Lost memory




MRの日比野智志は琴子への電話を切った後、気が抜けたように電話を握りしめたままだった。
斗南大病院へ向かう途中、雑踏の中で邪魔にされながらもぼんやりと歩道で立っていた。

もういいですと言われたことには、正直ほっとした。
入江医師にたいしても申し開きができるというものだ。
その一方で、どこか寂しさを感じていた。
明朗快活な声がまだ耳に残っているようだった。
驚いたり、泣きそうになったり、思いっきり笑ったり、怒ってみたり、ころころとよく変わる表情を思い出していた。
はっと気がつき、日比野は頭を振った。

いや、断じて、これは不倫じゃない。

もう一度大きく頭を振る。
振りすぎて頭がくらくらした。
くらくらする頭でいい訳を考えた。

不倫じゃないけれど…。

歩道の真ん中で立っていた日比野に誰かがぶつかっていった。
ぶつかったのは知らない誰か。

あの日ぶつかったのは…。

頭を振ってずり落ちたメガネを押し上げる。

気づかなくていいことに気づいてしまった…。

日比野は泣きそうになって、下を向く。
そんなこと、あるわけがない。
そう思いたかった。
そして気づいた瞬間に絶望的な気持ちになる。
下を向いただけではこらえきれず、その場にしゃがみこんだ。
周りを歩く人は不審げに通り過ぎる。
中には親切な人が声をかけていく。

「ね、あなた、気分でも悪いの?」

いいえ、いいえ、違うんです。

半分涙声になりながらそう答えた。
いい年をしてみっともない。
そう思うのだけれど、こらえ切れなかった。

なんてことだ。
もう他の誰かがいることを知っているのに。
僕は…。

日比野は固く握りしめていた携帯電話をもう一度握り直す。

もうかかってこないだろう。
もうかけることもないだろう。
それを思うとかなり悲しい。
いや、病院に行けばまた会える。
いや、会ってどうするんだ。

そんなふうにぐるぐると考えも廻る。
その日、日比野はどうしても斗南大病院へ足を向けることができなかった。


 * * *


もう事は済んだと思われた話が実は済んでいなかったことを知る。

「こーとーこおぉ…!!」

ナースステーションへ走りこんできた幹は、夜勤明けの琴子に突進した。

「な、何、モトちゃん」

尋常ならぬその勢いに押されて、琴子は少し後ずさりする。

「あ、あんた、何てことを…!」

興奮気味の幹とわけもわからず揺さぶられる琴子を皆は遠巻きに眺めている。

「抱き、抱き合うなんてっ…。
入江先生というものがありながら、なんてうらやましいことをっ」

琴子は夜中の同僚の態度を思い返していた。
妙に不自然な態度で、病棟に来たときにぴたっとやんだ内緒話。
あれほど否定したのに、やはり噂は尾ひれをつけて巡っているようだ。

「だから違うってば」

琴子は必死に言い返す。
とたんに幹はあっさり手を離した。

「わかってるわよ、そんなこと」

先ほどまでの取り乱しようが嘘みたいなくらいさらっと言った。

「だいたい琴子が入江さん一筋だってことは嫌というほど知ってるわよ」
「それじゃあ、なんでそんな噂が広まるのよぉ」
「そんなもの、面白いからに決まってるじゃない」
「そ、それだけ?!」
「だいたいいつもあんただけなのよ、噂されるようなことがあるのは!
啓太だって別に容姿は悪くないし(中身暑苦しいけど)、いつぞやの誰かだって。
あ、食堂の男もいたわね」

いつぞやの誰かって、誰?
食堂の男って…金ちゃん?
…そんなにもてたかしら、あたし。

「今度のMR君だって、あれでいて大手薬会社の息子よ。もう調べてみてびっくり!
なんだって琴子ばっかりおいしい思いするのよぉ…と思ってるやつなんていっぱいいるのよ」
「…そう思ってるのはモトちゃんじゃなくて?」
「いいのよ、あたしは。何より入江さんとられて一番悔しい思いしたんだから」

琴子は再び後ずさりして言った。

「でもぶつかっただけで、別に日比野さんもそんな気はないわよ」
「ま、そうよねぇ」
「そうよ、そう」

それだけ言って琴子は申し送りのためにその場を離れた。
一人残された幹は同じように申し送りに向かいながら一人つぶやいた。

「本当にそうだといいけど」


 * * *


仕事も終わり、琴子は更衣室を出てぶらぶらと歩き出した。
昨日一日、直樹からの連絡をずっと待っていた。
メールも何もなくて、あの電話であきれてしまったのかと思った。
ようやく玄関にたどり着き、琴子はポケットから携帯電話を取り出した。
仕事中はおろか、
本来は院内でもむやみに携帯を扱うのはあまり喜ばれない。
もちろんそんな規則を真面目に守っているものはほとんどいないのだが。
画面を見つめ、思い切って電話をかけてみようと思った。
そのとき、「あっ…」という声を聞いて前を向いた。
日比野がいた。

日比野は琴子に気がつくや、くるりと向きを変えて玄関を出て行こうとした。

な、なんで?あたしのほうが逃げたいくらいなのに。

思わず声をかけた。

「日比野さん」

日比野は逃げようと思った足を止めて振り返った。

うわ、何であたし呼び止めちゃったんだろ。別に用事ないのに〜。

琴子は呼び止めた自分を後悔した。
玄関で見つめあう形となった二人は硬直したまま立っていた。
その二人を見かけた周りは、何が始まるのかと遠巻きに見守っていた。
玄関の守衛は見ぬふりをして興味しんしんだ。
非常に気まずい時間が流れた。


 * * *


その少し前の時間、日比野はため息をつきながら斗南大病院を訪れた。
アタッシュケースはいつもより一層重く感じられた。
足が向かないのは唯一つ、琴子に会うのが怖かったからだ。
会ったら何を口走るかわかったものじゃない。
それと同時に病院へと足を向かわせる気持ち。
遠くからでもいいから一目見られたら、多分満足する。

よりによって、何で入江夫人なんだか。

自分でそう問いかけながら玄関に向かい…。
ふと前を見ると、そこに、いた。

「あっ…」

何も言わずに知らないふりで通り過ぎればいいものを思わず声を出してしまった。
出してからしまったと思ってももう遅い。
琴子は日比野に気づいた。
日比野は泣きそうになってそのまま踵を返す。
何で泣きそうなのかは自分でもわからない。
まるでこれでは女子高生みたいだと思う。思うけれども自分の行動を止められないのだから仕方がない。

「日比野さん」

琴子が呼び止めた。
そのまま振り切ってしまえばよかったのに、悲しいかな、日比野の心は琴子の声で振り向いてしまった。と同時に足も止まり、琴子を振り返った。
何か言おう。
そう思って口を開きかけた。
せめて挨拶なりとも。
口を開きかけたまま、笑顔を作ろうとした。
営業スマイルだ。
腐っても、成績が悪くても、新人でも営業は営業。
それくらいはいくらなんでもできる。…はずだった。
でも、琴子は営業の相手じゃない。
彼女は日比野にとってすでに特別なのだから。
二人が見つめあったまま、玄関の人の流れは続いていく。
ただ、興味深そうに二人を見る者も遠巻きにしていた。

「あの」

日比野は緊張でからからになった喉を絞って声を出した。


 * * *


さらに少し前、時を遡って、場所さえも飛び越えて、入江直樹は神戸の病院にいた。
重要だった手術も予定外ではあったが結果的には無事に済み、術後も何とか落ち着きそうだとわかったとき、直樹は一人の医師に告げた。

「先日の休暇、取り戻していいですか」

言われたほうは「は?」と聞き返した。

「向こうからもそろそろ帰るようには言われているんですが、とりあえず調整のために一度戻ってきていいですか。
そのために先日取り消しになった休暇の分、代わっていただけますよね?」
「い、入江、上のほうに聞きもせずに…」
「いえ、もう聞いてあります。東山先生さえよければいいと言われました」
「お、おまえ、僕に何も言わずに」
「でも先生、前回の手術室での貸し、まだ返してもらっていませんから」
「…あれか…」

手術途中で腹痛に見舞われ、直樹を呼んで交代するしか方法がなかった集団食中毒事件。
直樹はその貸しがあると迫っているのだった。

「ですから、これ」

壁に貼ってある休日当直表をトントンと指し示し、直樹はにやりと笑った。
東山医師は首をすくめて渋々承諾した。
それでも一言付け加えるのは忘れずに。

「…結局、琴子ちゃんに会いたいだけだろ。悪い虫がつかないか心配にでもなったか?」
「…いけませんか?」

ギロリとにらまれて、東山医師は早々に退散した。
そして一人心の中で愚痴る。

琴子ちゃん帰ってから、ただでさえ愛想のない顔がさらに怖いと噂なんだよ。
あの鉄面皮が奥方に会えないだけでこれだからな。
これで本当に浮気でもされてた日には…。
…面白すぎる。

そんなこととは知らない直樹は、すでに頭の中で東京に帰るためのシュミレーションが展開されていた。


(2008/08/19)


To be continued.