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直樹がトイレへ行ってしまうと、急に出席者の面々がそわそわと話し出した。
「えー、同居って、ナニ?!」
「入江先生ってホントにクール〜」
「奥さんがいてもいいわ〜」
「あ、ほらあ、奥さんてあれよ」
なんとなく漏れ聞こえてくる声に目を光らせながら、琴子はつくねを食べきった。
「琴子ちゃん、前にもこっちに来てたって?」
東山医師が赤い顔で言った。
横にわざわざ移動してきて顔を向ける。
酒臭い息を避けながら琴子は答えた。
「ええ、まあ」
「ところで、昨日は再会のなんたらとかだった?」
「…はぁ?」
「いやー、あいつだって淡白な顔してやることやってんだろー」
「あの…」
「それとも本当に淡白だったら僕が…」
にじり寄る東山医師を引き戻すように他の看護師が近寄る。
「東山センセーってば〜」
「ヒャッハッハッハッ…」
「もう、入江さんばっかり〜」
「いやー、オモシロイぞ〜」
…東山医師は完全に酔っ払いだった。
琴子はそんな東山医師を残して同じようにトイレに立ち上がった。
座敷を出てトイレに行く通路に行くと、壁にもたれてタバコを吸っている直樹を見つけた。
「…入江くん」
「よお」
滅多に吸わないというタバコを疲れたように吸っている。
半分ほどしか吸っていなかったが、琴子の姿を見るとすぐに消した。
「…帰るぞ」
「え、でも」
「いいだろ、どうせダシにして飲んでるだけなんだから」
…確かに。
直樹はにやっと笑って言った。
「もっと早く出てくるかと思ったのに、随分遅かったな」
「い、入江くんこそ、戻ってくると思ってたのに」
「それとも唐揚げを食べ損ねたから戻るか?」
「…いらない」
ほら、とでも言いたげに立っている直樹に琴子は喜んで腕にしがみついた。
「一緒に帰ろう!」
座敷からの東山医師のご機嫌な笑い声を背に、二人でマンションに帰ることにした。
波乱の幕開けとはいえ、とりあえず二人でいられることに喜びをかみ締めながら。
* * *
翌日から、しばらくは何事もなく過ぎていった。もちろんとてもほめられるような仕事ぶりではなかったが。
それでも琴子はめげることなく頑張っていた。
徐々に一緒に働く同僚にも琴子のそのパワーに感化されたように活気づいていた。
最初は外科に派遣された琴子だったが、2週間後には内科へ。
あっという間に直樹と一緒だった外科を過ぎ、少々寂しさを覚えたが、また相次ぐ飲み会の嵐に巻き込まれ、寂しさもなんのその。
それよりも忙しすぎて、直樹の帰りを待ち伏せしたり一緒に食事をしたりする暇さえできず、斗南にいるときとほぼ変わらない生活なのが不満だった。
直樹は噂で聞く琴子の様子から、彼女なりにかなり頑張っていることは知っていたが、直樹自身も忙しすぎてなかなか構ってやれなかった。
何よりも持ち前のパワーですぐに順応している琴子に感心したくらいだ。
あるときは患者の移動中に、あるときはマンションの入口で、直樹に会おうと探して追いかけてくるパワーも衰えず。
あっという間に1ヶ月が過ぎた。
* * *
その日、琴子は慣れない内科の派遣を終え、今度は整形外科への引継ぎに入っていた。
今まで外科にしかいなかった琴子だったが、実習以来看護師としていろいろな病棟を巡るのも慣れないうちは大変だが新鮮味があって面白かった。
あれから東山医師は見かけるたびに琴子に声をかけてくるが、そのそばには直樹もいるため、東山医師のお誘いが成功したためしはない。
西垣医師のように女と見れば誰にでも声をかけて、誰の誘いでもオッケーなのが身上だと豪語しているくらいだから、それも一つの日常なのだろう。
琴子の所業はすでに神戸の病院内でも有名になりつつあった。
さすがに斗南から来て、かの有名な入江先生の奥さんの噂とあいまって、かなり早くその存在も病院内に広まったこともある。
「ああ、入江さん?入江先生の奥さんでしょ。思ったよりもドジね〜〜〜。
そうねぇ、注射はヘタ、だったわ。
でも、まあ、頑張ってるんじゃない?」
苦笑しながら内科の師長がそう答えた。
看護部長は遠めにあたふたと走り回っている元気な琴子を見て、まあこれもいいでしょうとうなずいた。
そのときだった。
「大変です、部長」
血相を変えて現れたのは、外来師長だった。
「集団食中毒で…!」
その報告を受けて外来へ行ってみれば、なんと病院の医師や看護師たちがお腹を押さえてうずくまっていた。
「外来だけだと思ったら、どうやら先ほど病棟でも職員が…」
「…どういうことです?」
「わかりませんが、職員食堂で食べた者が主に倒れていますから」
「それなら、被害は他にも?」
「…もっと出る可能性もあります」
「…患者にも出ていないか至急調査して、職員で症状を訴えたものは全て3階の空き病棟へ運ぶように」
「はいっ」
この病院始まって以来の非常事態だった。
* * *
その頃直樹は、手術で遅れた昼食を医局で食べていた。
いびつな形のおにぎりを食べながら、相変わらずの味だと少しだけ眉をしかめる。
塩の効きすぎたおにぎりは紛れもなく琴子の手作り。
今日は手術で遅くなって、食堂も売店も売り切れてなくなるだろうからと気を利かせて作ってくれたのだ。
すべて食べ終わったところで呼び出しが鳴る。
「はい」
『集団食中毒で手が足りません。お体が無事な医師と看護師は直ちに3階病棟へ!』
「…わかりました。すぐに行きます」
すぐに立ち上がって、階段へと向かった。
3階へ向かうと、続々と職員が運ばれてきていた。
比較的動ける者も片手にビニール袋を抱えていたりしている。
「あ、入江先生はご無事なんですね」
「弁当か、食堂ですか?」
「どうやら食堂の定食に出た小鉢のおかずが原因のようです」
手早く患者を選り分けながら、直樹は琴子の姿がないことを確認する。
症状の軽重はあるものの、患者はまだ増えそうだった。
「入江先生!!」
慌てたように走りこんできた者がいた。
「大変なんです。先ほど緊急手術で手術室に入った医師が!」
手術着を着ているところから見ると、手術室の看護師かもしれない。
「食中毒か」
「手術についている看護師たちも症状が出てきて…。
すぐに手術場へお願いします。代わりにやれそうな人が入江先生しかいないと執刀医が指名してるんです」
すでに直樹は移動しながら話を聞いている。
「それで、執刀医は」
「東山先生です」
…どおりでこの場にいないわけだ。
「そんなに難しい手術ですか」
「いえ、ソケイヘルニアの嵌頓(かんとん)[注:説明は下部に]です。
ただ患者が3歳の幼児なんです」
「…わかりました」
すぐに手術の準備に入ったが、まともに動ける看護師も確保できない状態だった。
それを見てとると、直樹は電話をかけさせた。
「え?彼女を?」
「大丈夫だから、呼んでくれ」
「は、はい、わかりました」
* * *
「それじゃあ明日からはもう別の病棟なのね」
「ええ、お世話になりました」
「…はあ、まあ、どういたしまして」
歯切れの悪い内科の同僚の引きつり笑いを見たが、琴子は少しほっとした。
やっと1ヶ月が過ぎ、残り1ヶ月を無事に過ごせれば…。
「大変よ、中田さんが食中毒で倒れたの」
突然のことに琴子をはじめナースステーションにいた面々が何事?と思ったところへ、内科の看護師長が慌てて戻ってきた。
「皆さん、職員が集団食中毒です」
「はぁ?」
「症状の出た者は業務を中断して。それから業務の手が空き次第3階へ行って手伝ってください」
何かただならぬことが起こったということは琴子でもわかった。
そのうち、先ほどまで話していた同僚が、急にお腹を押さえて走り出した。
行った先はどうやらトイレらしい。
ということは…。
「職員食堂で食べた者は申し出てください」
しょ、食堂?!
…と、そこへ電話が。
「は?入江さんを?」
あ、あたし?何か?
「はい、わかりました。では、すぐに」
受話器を置いて、師長は琴子を振り返った。
「入江さん、すぐに手術室へ行ってください」
「手術室?」
「手術室看護師が倒れて手が足りないそうです」
「なんで、あた、あたしがっ」
「入江先生のご指名だそうですよ」
入江くんの?!
直樹の名前が出た途端、ぴくっとその場にいた者が琴子を見た。
よりによって入江さんをご指名なんて、よほど勇気のある…。
ああ、入江さんが奥さんだから?
それにしたって、入江さんが役に立つの?
そんな視線を感じたが、琴子は直樹のご指名ですっかり浮かれていた。
師長が何か言う前に、すでにその場を駆け出していた。
(2007/12/28)
To be continued.