにも気づかない振りをして。
「おじさん、承知してもらえますか」
俺の突然の申し出に、相原のおじさんは少し躊躇してから言い出した。
「直樹くん、こ、こいつはね、何にもできないやつなんですよ」
「わかってます」
「頭も悪いし」
「わかってます」
「料理もできないし」
「わかってます」
「おっちょこちょいの早合点で、失敗ばかりで」
「わかってます」
伊達に一緒に住んでたわけじゃない。
多分他の誰よりも俺が一番良く知っているはずだ。
「だけど、明るくて根性もあるし、一途でかわいいやつなんですよ」
「わかってます」
だからこそ、そういう琴子に俺は惚れたのだろう。
「琴子をよろしくな、直樹くん」
「はい」
俺は琴子に向き直って、改めて確かめる。
「いいな、琴子」
「う、うん」
琴子は上気した顔でうなずく。
事後承諾になったが、気にしていないみたいだ。というより、そこまで考えが回っていないのだろう。
おふくろは騒ぎ、琴子は呆然としたまま立っている。
と思ったら、琴子は腰が砕けたように崩れ落ちた。
「琴子?!」
倒れる寸前で琴子を抱きかかえ、横たえる。
「…夢?」
すぐに目を開けた琴子は、俺の顔を見てつぶやいた。
「夢じゃないよ」
そう返した俺に、半泣きになった琴子はへらへらと笑う。
「…やっぱり夢かも…」
…なんでだよ。
俺は思わずむっとしながら、頭を軽く小突いて言った。
「…風呂入って目を覚まして来い」
そう、俺たちはびしょぬれのままだったのだ。
* * *
お互い風呂を済ませてさっぱりすると、やっと落ち着いたようだった。
二人とも二階に上がり、挨拶をして部屋に入ろうとすると、琴子が上着のすそをつかんで引きとめた。
あまりにも今日の俺が違うので、明日になったら元に戻っているんじゃないかと心配している。
そりゃ俺は意地悪かもしれないが、いくら俺でも今回ばかりは明日になったら嘘でしたなどと言うわけがない。
あまりに信じないので、いっそのこと抱いてしまえばさすがに疑いはしないだろう。
…と思ったが、琴子のパニックさ加減とおふくろの狂喜乱舞振りを目にしてしまったので、それはまたの機会にしておくことにする。
まあ、どうせ同じ屋根の下に住んでいるわけだし、親は公認だし?
「本当に…本当にあたしでいーの?」
「ああ。すっかりマゾ的な体質にされたみたいだ」
次に起こる騒動を考えると、それも怖い気がするが。
「大好きだからね、入江くん」
「知ってるよ、十分ね」
結局俺はその言葉に捕まったのだから。
「でも入江くんがあたしを好きなのは知らなかったわ」
そりゃそうだろ。
俺だって知らなかった。
「おまえには降参したよ」
俺は素直に認める。
そして、一生に何度も言わないセリフを口にする。
「大好きだよ」
柔らかくて温かい身体を抱きしめ、俺こそが実感する。
琴子はここにいて、俺は琴子が好きで、他の誰にも琴子を渡さない。
お互いのぬくもりが伝わった頃、やっと琴子の鈍い頭にも浸透したらしい。
「うん、わかった」
明日の朝、雨は上がっているかもしれないが、俺の心にしみこんだ愛は、きっと渇くことがないだろう。
抱きしめあえた幸せが、消えることがないように。
結婚狂想曲(2006/08/01)−Fin−