Lost memory




自分が入江琴子であること、それからここ最近…とは言っても、およそ2ヶ月くらいの神戸での記憶がないこと。
とりあえず仕事には支障がないし、生活にも困らない。
そういうわけで、琴子以上に青ざめた日比野を何とかなだめて帰すことにした。
自分の持ち場である斗南大学病院きっての天才外科医の妻に何たることをしたんだと肩を落として帰っていった。

神戸での出来事をあえて聞かない同僚は、琴子が頭を打って(正確には額だが)外来で寝とぼけていたことで、仕事が忙しくてそれどころではなかった。
もちろん琴子がいようといまいと忙しいには違いないが、それでもいないよりは随分マシであるのは間違いない。
そんなわけで、琴子の様子が少しばかりおかしいことにも構っていられなかったのだった。

やっとのことでその日の仕事が終わった頃、琴子は桔梗幹と品川真里奈に泣きついた。

「…何でもっと早く言わないのよっ」

休憩室で一息ついた二人は、琴子の話に思わずそう怒鳴った。

「だ、だって、言う暇なかっ…」
「入江さんには言ったの?」
「入江くん、電話に出ない…。手術なのか、手が離せないのかわからないけど」

ふうとため息をついて、幹は頭を振った。

「まあ、入江さんに連絡が取れたからといって、何かできるわけじゃないとは思うけど」
「ねぇ、そのMRって、どんな人?」

琴子は自分のポケットに入れてあった名刺を取り出して、真里奈に渡した。

「ふーん、冴えない感じね」

どうやら真里奈の好みではないらしい。
ひらっと名刺を幹に回した。

「あら、純朴そうで悪くないじゃない」

名刺の片隅に印刷されている顔写真を真剣な顔で見つめている。

「あたし、どうしたらいい?」

琴子は真里奈を見た。
真里奈は面倒そうにあっさり言った。

「別に困らないんじゃない?そりゃ神戸であったことも大事かもしれないけど、せいぜいレポートの内容を訂正しろと言われても無理なくらいで」

結局いい案は浮かばないまま、琴子は家に帰ることにした。
万が一のときのためにと、幹は名刺から何やらせっせと自分の手帳に書き写していた。


 * * *


日比野智志は絶望した気分のまま、ふらふらと会社への道のりをたどっていた。

ああ、どうしよう、どうしよう。
入江先生の奥さんになんてことをしてしまったんだ。
これが入江先生の耳に入ったら、きっと会社に連絡がいって、僕は担当をはずされて…。
いや、もし今後一切マイザーの製品は使わないとか言われたら、会社は大損害で確実に僕はクビだ〜〜〜。
いやいや、そんなことよりも奥さんの記憶が大事だ、うん。
そうだ、自社製品でいいものがないかどうか探してみよう。いざとなったら自社以外でも有効な手段があれば…。
ああ、でも、本当にどうしてこんなことに〜。

そんな気分のまま会社にたどり着いたものの、どうしても上司へ報告できなかった。
ライバル他社に出し抜かれることも多くて、散々上司に苦言をいただいたばかりなのだ。
こんなことを報告しようものならどうなるか。

明日…。
明日こそはきっと。

「日比野、またどこかの先生にからかわれたのか?」

同僚の揶揄さえ耳に入らないほど、彼は違う意味で琴子のことで一杯だった。


 * * *


ちなみにその頃入江直樹は…。

「血圧130の74です」
「ガーゼ」

…お約束どおり手術中だった。


 * * *


家に帰りついた琴子は、もう一度直樹に電話を入れた。これもすぐに留守番電話だった。
それでもとりあえず留守番電話にメッセージを入れた。

ピーーーーーー。
『あの、あのね。
入江くん、何て言ったらいいのかわからないんだけど、あたし。
…今日、神戸でのレポートを出しに行く途中で薬屋さんとぶつかってね、それで、それで…その、神戸でのこと…全部忘れちゃったの。
だから、あの…』
ピーーーーーー。メッセージを受け取りました。

あ、切れちゃった。
ど、どうしよう、まだ全部しゃべってない(いつものことだが)。

もう一度かけなおそうとして手が止まった。
どうしてもうまく説明できそうになかった。他に何て言ったらいいか思いつかなかった。

忘れちゃってごめん、とでも?
忘れちゃったの、えへへ…とか?
忘れても大丈夫よ!とか?

ぐるぐるいろいろ考えすぎて、とうとうその日はかけ直すことができなかった。


 * * *


帰宅した直樹は、真っ先に留守番電話のメッセージを確認した。
メッセージを聞いて首を傾げる。

忘れたって…?
薬屋さん…?

しばらく考えた後、ようやく一つわかった。

薬屋さんて、もしかしてMRのことか。
ぶつかって、レポートの内容忘れて何か怒られたんだろうか。

いつもならメッセージが限界になるほどいくつも入っているのに、その日はそれだけだった。
なんだかおかしいと感じたものの、電話をかけようとして手が止まった。
もう真夜中。いくらなんでも寝ている。
「明日にするか」と誰に聞かせるわけでもなくつぶやいて、直樹は電話を置いた。


 * * *


翌日、日比野智志は己のしたことに気分が重くなりながら出社した。
実直で真面目がとりえの彼は、これといって妙案もない。
琴子の「大丈夫ですよ」という笑顔だけが頼りだった。

そうだ、もしかしたらもう記憶が戻っているかもしれないし。

そんな期待をかけて彼は早速病院回りに出かけることにした。
彼が今宣伝しようと頑張っている薬品のパンフレットももちろん忘れない。
どきどきしながら斗南大病院へ向かう。
入江夫人の姿を思い出してみる。
夫人というにはあまりにも若々しくてはつらつとしていた。
いつも無表情で落ち着いた入江医師とは比べ物にならないくらい。

…あの二人が夫婦なんて、不思議だなぁ。

そんな感想を持ちながら病院内を廻っていると、そこそこから入江医師の噂が聞こえてくる。
いわく、入江医師は現在神戸の提携病院に長期出張中であり、そこでの活躍とお褒めの言葉が先日届けられたと。
それからあの入江夫人は病院内きってのトラブルメーカーだが、それなりに患者にも人気があるようだ、と。
先日入江医師と同じ神戸の病院に研修に行っており、そこで入江医師を助けたとか何とか…。
つまり、入江夫人は、その自分の活躍すらきれいさっぱり忘れてしまったわけで…。
おまけにあの夫婦、学生時代からの付き合いで、学生結婚という意外にも恋愛結婚だったこと。

…意外だ。
これは本当に意外かもしれない。

彼はあの鉄面皮とも称される入江医師の笑った顔など見たことがなかった。
いや、だからこそ、これは本当にやばいのではなかろうか。
彼はそのままダッシュで外科病棟へ。
もちろん琴子の迷惑はこの際考えていない。
大事なのは琴子の記憶、だから。


 * * *


「なんだかさっきから背広着た人がうろうろしてるんだけど」

他の同僚の言葉に振り返ってみれば、エレベータ付近でこちらを伺う影が一つ。

「あ、えーと、昨日の薬屋さん」

琴子は、今まさに主任が尋問に出て行こうとする前に間に合った。

「えー、昨日の…」

もちろん琴子だから昨日の今日で名前は覚えていない。

「日、日比野ですっ、マイザー製薬の」
「あ、ああ、そうそう、日比野さん」
「あの…、き、記憶は、戻りましたでしょうか…?」

真面目な顔つきで琴子を見つめてくる。

「ま、まだです。ごめんなさい」
「そうですか…」

あからさまに肩を落とした日比野を見ると、つい琴子はかわいそうになって言った。

「きっとすぐに戻りますよ。だって、ドラマとかではよくあることよね。
薄幸な主人公が記憶喪失になって、事件が起こって、その失われた記憶をめぐってまた事件が…」

なにやら夢見る目つきになってきて、日比野は目を白黒させながら琴子を見ている。
さすがに琴子の妄想癖まではリサーチできていない。
顔は笑顔に保ったまま、少しずつ後ずさりして適当な言葉を見繕った。

「で、では、また伺いますので、その、入江先生にもよろしくお伝えくださいませ」

言ったが早いか、MR日比野はダッシュで医局へと向かうエレベータに飛び乗った。

後に残された琴子は、入江先生という言葉でふと我に返る。
ヒーロー直樹が、主人公の危機を救ったところまで夢見ていた。
振り向けば、仁王立ちした主任がいた。

「入江さん…!」

そして、今の光景をどうやって誤解したものか、恐ろしいほどの噂が斗南大病院を駆け巡ることになるのだった。


(2008/03/31)


To be continued.