Side 裕樹
お兄ちゃんはなかなか現れなかった。
毎日遅くて、ゆっくり話もできなかった。
今朝も会社に行ってくるといつものように出て行った。今日結婚式を挙げるとは思えないくらいに。
パパが倒れたとき、僕はどうしていいかわからなかった。
何もかもお兄ちゃんが手配して、会社でさえお兄ちゃんが社長代理になった。
僕はまだ小学生で、できることは限られていた。
お兄ちゃんと一緒にパンダイで働くんだって思ってたけど、お兄ちゃんは医者になりたいんだってこと、そのときに知ったんだっけ。
お兄ちゃんならきっと凄いお医者さんになって、きっとノンちゃんの病気も治してくれる。
ちょっと寂しかったけど、そう思うことにしたんだ。
だから、会社は僕が継ぐことにした。もちろんまだまだ先のことだけど。
琴子が来てから3年になる。
静かだった家が騒がしくなって、僕もお兄ちゃんもうんざりしてたんだ。
…それなのに、いつからかわからないけど、琴子がいないと静か過ぎる家がつまらないと思うなんて。
そしてお兄ちゃんは、いつの間にか琴子のことを好きになっていたんだ。
お兄ちゃんは口ではいろいろ言っていたけど、結局琴子の言うことを聞いてやったりしてたし。
自分で気づいていなかったみたいだけど、いつも琴子を気にしてたし。
だけど、お兄ちゃんが琴子にキスしてるのを見たときは、本当にびっくりした。
琴子なら寝てるお兄ちゃんを襲いそうだけど、まさかお兄ちゃんが…。
驚いて、そしてほっとした。
ああ、そうかって。
琴子はうるさくて、バカで、どうしようもなくドジだけど、少なくとも嫌なやつじゃない。
それにあれだけお兄ちゃんが好きなやつだから、しょうがないかって。
それなのに、お兄ちゃんは見合いをして、一度は医者になるのもあきらめようとしていた。
会社を継いで、違う人と結婚しようとしていた。
お兄ちゃんには琴子じゃなくて、もっとふさわしい人がいるってずっと思っていたのに、本当に違う人と結婚しようとしてるお兄ちゃんを見たとき、僕は叫んでいた。
お兄ちゃんが好きなのは琴子なんでしょって。
もしもあのまま違う人と結婚していたら、僕はどうしていただろう。
それでも、結局お兄ちゃんは琴子を選んだ。
何で琴子じゃないとダメだったんだろう。
相変わらずな琴子を見ていると、本当にそう思う。
お兄ちゃんに「琴子でよかったの?」って聞いたら、笑って「いいんだよ」って言ったから、認めてやろうかな。
もちろん琴子のことをお姉ちゃんなんて絶対に呼ばないけど。
急に結婚するってママが決めたから、お兄ちゃんは相当怒っていた。
だからなのかな、今日も会社へ行くって言ったきりまだ来ない。
パパに言ったら、会社を休むための準備があるんだって言っていた。
琴子は能天気に結婚式の準備をしていたけど、大学休んで大丈夫なのか?
またお兄ちゃんに泣きついてきそうだよな。
それでもバカみたいに緊張してたから、お祝いに清里でのことを話してやったら、相当驚いてたな。
お兄ちゃんには内緒って言われたけど、もういいよな、結婚するんだし。
それにしても、お兄ちゃん遅いなぁ。
一言言いたかったけど、そんな暇ないみたいだ。
Side 直樹
もう時間だった。
机の引き出しからケースを取り出す。
これを忘れたらおふくろのやつが卒倒するかもしれない。
大事に背広のポケットに忍ばせた。
俺は机の周りを片付けて社長室を出た。
おやじや裕樹たちもとっくに式場へ向かっただろう。
社長室を出て無言でエレベータに乗り込む。
ロビーに出ると、受付に目を向ける。
受付嬢がいなかった。
不思議に思って顔を上げると、社の入り口に受付嬢をはじめ、おそらく社に残っていた者だろう、会社の出入り口に向かって並んでいる。
何やってるんだ?
そのままそこを通り抜ける。
「社長代理、本日はおめでとうございます!」
誰かの掛け声で一斉に社員たちが頭を下げて、お祝いの言葉を口にする。
急にそんなことをされて、さすがに戸惑って立ち止まる。
「…ありがとうございます」
社員は皆笑っている。
こんな大変なときなのに、のん気に結婚式を挙げて旅行に行く社長代理を
怒っていないのだろうか。
「…大変なときに申し訳ないです。どうか、仕事に戻ってください」
ハイと短く返事があって、それぞれ散っていく。
俺は、少し肩の荷が下りた気分で式場へ向かった。
* * *
式場に着いてすぐにおふくろが言った。
「いつまで何やってるのよ、お兄ちゃん」
「仕事だよ」
「まー、こんな大事な日に?ちゃんと持ってきたでしょね?」
「…何をだよ」
「指輪に決まってるでしょう。まさか忘れたなんて言わせないわよ。
お兄ちゃんは何も決めなくてもいいから、指輪だけは用意しなさいって言ったでしょ」
「言われなくてもちゃんと持ってきたよ」
「まあ、本当?どんな指輪か楽しみね〜。あ、婚約指輪も後からきちんと選んであげてね」
「…必要ないだろ」
「何言ってるのよ。女の子はね、どきどきして待ってるものなのよ。結婚指輪と違って心ときめくものなのよっ」
「…だったらこんなすぐに結婚決めるなよ…」
俺は怒りをこらえながら着替えを始めた。
「琴子ちゃんの支度はもうすぐ終わるわ。この日のために用意したドレス、きっと凄く似合うわよ〜」
おふくろにとって、結婚式は琴子のためのものであって、俺はどうでもいいらしい。
「お兄ちゃんも琴子ちゃんに会えなくて寂しかったでしょう。お兄ちゃんが忙しくてちょうどよかったわ。これだけ会えないと余計に燃えるってものよね。でもその分今日は思う存分琴子ちゃんと仲良くね。ハネムーンベビーでも私は全然困らないわよぉ」
…やっぱりわざとかよ。
わざと乱暴に上着を脱いでおふくろに言った。
「着替えるんだから出てってくれよ」
「もう、お兄ちゃんたら、おめでたい日にそんな怖い顔して」
誰がさせたんだ、誰がっ。
「ま、まあ、直樹。ほら、係の人も困ってるし、早く着替えてしまいなさい」
おやじの方がよほど困った顔をしてうろついている。
俺は不機嫌なまま着替え始めた。
そう、今頃は琴子もおふくろが気合を入れたドレスに着替え終わったに違いない。
あまり考える時間もなく、すぐに式場へ向かう時間になった。
あのおふくろが選んだにしては、こざっぱりとした式場だった。
「あ、この後はダイヤモンドの部屋で披露宴だから」
この言葉さえ聞かなければ。
いったいあのバカ広い会場に誰を披露宴に呼んだのか、主役の俺でさえ定かではない。
どんな料理が出て、どんな引き出物にしたかさえも。
おまけにもっと恐ろしいのは、いったいどんな演出を考えているか、だった。
ろくでもないことに違いない。
俺はそれを思うと素直に式を喜べないでいた。
仏頂面のまま式場の赤い絨毯の上で立っていた。
やがて厳かなBGMに乗って、静かに扉が開いた。
相原のお義父さんに腕を組んで歩いてくる琴子が目に入った。
一歩一歩近づいてくる。
その姿を見たとき、俺は怒っていたのを忘れた。
転ばないように一所懸命に歩いてくる。
俺のところにつく寸前、少しつまづいた。
それでも琴子にしては上出来だ。
「直樹くん、こ、こいつをよろしくな」
お義父さんはずっと泣いていたに違いない。
すでに真っ赤な目でそう言われ、「はい」と言う以外に何を言えるだろう。
琴子もすでに目が潤んでいる。
「入江くん、怒ってるでしょ」
牧師の話が始まり、心配そうな顔で琴子が言った。
「まーな。こうも勝手に進められちゃーな。ったく、不愉快だよな」
本当はもう怒っていなかった。
琴子の姿を見たときから、そんなことはどうでもいいことだと思ったのだ。
親の差し金だろうがなんだろうが、こうして俺の隣に立つのは琴子なのだから。
「だけど」
俺は素直に思った気持ちを言うことにした。
「おまえがきれーだから、もういいよ」
おふくろの思惑などどうでもいいと思えるくらい、俺はその姿を見られてよかったと思ったのだ。おまえの隣に立つのが俺でよかったと。
誓いの言葉を俺の後に続けて言うはずの琴子は、やっぱりボーっとしていた。
指輪の交換では逆の手に指輪をはめようとした。
もちろんそんなことはありうることなだけに、いまさら俺はそんなことで焦ることはなかった。
むしろ、その後の琴子の言葉の方が衝撃的だった。
「入江くん、あたしの事、前から好きだったんでしょ」
俺は一気に頭に血が上った。
後ろのギャラリーだとか、前に立っている牧師だとか、そんなことは一切お構いなしだ。
「な、何調子づいてんだっ」
「聞ーたわ」
俺の言葉にも琴子は動じなかった。
何なんだ、その自信は。
「あたしと入江くんの二回目のキス、清里だったんだってね」
ど、どうしてそれを?!
「裕樹君がこっそり教えてくれたの」
「あ、あいつ…」
俺は思わず後ろにいる裕樹を見た。
黙ってろって言ったはずなのに、よりにもよって何で琴子にばらしたんだ?
「入江くんだってあたしに夢中だったのね」
その言葉が終わるのと同時に、琴子が俺にキスをしてきた。
そして、俺を見上げて言う。
「ザマーミロ」
そのセリフは…。
そうだ、俺が初めて琴子にキスしたときのセリフだ。
少し照れたように微笑んで俺を見ている。
そんな琴子を見ていたら、そのときの場面を思い出した。
俺はあのときから惚れていたのかもしれない。
「まいった、おまえには」
俺がそう言うと、琴子はとびっきりの笑顔をみせた。
思えばあれから3年。
あれほど嫌っていると思った女に俺はこんなにも惚れている。
どれほどきついことを言っても、どれほど意地悪をしてもめげなかったな、こいつ。
ああ、でもその分俺も散々ひどい目にはあったっけ。
これから先もきっと迷惑はかけられるに違いない。
でも、多分その迷惑も俺はきっと当たり前のように思うのだろう。琴子といるのが当たり前なように。
式はその後、滞りなく済んだ。
皆に祝福されて、決して悪い気分ではなかった。
おふくろもおやじも泣いていた。
須藤先輩や松本も来てくれた。
木の陰で泣きながら見守っている金之助の姿も見た。
いい式だった。
そう思った。
27772キリリク
Can you celebrate?−Fin−(2007/01/08)
加筆修正(2007/01/13)