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直樹に呼ばれて浮かれて手術場へ行った琴子だったが、どんな手術かも聞かされていなかったことに気がついた。
おまけに手術室ではあまりいい思い出はない。
でも、入江くんが他のどんな優秀な人よりもあたしを呼んだんだから。
そう思って急いで手術室へ入る準備を済ませた。
中へ入ると、待ちかねたように直樹が言った。
「直で入れ」
「え、でも、渡す器具とかわからないし」
「俺が言うから」
手術衣を着せてもらい、手袋をはめることにした。
足台に乗ると、患者は随分小さかった。
「…手術の患者さん、子どもなの?」
「だから?」
「ええと、大丈夫かな」
途端に弱気になった。
こんな小さい子に何かあったら…。
「成人のヘルニアならついたことあるだろ。それを思い出せ。
渡す器具を間違えただけでは死なせやしないから」
「…うん、入江くん」
あとはただ、琴子にとっては長いようで短い時間。
直樹の大きくはないのによく通る声と器械類の音、心電図モニターや麻酔の音。
それに応えるように琴子は直樹に返事を返す。
「終了です」
最後のパチンという音を最後に直樹が言った。
「お…お疲れさまです」
琴子は自分の額を拭おうとして、自分の手にはめている手袋に気づいて慌てて手を引っ込めた。
直樹は手袋をはずすと、琴子の頭をぽんと軽く叩いて手術室を出て行った。
それを見送り、比較的症状が軽くて間接介助を請け負っていた手術室看護師が言った。
「最初はどうなることかと思いましたが…」
え…?!
琴子がぎょっとしてそちらを見ると、手術室看護師はにっこり笑った。
「入江先生が呼んだだけはありますね。息はぴったりでしたし。…噂で聞いていたよりもできる方なんで驚きました」
どんな噂だったんだろうと少しだけ冷や汗が出る。
「それに、思ったよりも入江先生とお似合いでしたしね」
そう言われて、琴子は神戸へ来てから初めて派遣に来た甲斐があったと思った。
急いで手術衣を脱いで、琴子は手術室を飛び出した。
一刻も早くこの喜びを誰よりも一番に聞いてもらいたい。
誰よりも琴子を信頼してくれた愛する人に。
* * *
残りの1ヶ月を何とか過ごし、琴子の派遣は終わった。
あの手術室での話は広まったものの、その後の琴子のドジ振りが急に変わるわけもなく…。
それでも直樹と琴子がまぎれもなく夫婦だということは、他の面々にもよくわかったようだった。
琴子は荷物を片付けながら、それでも一足先に帰ることに愚痴を言う。
「入江くんのほうが先に来たのに、まだ帰れないなんて…。
それに最初は3ヶ月って言ってたじゃない。それならあたしと一緒に帰れるはずよね、本当なら」
たった2ヶ月の間にさらに膨大になった琴子の荷物を宅配便で送るように勧めた。
「なら、おまえが後に帰るようにまた裏工作したらどうだ」
「それは、いや。というか、裏工作なんかしてないってば。看護部がぜひあたしにって言ってきたんだから」
「…はいはい」
でもいいんだ。
先に帰って入江くんに「おかえり」って言ってあげたいから。
「入江くん、あたしが神戸に来てよかった?」
「随分楽しませてもらったけど」
「え?」
「この間中材で(中央材料室:注)、消毒したばかりの鑷子(せっし:注2)をぶちまけたって?」
「え、えーと、あれは…」
「ああ、それよりも廊下ですっ転んで危うく自分が引っ張っていたストレッチャーに轢かれるところだったって?」
な、なんで知ってるんだろう…。
「本当に退屈しないよな」
「だ、だから、それは、たまたまよ、たまたま」
「へぇ」
直樹は資料を手から離して琴子を眺める。
「明日は朝から手術だから見送りに行けないからな」
「わかってる。あ〜あ、でもなんだかちょっと寂しいな」
琴子は直樹に抱きつきながら言う。
「だって、お義母さんたちや斗南の皆がいないのは寂しいけど、まるで新婚で二人暮らしみたいだったんだもん」
直樹は片手で抱きしめ返しながら思い返していた。
最初に琴子が現れたときのことを。
前に神戸にいた一年間は、なかなか会えずにいた。
それが思わぬ再会で、誰にも(東山医師はともかく)邪魔されずに過ごした2ヶ月の日々を。
もしも将来こんな風に斗南を離れることがあっても、琴子と二人なら多分大丈夫だろう。
そんな風に思い返しながら、琴子に笑い返した。
「俺にとっても結構ラッキーだったよ」
耳元でささやきながら、またしばしの別れを惜しむことにした。
Lucky life−Fin− (2007/12/28)