Lost memory



55555Hit御礼キリリク きつつき さま


「皆さん、お久しぶりです。入江琴子、無事に帰ってきました!またよろしくお願いしまぁす」

派遣先の神戸から琴子だけ先に帰ってきた。

「あらやだ。もう帰ってきたのぉ」

…え?ちょっと、モトちゃん?

「静かだったわ、本当に」

しゅ、主任…。

「なんで入江さんじゃなくて琴子が先なのかしら」

ま、真里奈…。

「ひ、ひどいっ」

涙目で抗議する琴子に慌ててフォローする面々。

「ま、まあ、入江さんいないと活気がなくてどうも寂しいわよね」
「そ、そうねぇ。確かにちょっとだけ寂しかったような」
「モ、モトちゃん…!」
「ああああ〜、やめてっ、ちょっとだけよ、ちょっとだけっ」
「でもぉ、入江さん残してきて大丈夫なの?」

うっ…。

品川真里奈の言葉に冷や汗が垂れる。

「だ、大丈夫よ!」
「どうだかね〜」
「あたしという妻がいるってこと神戸の病院ではよくわかったはずだから!」

最後は神戸でだって惜しまれたあたしよ。
そ、それに入江くんだってすぐに帰ってくるんだから。

琴子のことはそれっきり誰も構わず、見事に通常業務に戻ってしまった。
というより、戻ってきたからこそ余計に仕事に励むことに。

もう、何よ。
せっかく戻ってきたのに、皆冷たいんだから。

一人ブツブツ言いながら、朝の見回りに。

「おはようございまーす、皆さん」

元気よく病室に入ると、大部屋の患者はそれぞれぎょっとした顔をした。

「うげっ、琴子ちゃん…。もう…いや、その、やっと戻ってきたんだね…」
「はいっ。高田さんもまた再入院だったんですね」
「…て、点滴も、もちろん今日から…」
「はい、私が今日の担当ですから」
「ひいいぃ」

新しく入院した患者は、何事かとベッドの上で見ているが、他のベテラン患者はそっとささやく。
かなり危なっかしい娘なんだよ、いや、悪い娘じゃないんだけどね。その、なんと言うか、不器用で…。
な、なるほど、と入院して間もない患者は頭に刻み込む。

「さあ、腕を出してくださいね〜」
「おれぁ…血に弱いんだ」
「わかってますよ」
「…何とかすっと刺してくんないかな」
「大丈夫ですよぉ」

いざ、と琴子が張り切っているところへやってきたのは…。

「やあ、琴子ちゃん、入江のやつまだ戻ってこないって?あいつがいないと僕も忙しくてね。
あ、いいんだよ、仕事はね、きっちり見てるから。
いやー、あいつがいないともてるもてる。
わっはっはっ…」

何が言いたくて来たのか、西垣医師はそれだけ言って去って行った。
気がそがれたが、いざ点滴を…。

ひ、ひいぃいぃ…。

声にならない叫びが大部屋にこだまする。

「あれ、おかしいですねぇ。大丈夫ですよぉ、ちょっと長旅で疲れちゃっただけですから」

そのいいわけもどうかと思うが、とにかく三度の失敗の末、ようやく高田氏の点滴が済んだ。
その声なき声が届いたのかどうか、二人目の点滴をしようと用意を始めたところで
「入江さん、ちょっと。ああ、残りの点滴は品川さんに頼んだから」
と主任の呼び出しを受けた。

もっと早く呼んでいただけたら…という高田氏の恨みがましい顔を後にして、琴子はナースステーションへ戻った。


 * * *


もう、今すぐじゃなくたっていいんじゃないのかしら。

そんな風に思いながら看護部への廊下を急ぐ琴子。
派遣のレポートを提出していないことを指摘されて、琴子は案外分厚いそのレポートを抱えて歩いていた。
思ったより力作のそれは、どちらかというとレポートというより日記に近いが、そんなことに看護部長が気づくのは、もっと後のことである。

とにかく、そのレポートを抱えて歩いていた琴子は、いつものようにあまり前を見ていなかった。
急ぎ足で歩く琴子を避けるように歩く患者と他のスタッフ。
向かうは一直線に看護部…のはずだった。
腕からひらりとはさんであったメモが落ちた。本来いらないメモだが、琴子は反射的に拾おうとした。
角を曲がった先に落ちたそれをつかみあげた途端に、何か四角いものが顔に直撃した。

「…った…!!」

声にならない声を出して琴子は昏倒した。
見事に命中したそれは、とあるMR(注1:医薬品メーカーの担当者。詳しくは後述)のアタッシュケースだったりしたものだから衝撃は大きかった。

「…えええっ、す、すみません…!」

自分が持っていたアタッシュケースで人が倒れた。
これは大事だとばかりにMRの彼は倒れた人影に近寄った。
額にしっかりと跡が残ったまま倒れていた。

「だ、誰か…誰か助けてくださぁい」

世界のなんたら…ではないが、ロビー中に響く声でMRの彼は叫んだ。
その声に素早く対応した通りがかりのスタッフによって、琴子は外来の一室に運ばれることとなった。


 * * *


琴子は、何やら夢を見ていた。

「い、入江くん、待ってよ〜」

そんな自分の寝言に驚いて飛び起きてみれば、そばにはかしこまって座っている背広姿の男の人がいた。
人の良さそうな顔をして、少し困った風に見える。

「ああ、よかった…」

文字通り胸をなでおろした彼は、目が覚めた琴子を見てようやく緊張を解いた。

「…あのぉ…?」

はっとして彼はさっと名刺を取り出した。
顔と社名を覚えてもらうのに必需品であるそれには、『マイザー製薬 日比野 智志(さとし)』とあった。
それを差し出しながら彼・日比野は頭を下げた。

「申し訳ございません」
「はい、あの、えーと」

なんとなく名刺を受け取った琴子は、いまだこの状況を把握していなかった。

「ぼ、僕…、いえ、私のカバンが当たってしまったようで…」

そう言われてみれば、額が痛いことに気がついた。
言われてから気づいたくらいなので、たいした怪我ではなかったようだ。
琴子は額をさすって名刺と日比野の顔を見比べた。
メガネをかけていて、ぼんやりとした坊ちゃん風の感じは、今まで琴子の周りにはいない珍しいタイプだったせいかもしれない。
珍しげにじろじろと見てしまい、ますます日比野を恐縮させた。

「しかもお噂を聞いたところ、あの外科の入江先生の奥さんでいらっしゃるとか。…も、もう、先生にもなんとお詫びしたらいいやら…」

そう言って泣き出さんばかりなので、琴子はちょっとだけ慌てて言った。

「大丈夫よ。こう見えてあたしかなり丈夫だし、入江くんだってきっと…」

そこまで言って琴子は言葉を失った。
なんだか凄く大事なことを忘れているような気がしたのだ。

「そういえば入江くん、今どこにいるのかしら」

凄く大事なこと。

琴子はしばらく考えた。

えーと、この間はモトちゃんと確か買い物に行って…。
って、それはいつのことだったかしら。
えーと、今日は何日?
あれ?
確かどこかに行くつもりだった気が…。

最近の記憶がさっぱりないことに気がついた。

「…入江さん…、あの、だ、大丈夫ですか?」

目の前で言葉を失ったまま青ざめていく琴子を見て、やはり打ち所が悪かったのかと半泣きだ。

「…あたし、ちょっと記憶が…」

その言葉を聞いて、日比野は卒倒寸前になったという。


(2008/02/25)


To be continued.