Lucky life




入江琴子にとって、その話はまさに寝耳に水、だった。
もしその話を少しでも早く事前に聞いていたら、どんな手を使っても阻止したのに、とまで思いつめていた。
神戸の病院にまたもや直樹が行ってしまうと聞いた日には、めまいを通り越して卒倒寸前だった。

「い、入江くんが…行っちゃう〜〜〜」

三日三晩泣き暮らしたものの、その詳細を聞いてようやく落ち着くにいたった。
それでもたかが3ヶ月、されど3ヶ月。
前のように長くはないものの、琴子の知らない生活が3ヶ月もあっていいものだろうか。
琴子は密かに看護部長に働きかけを行うことにした。


 * * *


「入江さん、明日からだって?」

その言葉を聞いた途端、琴子の目は潤み始める。
桔梗幹は品川真里奈をとがめるように白衣を引っ張った。

「もう、その話はなしよ」
「な、なによ」
「見ててごらんなさい。そのうち号泣しだすから」

二人は琴子の顔をじっと見つめる。
いつもならこの辺りですでに号泣するところだ。

「…しないじゃない」
「昨日までは誰かがその話をするたびに号泣だったわよ」

二人の方を向いた琴子は、目を潤ませたまま廊下に走り出て行った。

「あら、今度は違う場所で泣くのかしら」

二人は琴子の後ろ姿を目で追っていると、駆け寄っていった先は師長のところだった。
何事か必死に訴えている。

「あらあらぁ?何やってるの、琴子ってば」
「何でもいいけど、とにかく入江さんが明日から行くのは決まりなのよね?」
「そのはずだけど」
「じゃあ、いまさら師長さんに抗議したって遅いんじゃない?」
「わからないわよ、あの娘のパワーだと…」
「それにしたってー、入江さんのこと抗議するなら師長じゃなくて院長じゃないの?」
「…さぁねぇ。入江さんのことになると必死だから、あの娘」

二人は知らなかった。
琴子が直訴していた内容を。
おまけにまさかそれが実現するとは誰も信じてはいなかったことを。


 * * *


朝からそれはいい天気だった。
琴子は恨めしそうに空を見上げて、傍らに立つ直樹を見た。
まるで今生の別れのようである。

「い、入江くん、また遊びに行ってもいい?」

直樹は一瞬どう答えようかと考えた。
ここで即座に「いいよ」とこたえるのも気が引けた。
遊びに行くわけではなく、研修で行くのだから。
もちろん休みの日はあるだろうが、休みの日には東京へ帰ってくるつもりでいたから、そんなに別れを惜しまれるほどのことはないと思っていたのだった。
だから、
「俺が時々帰ってくるから」
とだけ答えた。

「でも、やっぱり寂しい」

東京駅までずっとその調子。
さすがにだんだん憂鬱になってきて、口数も少なくなる。

新幹線を前にして、琴子は何も言わない。
仕方がないなとため息をついて、直樹は琴子の頭に手を置いて言った。

「俺がいないからといって他の皆に迷惑をかけるなよ」
「か…かけないもん」
「それから、仕事を放って神戸へ来るのもなしだ」
「…そんなことしないもん」

少し膨れて琴子は言い返した。
直樹がいなくなるのは確かに寂しいが、前のように授業をサボっても何とかなる学生じゃない。自分が無断欠勤したときの影響の大きさをさすがに自覚している。
琴子は遠ざかる新幹線を見つめながら、以前離れた一年間の時の寂しさを思い出していた。

今までも同じ家に住んでいてもすれ違ってばかりいたのだから、多分3ヶ月くらい何とかなる、と最初は思っていたのだったが。
日々荷物を詰める直樹を見ていたら、とても我慢できそうになかった。
だから、琴子は考えた。
かなり真剣に対策を練ってみた。
それは直樹に言えばバカにされること間違いなしのことばかりを。

休暇をとる。→師長にあっさりダメだしされた。
こっそり見に行く。→学生のときとなんら変わらない。
休みのたびに行ってみる。→時間もお金も体力も続かない。
時々会いに行く。→直樹の案と変わりない。
電話を毎日かける。→今と変わらない。

自分の考えが全て役に立たないと知ったとき、琴子はさすがに落ち込んだ。
しかし、落ち込んだままでいないのが琴子。
次の瞬間妙案を思いついた。

あたしも研修がてら神戸へ行くとか?

そんな突拍子もないアイデアだったが、ここに幸運な企画が看護部で持ち上がっていた。
つまり、本当に神戸の病院と提携するために、今回医師として直樹他数名を神戸の病院へと送り込んだわけだが、看護部のほうも同じように看護師数名を派遣することとなった。
もちろんそれに琴子が選ばれる可能性は限りなく低い。
琴子はそれでも何とか選ばれるように直接看護部へ。

看護部では派遣する看護師の選定方法で詰まっていた。
もちろん他の病院へ行ってみたいという意欲的な看護師はいる。しかし、それぞれ事情もあるから、いきなり来月から行ってくれと言われて、行ける看護師はなかなかいない。
応募者が多数いれば、選定試験を行わなければならない。そのための準備も必要である。
その試験はどうやって行うか、どのような内容にするか、それだけでも頭が痛いのに、トラブルメーカーの登場である。

「ぜ、ぜひ私を神戸へ行かせてくださいっ」

その意欲は買いたい。
しかし、斗南大学病院きってのトラブルメーカーを派遣する勇気は看護部の面々にはない。
もちろんそれであきらめる琴子ではない。
看護部へ日参しての直訴。
さすがにうんざりしてきた看護部は、早々に派遣者を決めてしまおうと画策した。つまり、派遣者が決まっていない状態がいけないのだ。
そこで目ぼしい候補者に声をかけ始めたが、どうにもうまくいかない。
妊娠発覚に父母の介護、結婚退職…と、行けない事情とやらができてしまったのだ。
仕方なく看護部は、散々迷った末に琴子を派遣することにした。
それも本当に本当にぎりぎりの選択だったのだが、そんな裏事情など琴子が知るよしはない。
琴子は自分の熱意が通じたと、ひたすら喜んでいた。

というわけで、直樹の後を追うようにして、琴子は神戸の病院に2ヶ月行くことになった。
もちろん直樹には内緒で。


(2007/10/29)


To be continued.