Lost memory




MRの日比野智志は、会社で散々同僚にからかわれた。
もちろん斗南大病院での噂を面白おかしく聞いているというくらいで、誰も本気にはしていなかった。
それでも日比野にとっては後ろめたかった。
この分では入江夫人にもきっと噂が回っているだろうと申し訳なかった。
だから、その誤解を解きたかった。
自分の思う内はぐっとこらえ、せめて入江夫人には笑ってもらえるように。

「こ、困っちゃいましたよね、あんな噂立てられて」


琴子は日比野の言葉にびっくりして目を見張った。
やはり彼も噂に振り回されていたのだと。

「そ、そうですよね、困りましたよね」

琴子は即座にそう返した。
その言葉を聞いて、日比野の顔はほっとするよりもむしろ少し悲しそうに見えた。

な、なに、あたし、何か悪いこと言った?

目の前にたたずむ日比野は、決してチビではない。
平均的な身長であるにもかかわらずこじんまりして見えるのは、その小心者的な態度のせいのようだ。

…なんだか子犬みたい。

尻尾があればきっと下向きに小さく垂れているであろう。
そんな印象を持った。
思わず笑い出して言った。

「日比野さんも気にしないでくださいね。あたし、噂なんて慣れっこですから。高校の頃からいっつも噂されたりしてるし」


日比野はその言葉を聞いて大いにほっとし、そして少しばかりがっかりしていた。

でも僕は…。

笑ってもらえたその笑顔に励まされて、そう言い出したくなる。
噂されても困るけれども、全く何にも好意を持ってもらえないのも悲しいものだ。

「それでも僕は…」

つぶやくようについ口に出した。

「え?」

琴子がよく聞き取れずに聞き返した。
日比野は琴子の顔を見ながら泣きそうだった。

本当に僕は情けない。
女子高生じゃあるまいし。
でも、彼女はやはりかわいらしい。
人の妻じゃなかったら…。
それも、入江先生の…。


 * * *


リハビリ室からの帰り道に玄関脇を通った桔梗幹は、向き合う二人を見つけた。
琴子はにこやかに笑っているのに対し、日比野は微かに頬を赤らめて硬直していた。

あら、まあ、まるで告白シーンみたいねぇ。

本当にそう思ったわけではないが、興味をひかれて手近の観葉植物の陰に。
ちらちらと噂の二人を見て通り過ぎる病院関係者もいるが、幹のように立ち止まってみるものはさすがにいなかった。

「それでも僕は…」

泣きそうな顔でそうつぶやくMRの日比野を見た幹は、まんざら自分の勘も捨てたものじゃないと思った。

なによ、なによ、本当に告白シーンなわけ?
えー、ちょっと、勝算は限りなく0に近いわよ。

日比野の噂も琴子の口からはせいぜい親切な薬屋さん程度で、それ以上でもそれ以下でもなく。
幹は以前病棟に現れた日比野の姿を思い出していた。

親切にしてるうちにほだされちゃったのかしらねぇ。
…気の毒に。

琴子本人は自覚はないようだが、愛想のよさは天下一品で誤解する者も多い。
もちろん本人は直樹一辺倒なためにそういう好意に対してまったく気づかない。
直樹が現れて相手があきらめるか、直樹自身によってけん制される。

それがまた、クセモノよねぇ。

それでもちょっとだけ応援したくなる。
人の良さそうな顔立ちのお坊ちゃま。全く相手にされないと知りつつも向き合うその根性。人の妻だと知っていながらも好意を持ってしまったその純情さと引き換えに。
そしてちょうどよいことに今はあの直樹がいないことも加え。
多分琴子が100パーセント断ると知っているからこその応援だった。
真里奈ならその心はわからない。
常にいい相手を見つけるための努力は惜しまないから。
もちろんパートナーが直樹ならどうだかわからないが。

幹が胸をわくわくさせて見守っていたそのとき、玄関の向こうから見慣れた人が。

「…ああっ」

そのため息とともに吐き出された言葉は、残念に思う気持ちなのか驚きなのか。

あと少し遅かったら。

そう思ったのもつかの間、幹は自分の顔が緩むのを感じた。


 * * *


外来から病棟へ向かう途中、観葉植物の陰に移動する人影。その人影は縮こまって何かを見つめている。
そういう面白そうなことを見逃す彼ではない。
すかさず彼は玄関先への柱の影に隠れながら、視線の先を同じように見つめた。

おや、おや、やっぱり噂は本当だったか?
いや、違うな。
どうやら一方的に思っているのはやはりあのマイザーのMRらしい。
しかしこれも見逃す手はないぞ。

西垣はすかさず胸ポケットから携帯を取り出すと、素早い動きでメールを打ちだした。
一方的に送りつけるメール。
返事は帰ってきたことはないが、無視はしていないだろうと思っている。
わくわくしながら事の成り行きを見つめた。


 * * *


病院に程近い路上で、直樹は携帯が震えるのを感じた。
琴子からかと思い、ポケットから取り出した。
ところが…。

『琴子ちゃんと例のMRが、玄関で見つめあっているぞ』

実にくだらない内容だと思いつつ、携帯を握りしめたまま走り出した。
夜勤明けで琴子がまだ家に帰っていないことを知った直樹は、電車に乗ったついでに病院へ迎えに行くことにしたのだ。
じきに昼にもなるから、一緒に昼食でもと思っていた。
まさか直樹が東京に帰ってきてることを知らないだろうから、怒りに身をまかせて走って病院へ駆けつけているだろうなんて、西垣医師も思っていないだろう。
今までのメールの分、見つけたら覚えていろよと怒りを内に秘めて。
西垣が指導医だとか、この際どうでもいい。
直樹の心情としてはどうにも気持ちが納まらない。

おまけに、また、あのMRだと?

直樹の頭の中ではストーカーになりつつあるMR。
まさか琴子が自分以外の男とどうにかなるとは思っていないが、自分のいない間にそういう噂が立ってもきっと気づかないだろう。
逆にいえばそういう噂に巻き込まれそうなほど親しげだったということだ。
何せあの琴子のことだ。ニコニコと愛想を振りまいて誤解させたに違いない。

そんなふうに思ったから、一層走る足に力がこもる。

自分の思い過ごし。
ただそれだけならそれでも構わない。

そうは思いつつ全力で走った。
近道するために大学構内を横切り、通り過ぎた道すがら「あ、入江さんだ!」という声も無視して、ひたすら病院玄関へ向かう。
運動神経がいいとはいえ、すでに以前より落ちた体力と運動不足。
さすがに息も切れる頃、遠目に病院玄関が見えた。


 * * *


「ああっ?!」

玄関付近で成り行きを見守っていた面々と琴子が叫んだ。

なんで、今、ここに、入江くんが?!

琴子は目を目一杯見開いた。
もちろん琴子以外の面々も突然現れた直樹に驚いた。


自分を通り越して驚く琴子を、日比野は不思議そうに見た。
何気なく振り返る。
振り返った目に映ったのは…。

い、入江せ、先生っ!!

息が止まるほど驚いた。
しかも息を切らして立っている入江医師は、なんだか迫力満点の怒気をはらんでいて…。

も、もしかして、ぼ、僕殺されるかも?!

もう一度今度は琴子を振り返る。
その顔を見て、日比野は力が抜けそうだった。


なんだよ、帰ってきたのか。

そう毒づいた西垣は、面白くなさそうにため息をついた。

ここにいてもろくなことがない。
入江と琴子ちゃんの夫婦愛なんか見たって仕方がない。
あのMRとの対決は面白そうだが、所詮相手にもなりゃしない。
きっとこの次は僕を探し出して怒りをぶつけてくるだろう。
その前に退散、退散。
僕だってそんなに暇じゃない。

白衣を翻してそのまま病棟へ。
その後直樹がさりげなく仕返した数々の雑事は、筆舌に尽くしがたい。
…が、それでも懲りずにまたちょっかいをかけていたとか。


 * * *


「入江くん、神戸は?!」

琴子の言葉にはっと我に返る。
直樹は息を整えつつ、メガネをかけたぼんやりとした顔をにらみつけていたらしい。

「いや、用事があって」

素直に休暇をとってきたと言えばいいのに、思わず口をついて出た。

「そうなんだ。これから病院へ行くの?」

少し落胆したような声に直樹は一つ息を吐く。
もう少し落ち着いて話をしないときっと誤解する。
直樹は琴子に向かってできるだけ優しい声音で言った。

「…仕事終わったんだろ」
「え?う、うん」
「…行くぞ」
「でも、用事は?」
「だから迎えに来たんだろ」
「あた、あたしを?」

とまどったような声と途端に広がる満面の笑み。

「入江くん!」

ぶつかるようにして駆け寄ってきた身体を受け止める。
その目の端で頭を下げる男にも気づいていた。
きっとこれが噂のMRなんだろう、と。
琴子も直樹の視線に気づき振り返る。

「あ、そう、そう、薬屋さんの日比野さん。ほら、記憶なくして、いろいろ迷惑かけちゃったの。それでね、話してただけで不倫とか言われて。もー、ホントにみんな暇だからって困っちゃうわよねーって」
「へー」

直樹はあまりにも感情のない返事だったと自分でも思った。
MRの日比野か、と自分の記憶を探る。
特にぱっとしない記憶。多分どうでもいい部類に入る。
直樹は必死で頭を下げる日比野を一通り眺めてから、
「また、後日」
と一言だけ言って玄関を後にした。
手はしっかり琴子の腕を捕まえて。


 * * *


日比野はかなり経ってから頭を上げた。
もう入江夫妻はどこにも見えなかった。
頭を下げすぎて首も腰も痛かった。頭を上げた瞬間にくらっとめまいまでして、そのままよろよろと玄関ロビーのイスに座り込んだ。

結局、言えなかった。
無論言えるわけがなかった。

入江医師が来た瞬間の入江夫人の顔は、あまりにも見事な変化だった。
嬉しそうという言葉だけでは表せないくらいに途端に輝いて、その笑顔を見た日比野は脱力したのだった。

とてもかなうわけがない。

そして、入江医師の顔はまともに見られなかった。
あまりにも遠慮なしの視線に耐えられなかった。
見事なほど牽制された。
正直、殺されなくてよかった、と思うくらい。

日比野は力なく笑いながら、少しだけ鼻をすすった。

きっとあまりにも入江夫人が困っていたから同情しただけなんだろう。

日比野は、鼻をすすりながらそう思うことにした。

その光景を見ていた幹が母性本能をくすぐられて、しばらくアタックされて付いた異名が「オカマ殺し」。
不倫のほうがよかったか、それはマイザー製薬の中でも意見は真っ二つに分かれたという。


 * * *


ぼうっとした頭が一気に覚醒した。
心臓の心拍は跳ね上がり、息まで苦しい。

入江くんが、いる。

ただそれだけで頭に血が上る。
それにしても、と琴子はいぶかしんだ。

なんで入江くん、そんなに息切らしてるの…?
全力で走ってきた?
…まさか。

「入江くん、神戸は?」

そう聞いたのは、息を整えつつある直樹がなんとなく殺気立って見えたからだ。
神戸での記憶がないばかりに覚えていないが、今日何か約束していたのかと琴子は落ち着かなかった。

「いや、用事があって」

そう聞いて少しだけがっかりした。
怒られるのは嫌だが、病院に来たのは自分とは関係のない事だと知るのも嫌だった。
すると、それを察したかのように自分を迎えに来たと言う。
驚きとともに何とも幸せな気分で満たされていくのを感じた。
そのまま直樹に突進していった。
直樹は琴子を受け止めながらも視線は琴子の後ろへ。
直樹が来てすっかり忘れていたが、後ろには日比野がいた。
思ったより無表情な直樹に慌てて説明する。興味なさそうに「へー」とだけ返された。
それなのに視線は鋭く、どう見てもにらんでいた。

「また、後日」

直樹がそう言って琴子の腕をつかんで歩き出した。
日比野を振り返ることもできずに、琴子も引きずられるようにして歩き出した。
歩きながら考えた。

あ、そうか。
薬屋さんだから顔知ってたのかもね。また医局とかで会うわよね。

そう納得して直樹について歩く。

「ねぇ、入江くん。どこ行くの?」
「昼めし」

短く答えた顔を見上げる。
それでもそのままどんどん歩き続ける。
琴子の視線に気づいたのか、琴子を見下ろして言った。

「そういえばおまえ、神戸でのこと一切忘れたんだっけ」

…うっ。

「そ、そうみたい」
「ふーん。じゃあ、あれもいらないか」
「あれって?」

駅に着くとコインロッカーコーナーへ行き、中から何かを取り出した。

「東京へ帰ってくるときに絶対買ってこいと言っていたやつ」

取り出したのは洋菓子の箱。

「あ、○○屋のチーズケーキだ。そうそう、ここのチーズケーキなら駅にも売ってるからお土産に買ってこれるねって言ってたんだっけ」
「…記憶ないんじゃなかったのか」
「あれ?そうだよね」
「神戸でおまえが唯一活躍したこと覚えてるか?」
「唯一って何よ」

琴子は口を尖らせながら考えてみた。

「えーと?」
「………」
「その辺の記憶はちょっと…」
「…ったく、そういうやつだよな」

あきれたように笑って、直樹は再びロッカーに箱をしまう。

「え、またしまうの、もったいない」
「持ち歩いたら落とすだろ」
「そんなことないよ。食べちゃえばいいもん」
「昼めし食うんだろ」
「あ、そうか」

名残惜しそうにしまっていくロッカーの扉を見ながら言った。

「あーあ、でも本当に神戸でのこと覚えてないの。ごめんね、入江くん。思い出を共有できなくて」

直樹はにやりと笑った。

「ふーん。じゃあ、俺が神戸から帰ってきたらおまえがしてくれることも忘れたって?」
「え、何、それ」
「あ〜あ、残念だなぁ。楽しみにして帰ってきたのに」
「え、やだ、どんな約束…?」
「たとえば」

直樹は耳元でささやく。
琴子は、みるみるうちに赤くなって、首を振った。

「絶対言ってない!そんなこと言わないもん。嘘でしょ、入江くん」
「さあ、どうだったかな。覚えてないんだろ」

琴子はひたすら首を振る。

違う、ちがう、チガウ!

振りすぎて頭がくらくらした。

そういえば夜勤明けだったっけ。

そう思った瞬間に駅の構内にあった案内板にぶつかった。

バーン!

えらく派手な音がした。

「お、おいっ」

直樹がそう言って琴子を抱きとめた。
額を押さえて琴子がうめいた。

「いった〜い」
「…バカだな。大丈夫か?」
「う、うん」
「これで神戸のこと思い出したりしてな」
「…あれ、入江くん?いつ神戸から帰ってきたの?」
「…は?!」
「なーんてね。そんな簡単に忘れないよ」
「おまえは…!簡単に忘れたのはどこのどいつだっ」
「ご、ごめんなさ〜い。これで許して、ね?」

そう言って直樹の唇に素早くキスした。

「…無理だな」
「えー!」

これでも凄く頑張ったのに。

直樹はブツブツつぶやく琴子の頭を引き寄せた。

「せめてこれくらい」

そう言うが早いか、琴子の唇を塞ぐ。
ゆっくりと唇を離すと、琴子は真っ赤になってうつむいた。

「あっ!!」

急に顔を上げたので、危うく直樹の顎に当たるところだった。

「今度はなんだっ」
「思い出したの!」
「…ホントかよ」
「ホント、ホント。もう、ばっちり」
「ああ、そりゃ簡単な頭だな」
「もう、入江くんてば。でもよかった、思い出して。だから、約束守ってね」

琴子は直樹の腕につかまるようにして歩き出した。
そして直樹に顔を寄せて微笑んだ。
直樹もため息をつきながら付き合うことにした。
そのささやかな願いを叶えるために。


『東京に帰ったら、またこうやってデートしてね』




Lost memory(2008/08/27)−Fin−