Lucky life



55555Hit御礼 くろすりん さま


その辞令は、入江直樹にとって意外なところからやってきた。
誰が行くか、どこへ行くのか、直樹は気にはしていなかったし、まさか自分が選ばれるとは思っていなかった。
嫌ではなかったが、今また行かなければならない理由も見つからなかった。
そして、それは再び琴子を泣かせることになる。
それを思ったときに、少しだけ返事に躊躇した。
「行きます」と返事をしたその頭の中では、すでに後悔と言う文字も浮かんだ。
こんな風に思うようになった自分に苦笑しながら。


「これから3ヶ月間、神戸へ行くことになった」

そう告げたときの家族のわめき具合と言ったら…。
直樹はうんざりしながらこれからの予定を頭の中で立てる。
現在受け持っている患者をどのように他の医師に振り分けて託すか。
いつもの出張とはわけが違う。期間もずっと長い。
それだけに妻の琴子は泣き通しだ。
…直樹はため息をついてこれからの騒動を思った。


 * * *


いざ出発してみると、直樹は勤務先の病院に早々に慣れてしまった。もともと一年間研修した病院であり、その頃の医師が直樹を忘れるはずがない。
そもそもこの神戸行きは、入江直樹をご指名なのだから歓迎ムード一色である。
歓迎ムードの中には、医師以外にも看護師など医療関係者や患者までいて、さまざまな人間が直樹を待ち受けていた。
受け入れが早くてやりやすい反面、斗南大病院では静まっていた直樹獲得大作戦が展開されようとしていて、仕事以外の面でとてもやりにくかった。

大勢の人間が直樹を気にして声をかけ、周りにはいつも人がいるというのに、それでも一人の生活に違和感があった。
家具つきのマンスリーマンションを借り受けていて、何でもそろっているにもかかわらず、琴子は何か足りないものはないかと気にかけて宅配便をよこす。
電話はほぼ毎日。
メールも頻繁で、嫌でも家にいないというのを感じさせられた。

家に帰って一息つくと、ふと電話に目をやるのが癖になってしまった。
仕事中は院内専用のPHSを持ち歩く代わりに、自分の携帯はずっと医局に置きっぱなしだった。
その間にメールから留守電までさまざまなメッセージが目一杯入っていた。
それでも家に帰った頃を見計らって電話が入る。
今のうちに風呂にでも入っておこうと立ち上がった。


『もしもし、入江くん?まだ帰っていないの?あのね、あの、あたし…。
あ、やっぱり入江くんに直接言うことにする。だって、ふふふ…。
それから〜、今日は家で…』


風呂から出た直樹は、留守電のメッセージをため息をついて聞いた。
留守電のメッセージは、最大1分半くらいだというのがいまだわからないらしい。
いつもいつも途中で切れていることにもさすがに慣れた。
それにしても何かあったのだろうか。
いや、いつも同じようなセリフで、思わせぶりに吹き込んでおいて、直樹に電話をかけなおさせるのもよくあることだ。
疲れてぼんやりとした頭でそのまま電話をかけることにした。
ところが、タイミング悪く琴子は出ない。
最近は肌身離さずトイレの中にまで持ち込んでいるはずだから、きっと琴子も風呂なのだろうと思われた。
そのまま電話をきって、直樹はベッドにもたれた。
着信履歴が残るからきっとわかるだろうと思いながら、髪の雫が伝って垂れるのを見ていた。
まぶたが自然に閉じてくる。

「琴子…」

知らずうちにつぶやいていたが、聞くものは誰もいない。
今度の休みは1週間後。
まだ、会えない。

斗南大学病院から派遣されてすでに2週間。
わざと忙しくしたわけではないが、無意識にマンションに帰らないようにしていたのかもしれない。
ここは直樹にとって「家」ではなかったから。
ぎりぎりまで疲れを貯めて、一気に眠りに落ちる。そんな生活を続けていた。
だから、もう一度着信があったとき、夢うつつに着信音を聞いていたが、どうしても身体が動かなかった。
電話の向こうで琴子が泣きそうになっていることも知らず、思わぬ深い眠りに落ちていた。
琴子がいたら、髪を乾かさずに寝ると風邪をひくよと言われるだろうと思いながら。


(2007/07/12)


To be continued.