大江戸恋唄




お江戸の師走は相も変わらず賑やかだったが、更に新年を迎えるための準備で忙しそうに立ち働く人々でいっぱいだった。

「先生、そこちょっとどいてくださいませ」
「なんだよ」
そう言って追い立てられたのは、本所に診療所を開いている医師直樹。
「はいはいはい、ごめんなさい」
そんなふうにほうき片手にさも忙しそうに追い立てたのは、その妻であるお琴だった。
師走に入ってから、そんなふうに新年への大掃除だと称してあちこちを散らかして…いや、本人によれば片付けているのだった。
「今更そんなふうに片付けたって仕方がないだろ」
呆れながらも、既にそれ以上の抗議は諦めている直樹だ。
答えは決まって小汚い診療所では患者さんに申し訳ないということだったが、その患者が一番迷惑顔なのも気づいていないらしい。
師走に入ってからというものの、斗南堂ではいつも埃が立ち込めているという噂になっている。
「お琴ちゃん、何もそんなに頑張らなくてもいいんじゃないかね」
そうやんわりと言う者もいたが、「いえ、年に一度の師走のときくらいきちんと煤埃を落としておかないと、患者さんのお体に差し支えますから」とお琴が答える。
苦笑しながら、皆それ以上は諦めるといった繰り返しなのだ。
何せお琴の格好ときたら、姉さん被りに襷がけ。これからどこぞかに討ち入りに行くのかと思うほどの張り切りようなのだ。
「そのうち飽きるだろうから放っておいてくれ。いや、迷惑なのは申し訳ないが」
直樹はそう言ってため息をついた。
「先生もお琴ちゃんにかかっては形無しだねぇ」
そう言って患者は皆笑う。迷惑顔になってもお琴が嫌われないのは、お琴が皆に好かれていている証拠でもある。
「俺の部屋だけは触ってくれるなよ」
「はあい、承知しております」
お琴の元気な声は物置から聞こえた。
しばらくはがたがたと音がしていたが、急に静かになった。
それからうんともすんとも言わない。
患者が途切れて一息ついた直樹は、少し心配になって様子を見に行くことにした。
騒がしすぎるのは困るが、お琴の気配がないと途端に心配になるのだ。
物置をひょいとのぞくと、そこではお琴が柳行李を前にして座り込んでいるのが見えた。
「お琴」
声をかけると、はっとしたように顔を上げ、急いで袂で顔を拭う。
「…どうした」
「いえ、何でもありません」
そう言いながらも明らかに泣いていた様子なのが気になって、直樹はゆっくりと物置に入っていく。その手元を見ると、お琴の手には硝子のびいどろがあった。
直樹はああ、あれかと思い出す。
「あれからもう一年経ったんですね…」
「…そうだな」

 * * *

遡ること一年以上前のことである。
まだ直樹とお琴も所帯を持っていないどころか、お互いにまだその存在くらいしか知らない頃の話である。
直樹は小間物問屋佐賀屋の嫡男。
お琴は料理屋福吉の一人娘。
二人の親同士は同郷だったことから、江戸に来てからも時々交流はあったようだが、お琴の母が亡くなったのを機にお琴の父は忙しさに紛れて直樹の父と会うこともほとんどなかったという。もちろんその頃の直樹とお琴はようやく物心ついたくらいなので、ほとんど顔も名前も知らない。
そのまま年を重ね、いつの間にか直樹は見目麗しい青年に。お琴は少しおきゃんな娘に育っていた。
二人が会うことになったきっかけは火事だった。
江戸で火事は多く、春の花見を過ぎた頃、福吉の近くで火事が起こり、福吉はあれよあれよという間に火消し連中によって火事避けのために引き倒されてしまった。
結果的には福吉の辺りまで火が回ることはなかったのに、だ。
残念だが仕方がない。
命があっただけでももうけものと思うしかなかった。
そんなお琴の父の元にしばらく会わなかった直樹の父が援助を申し出た。
火事は瓦版によって知らされ、驚いた直樹の父がお琴の父に会いに来たことによってそういう話になった。
もちろん一度は断ったお琴の父だったが、早く建て直さねば仮住まいもなかなか大変で、しかも常連は離れていってしまう。
悩んだ挙句、お琴の父は話を受けることにした。ただし、売り上げの中から少しずつお金は返すことにして。
惜しみない援助によって福吉は建て直され、より一層料理屋として格が上がり、よく繁盛した。
直樹とお琴が親しくなったのはそんな頃の話である。

直樹はなんと言っても容姿端麗で、手習いでは一番の出来の良さ。道場に通えばあっという間に師範代。
そんな青年が噂にならないはずがない。
お琴は父同士が同郷で知り合いということすら知らないまま直樹を好きになっていた。
直樹と言えば、ちょろちょろと現れる姿をその時々で目にしていた。
もちろんこれはお琴が直樹を追いかけていたからだが、あの火事の数日前にとうとうその姿は目の前に現れて言ったのだ。
「こ…これ、読んでくれる」
震えながら出された手紙は、どう見ても付文のようだった。
なので、いつものように直樹は断った。
「いらない」
道場帰りだったせいか、周りには道場から帰る弟子も大勢いる中の出来事だった。
直樹のそばには渡辺もいたのだが、もちろんお琴の目には映っていなかった。
手紙を受け取ってももらえず、お琴は失意のうちに家に帰ることになった。
その道すがら、弟子たちからの噂が既に回っていたのか、福吉から一人の男が飛び出してきた。
「お琴、佐賀屋の息子に付文なんてしよったと」
「なんだ、金ちゃんか」
とぼとぼと歩きながらお琴は答えた。
「おれっちゅうもんがありながら」
「だって、あたし金ちゃんのものじゃないもん」
父の弟子ではあるが、将来を約束したわけでも何でもない。
その頃には仲良く手習所に通っていたおさととおじんの二人も駆けつけた。
それぞれ商家の娘ではあるが、お琴も含めてお年頃ではあったがいまだ嫁にはいっていない。
「今度新しく出来たあんみつやさんにでも行こうね」
そう言って二人は慰めてくれたが、ただ一人金之助だけは「心配するなわしがもらったる」とお琴に嫌がられながらも後ろを付いて歩いていたのだった。

付文を断られてお終い、のはずだった。
ところが数日後の大火事である。
福吉の一大事に駆けつけてくれた佐賀屋の主の家にとりあえず案内された。
佐賀屋の主は本当は別邸でも貸すつもりだったのだが、女の子の欲しかった佐賀屋の女将、お紀(のり)がお琴を一目見て気に入り、一緒に住むことに決めた。
むしろ住み込んでいた者たちを再建までの間別邸に住んでもらうことにしたのだった。
お琴は佐賀屋に来て今までにないくらい緊張していた。
親同士が知り合いだったなんて知らされていなかった。
それならそれでもっと近づき方はあったろうに、と激しく後悔していた。
女の身から付文をして、読んでももらえずに断られた男がいる家に同居などと恥ずかしくてずっとうつむいたままだった。
「まあ、お琴ちゃん、気を楽にしてちょうだい」
そうは言われても、いつ直樹が現れて付文のことをからかわれるかもしれないと思うと、気が気ではなかった。
ところが、直樹はあまりにも素っ気無かった。
直樹の母であるお紀が紹介してもなお、まるで知らなかったかのように黙ってお琴に目をやっただけだった。
手習いから弟の裕樹も帰ってきた。
手習いで習ったという字をお琴に見せたが、お琴がすぐに答えられないと知って意地悪げに笑った。
お琴は涙目になりながら、これほど意地悪兄弟だったとは、世間の噂もあまり当てにならないと部屋で一人落ち込むほどだった。

昼下がりの店表からは賑やかな笑い声と華やかな声が響いてくる。
店表では、華やかな小間物が並べられ、ひっきりなしに若い娘も訪れる。
佐賀屋はこの通りでは一番の大店なのだ。
それでも、跡取りでもある直樹はまだほとんど店表には出ない。
出たら出たで店は大混乱になるので、あえて主から出ないように言われ、主に仕入れなどを手伝っている。
しかし店に訪れる娘たちは、少しでも直樹の顔が見られないかと落ちつかなげに小間物を選んでいくのだ。
お琴は自分の小遣いではなかなか買えない簪(かんざし)や櫛(くし)を眺めたこともあるが、初めの頃に一度来ただけで後は訪れることはなかった。
直樹のことは別として、娘たちが手にとって憧れるには十分な小間物は、もちろん高価な物から安価な物まで取り揃えてあるが、行けば行ったで目移りしてなかなか選べないのだった。
店の喧騒が遠のく午後も遅くなる頃、お琴はお紀に呼ばれて店表へ出てきた。
やはり一度見たときと変わらず店は華やかで、自分が美人だとは思えないお琴にとっては少し敷居が高いくらいだった。
「そんなに遠慮しないでいいのよ」
お紀はそう言ってお琴のために簪を広げる。
櫛はお琴の母の形見だったが、簪はつけていない。
年頃の娘なら簪の一つくらい飾ってしかるべきだとお紀は言うのだ。
お琴は、いつかお琴のために簪を選んでくれる誰かのためにつけなかったと頬を赤らめながら言った。
「まあ、なんて可愛らしいの」
身悶えするようにお紀は言った。
それでもさほど豪華でない、安価なものなら一つくらいは小間物屋にいる間くらいつけてくれと佐賀屋の主人ともども言い募った。あくまで佐賀屋の体面のために、というわけだ。
もちろん佐賀屋夫婦は言葉とは裏腹に体面など気にはしていなかったが、そうでも言わないと遠慮深いこの親友の娘は、ただで簪を与えても納得しないだろうと思ったのだ。
お世話をするかわいらしいこの娘に、娘らしい華やかさを与えたいと思ってはいたのだ。
もちろんそのままでも十分に可愛らしいこの娘が、簪をつけて微笑んだら、それは更に魅力的なものになろうと佐賀屋夫婦は期待していた。
夫婦が見守っている前で選ぶのは、買い物に来た以上に緊張を強いられた。
あまり安価すぎても小間物屋の体面をなくすだろうかとか、豪華すぎても自分に似合わないだろうとか、全く似合っていない物を選んでしまったらそれこそ期待を裏切ってしまうだろうとか。
それを考えるとお琴はますます選べなくなっていた。
そこでひととき夫婦は席を外すことにした。
見守っていることが負担なら、納得いくまでゆっくり自分で選ぶといいとお琴に告げると、その場を退いた。
いろいろ目移りしながらも、ようやく茜色の艶やかな玉簪を手に取った。
それを手に取ったまま、それでも迷っていると、「別に悪くないんじゃないか」と声がした。
えっと思って振り向くと、出先から帰ってきたらしい直樹が立っていた。
お琴は一気に頬を染め、顔を赤らめたまま手に取った玉簪を見ると、鏡に向き直った。
いざ髪に挿してみようと鏡を見つめたが、急に直樹が現れたせいで震えてうまく挿せなかった。
「しょうがねぇな」
お琴がまるで不器用だと言わんばかりに呆れたようにそう言うと、後ろからひょいと玉簪をお琴の手から取った。
お琴があっと声を上げる間もなく、直樹が玉簪を髪に挿していた。
鏡の中のお琴の髪には、茜色がよく映えていた。
「あ、ありがとう」
そう言って振り向くと、既に直樹は店の奥に入ろうとしていて、お琴の言葉ににやりと笑って言った。
「それ、本当は南国珊瑚の最高級品」
その言葉をお琴が咀嚼する間に直樹は去っていった。
やっと直樹の言葉を理解して慌てたときには、佐賀屋夫妻がお琴が選んだ玉簪を絶賛して、これはやめますと言えない状態だった。
こんなに高価なものをと思いつつも、それでも、それまで口もきいてくれなかった直樹が自らお琴の髪に挿してくれたことを胸に秘め、珊瑚玉のように顔を赤らめたままだった。

(2013/08/31)

To be continued.