結婚狂想曲



4.幻想即興曲〜アンプロンプテュ


日曜日はいい天気だった。
おふくろと一緒におやじを迎えに行った。
おやじは退院の祝いの言葉に満足気で、医者が言った忠告はちっとも耳に入っていない様子だった。
家に帰り着いてからも人の言葉には耳を貸さず、見合いの話に興奮して怒り出した。
おい、おい。また発作を起こしたらどうするんだ。このまま、また病院へ逆戻りだけは勘弁してくれよ。
もう受けてしまった見合い話にいまさらけちを付けるなんて、往生際が悪い。
おふくろがそんなおやじを必死でなだめる。
会社のために決めたことを半分申し訳ないと思い、半分はうれしい思いに違いない。
おやじにもわかっているはずだ。
見合い話を受けなかったら、会社がどうなっていたか。
言い合いをしている間に沙穂子さんが着いたようだ。
大泉会長も一緒で、皆のところへ案内すると、一同が驚いて固まった。
そりゃそうだろう。今まで話していた話題の本人だから。
あせるおやじと反対に怒りで興奮しだすおふくろ。
それぞれ紹介が終わると、沙穂子さんは琴子に話があるとベランダに連れ出した。
彼女のことだから何もトラブルは起こらないだろうが、かえって琴子のほうが青ざめている。
二人がベランダへ出てから、何を話しているのかが気になった。
すぐに琴子が飲み物を取りに戻ってきた。
そんな琴子を見て、大泉会長は琴子のことを思い出したようだった。
あの時はまだ、こんな風になるなんて思っていなかった。
同じ家の中、俺たちは別な方向を向いて暮らしている。
今までだってたいして気が合っていたわけじゃない。
だから俺は振り向かない。
そう決めたのだから。


 * * *


「メトロポリタン美術館展をやっているんです。ぜひ、直樹さんの感想もお聞きしたいわ」

そう言った沙穂子さんからのデートの誘い。
また彼女から誘わせてしまった。
本当は俺からデートを誘うべきだろう。
慣れない仕事の忙しさに、つい誘いが遅れてしまった。
車で美術館まで送ってもらうつもりでいたが、渋滞のひどさに途中で降ろしてもらい歩き出した。
彼女が一緒に歩きたいと言ったのだ。
ビルの角を曲がった途端に前を歩いている人影に気づいた。
琴子と金之助だった。
彼女も気づき、無邪気に声をかける。
声をかけられた二人は顔を引きつらせて挨拶を交わす。
二人の頭の悪さを知らない彼女は、美術館に二人を誘う。
絶対に来るわけがない。
仲良さげに寄り添う二人に知らずうちに口をついて出る。

「彼らは彼らのレベルがあるんですから、二人にとっては苦痛になるはずですよ」
「レベル…?」

怒り出した二人に構うことなく嫌味がするすると出てくる。
そうやって散々怒らせた後、二人は俺たちの前から脱兎のごとく駆けていった。
そんな俺を『らしくない』と沙穂子さんは言った。
彼女の前ではいつも紳士らしく振舞ってきた。
もちろん彼女に嫌味を浴びせることなんてないはずだ。
これから先も。
彼女は聡明で、理想の女性だからだ。
どちらが本当の俺だったかなんて、…もう、忘れてしまった。


 * * *


あのデートの日から、琴子と顔を合わせなくなった。
出かける時間も帰ってくる時間も違うし、出かける場所さえも今は違う。
俺は会社に出かけ、琴子は大学に出かける。
嫌になるくらい顔を合わせていたのに、ぱったりとお互いのスケジュールさえ把握できなくなった。
今までは、琴子が俺のスケジュールをチェックして、一緒になるように行動していたからだったのだ。
同じ家に住みながら、前とは違う。
季節はいつの間にか夏から秋へと変わり、俺はいよいよ沙穂子さんとの結納の話まで出ていた。

そんな中、珍しく会社休みの日に大学に行くことにした。
ずっと休学してはいたが、このまま大学をやめることになるかもしれないと、いよいよ覚悟を決めて荷物を取りに行ったのだ。
テニス部の横を通ると、相変らず須藤さんの怒鳴り声が聞こえた。
ただ、その怒鳴り声の相手は琴子ではなかった。
聞くと、最近はサボりがちだと言う。
松本にも会った。思ったより元気そうだった。
うぬぼれているわけではないが、あれほど俺にアタックしてきたのは琴子と松本だけだったのだから。
何もかもが懐かしくて、何もかもがもう取り戻せないのかもしれない。
俺は大学の中を歩きながらそんなことを思っていた。
そして、琴子といつも一緒にいる友人二人組が、俺を見つけて騒ぐ。
正直、この二人が前後に何を話したのか、覚えていない。
この俺が、後になっても思い出せなかった。
思い出せたのはただこれだけ。

「だけど金ちゃんも大胆よね。いきなり琴子にプロポーズしちゃうんだもん」

「今日あたり琴子返事しに行ったんじゃないの」

ふーん、プロポーズね。
金之助も本気だったんだ。
あの琴子に?
そりゃお似合いかもしれない。
それで琴子は?

俺の足は何も考えなくても家に向かっていた。
荷物を置いて、リビングに座る。

それで、琴子は?

答えの出ない疑問符ばかりが頭を駆け巡る。
はっと気づくと、せっかくの休みだというのに、何もしないまま時間だけが過ぎていた。
夕方になり、外は雨が降り始めていた。
夕闇が迫る中、どんどん雨は激しくなる。
琴子は帰ってこない。
帰ってくるはずがないか。
時間はまだ早い。
目の前にテレビはついているが、何も目には映らない。
なぜか気ばかりが焦る。

「琴子ちゃん、傘を持ってたかしら」

それで、琴子は?琴子は…?

…頭が割れそうに痛い。
同じフレーズばかりが俺を苛む。
俺は立ち上がって傘をつかみ、雨が降る中、外へ飛び出した。
どこへ行くつもりだ。
自分に問いかける。
足は自然に駅へと向かい、ただ一人の姿を求めていた。
あいつに会ってどうするのか。
今さら、どうしようというのか。
雨の中を歩きながら、答えを探していた。
雨は降り続き、少しずつ水がたまり始める。
道路に跳ね返り、俺の足をぬらす。
…あの日の琴子を思い出す。
やけどはきれいに治ったようだった。
いつもいつも触れずにいようと止めていた手を見つめる。
今はシャワーの代わりに雨が降っている。
手のひらに雨が跳ね返る。
水はどんどんたまり続け、やがて手のひらからあふれかえることを忘れていた。
駅が近づいた頃、目の前をずぶぬれになりながら歩いてくる琴子を見つけた。


(2006/07/31)


To be continued.