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日々はゆるゆると過ぎて行くが、お琴はなかなか直樹と打ち解けられないままだった。
なんといっても直樹がほとんど家にいない。
どこに行っているのかわからなかったが、それはひょんなことから判明した。
お琴は久々におさととおじんとともに約束のあんみつ屋に行くことにしていた。
新しくできたあんみつ屋は、それなりの味で、家を出て居候をしている身としては、その甘さが心地よかった。
もちろん佐賀屋の主夫妻は、娘がいないせいか、それはそれはお琴を娘のように可愛がってくれる。それこそお琴が恐縮してしまうくらいに火事で失った着物も小物も女将のお紀が喜んで用意してくれるくらいだ。
だから、不満などない。
「ところで、あの天才さまはどうなのよ」
おさとが話をむけたがお琴の顔は浮かなかった。
「ほとんど会わないわよ」
「同じ家なのに?」
「もしかして女将さんが気を使ってるんじゃなくて?親友の娘を毒牙にかけられてはとか。あ、でもお琴の場合、むしろ襲われたいほうか」
「お、おじん、そんなっ」
お琴は途端に真っ赤になってあんみつのところてんにさじを突き刺した。
「そ、そ、そ、そんなことあたし」
「…そうよねぇ、あんたに限って」
おさとは残ったあんみつを平らげると、ふふふと笑って真っ赤になったお琴を見た。
「それにしては付文なんて大胆な真似をよくもまあ」
おじんもあんみつを平らげたらしく、いつまでもぐりぐりとあんみつを弄っているお琴を見た。
「だ、だって、あの時はまさかもう一度会うなんて思ってもみなかったし」
「まあ、普通は会わないわね」
なんと言ってもお琴の家である福吉と佐賀屋は手習所を間にして反対方向なのだ。生活する地盤が全く違って当然だ。
「こんなことならずっと見てるだけにしておけばよかった」
そうは言ってもお琴もお年頃で、これを機に直樹を吹っ切って、父のために良縁を探すことになろうと思っていたのだ。
「もういっそ、このまま佐賀屋に嫁に行けば」
おさとがおじんと顔を見合わせて言った。
「む、無理よっ」
「だって、佐賀屋の女将はそのつもりみたいよ」
おじんはひょいとお琴のあんみつから豆を摘み取る。
「それは、ただ女将さんが娘がいないから娘みたいに扱ってくれてるだけで、別に直樹さんの嫁にだなんて考えてもいないわよ」
「えー、でも、今日お店に寄ったときには…ねぇ?」
そう言っておじんがおさとの顔を見た。
おさとが笑ってお琴に言った。
「いずれお琴ちゃんはうちに嫁にもらうから、決して他の男を寄せ付けないように気をつけて頂戴って」
最後のところてんを口に頬張ったところだったため、お琴は思いっきり飲み込んでむせだした。
「おか…げほっ、女将さんが…」
お琴はそんなことを言われていたとは知らず、笑って店を出てきた。お紀もそんな素振りは見せずに笑って送り出してくれた。
「肝心な直樹さんがあれじゃあねぇ」
むせたお琴を横目で見て、おさとは首を振った。
「あら、そう言えばお琴、いい簪してるわね。それは佐賀屋の品なの?」
おじんの指摘にお琴はもう一度むせた。今度は落ち着こうと白湯を口にしたところだった。
「本当に。この玉、珊瑚?」
「あの、それは、佐賀屋のおじさんが、小間物屋だからいいものをつけなさいって」
そう言いながら、知らずうちに直樹に挿してもらった日のことを思い出していた。
「へえ、さすが佐賀屋ねぇ」
お琴の話におさとはうなずいて感心し、おじんは「やっぱりいい物なのね」と自分の見立てに胸を張った。
「そういう小物を直樹さんが選んでくれるってんなら、あたしだって佐賀屋で買うんだけど」
おさとの言葉にお琴は顔を真っ赤にさせてうつむいた。
「え、なに、直樹さんが選んでくれたの?」
「ち、違うわよ。直樹さんがそんなことするわけないじゃない」
「じゃあ、何でそんなに赤くなってるのよ」
おさとの鋭い指摘にお琴は口ごもった。
教えたいような、内緒にしておきたいような複雑な気分だった。
「そ、それは…」
「何よ、言っちゃいなさいよ」
おさとがお琴をつつく。
「そんなたいしたことじゃ」
「じゃあ、なおさら言っちゃいなさい」
更に反対隣からおじんもつついた。
真っ赤になりながら、お琴はようやく口を開く。
「ええっと、あの、直樹さんが」
「…俺がなんだって?」
低く響いた声にお琴は飛び上がるほど驚いた。
「あ…」
「うわ」
おさととおじんの言葉に恐る恐る振り返ると、そこには紛れもなく直樹がいた。
脇には何か風呂敷包みを抱えてはいるが、まさかこんなあんみつ屋に顔を出すとは思えなかった。しかも直樹は甘いものが苦手なはずだった。
「なんでここに」
思わず本音が出ると、直樹は顔をしかめた。
「出てくる前に言われたんだよ。夕七つ時(夕方四時過ぎ)にここをのぞいておまえがいたら、連れて帰ってくるようにって」
「そんな、まさか」
「まさかってなんだよ」
「だって、わざわざ直樹さんが」
「仕方がないだろ。最近物騒だってうるさいから」
おさととおじんは顔を見合わせると、すかさず言った。
「あ、じゃあ、あたしたちも帰るから。お琴のほうが家が遠いんだしさ、直樹さんと一緒に帰りなよ。あたしたちはほら、すぐそこだし、まだ明るいし」
「そうそう。家に帰るまでに暮れちゃ困るしね。じゃ、あたしたちはこれで」
そう言っておじんが代金を店の女に渡すと、おさととともにくすくす笑いながら店を出て行った。
「あ、ちょっと、おさと、おじん」
「またね」
「またおじんと一緒に誘いに来るからさ」
声だけが店の外から聞こえたが、取り残されたお琴は仕方なく巾着の紐を緩める。こうなったら代金を支払ってさっさと帰るに限る。女の多いあんみつ屋に直樹がいるのは端から見てもかなりの違和感だ。しかも顔立ちがいいので余計に目立つ。
代金を支払おうと探っている間に「行くぞ」と声がかかった。
「あ、ま、待って」
ようやく代金を取り出すと、既に店の女はうっとりとした顔をして代金を握り締めている。当然お琴が払ったものではない。
「え、あれ」
「もう払った。早くしろ」
床几台(しょうぎだい)から急いで立ち上がると、店をさっさと出て行く直樹の後を慌てて追いかけた。店を出たところで急ぎすぎて転びそうにもなったが、これは直樹の背に思わずしがみついて事なきを得た。
「ご、ごめんなさい」
直樹と一緒に歩くことは全くと言っていいほどなかった。そもそも二人で出かけたこともなければ、家の中ですらほとんど顔を合わせないのだ。
何とか震えそうになる足を立たせ、直樹の背から手を離し、ようやく落ち着いて歩き出した。
まだ日が暮れるには早いが、お世話になっている佐賀屋まではそこそこの距離がある。今日は久しぶりにおさととおじんの誘いで出てきたため、二人のお勧めのあんみつ屋だったのだ。そのために店は少々佐賀屋から離れていたのも確かだった。
それに、ここのところ年頃の娘が性質のよくない者に浚われるという話も聞いていた。
「女将さんに言われたから来てくれたの」
後ろからそっと問いかけると、直樹は一つため息をついた。
「後からうるさく言われるのも困る」
「あの、ごめんなさい、迷惑かけて。でも、ありがとう。ちょっとだけ帰り道不安だったの」
「ああ、迷子になるかもだし?」
売り言葉に買い言葉で思わずむっとしてお琴は言い返した。
「ならないわよ」
「へぇ?」
背中からではわからないが、今直樹は絶対に馬鹿にした顔をしているとお琴は思った。声に笑いが含まれていて、明らかにからかいの響きがあった。その顔を見てやろうと足早に直樹の横に回りこんだ。
ところが、横に回りこんだお琴が見たのは、ただ遠くを見て淡々としている直樹の顔だった。その横顔は思わず付文をした自分の恋心を思い起こさせ、途端に心の臓を波立たせた。その波立ちに耐え切れなくなったように、お琴はまたもや足をつまずかせた。
あっと思ったときには地面は目の前で、手をつく暇もなかったお琴は肩から転ぶことを覚悟したが、その寸前でまたもや直樹に救われた。荷物の落ちる音と共に。
「あ、れ」
「いい加減にしろっ」
「あ…」
風呂敷包みを取り落とした直樹がお琴を咄嗟に腕で引き上げたのだ。
「重ね重ね…」
そう言いながらうつむいたお琴の目に入ったのは、直樹の落とした風呂敷包みだった。
中身がこぼれ落ち、お琴は慌ててしゃがんでひとつひとつ砂を払って丁寧に拾い上げた。
それは直樹の手書きの教本らしかったが、どう見ても普通の内容ではなかった。
「これ…」
「返せ」
冷たくそう言ってお琴の手から奪い返すようにして包み直した。
「直樹さん、お医者になりたいの?」
しばらく無言の後に直樹は言った。
「だったら?」
その響きに更に冷たいものを感じてお琴は一瞬怯んだが、それでも言った。
「ううん。直樹さんだったらいいお医者さんになりそうだなって」
「…どうせ跡取りだけどな」
その言葉に少しだけ自嘲するような響きを感じ、お琴は一所懸命言った。
「そんなことない。直樹さんなら、きっとなれるよ。そ、そりゃお店もあるけど、裕樹さんだっているんだし」
直樹はお琴から目をそらし、何も言わずに歩き出した。
お琴は再び歩き出した直樹に遅れないように足を動かしたが、先ほどよりは歩く速度が緩まったように感じた。
日が傾きかけた江戸の通りを歩きながら、お琴はぼんやりと考えていた。
直樹と賑やかな通りを歩くのは、お琴の夢でもあった。二人でこうして歩いて、芝居とかも見に行ったりして、お店をのぞいて何かを食べたり買い物したり、と思うことはいろいろあったが、こうして黙って歩くのも悪くない、とお琴は思っていた。
黙って歩くうちに時々直樹はお店の常連さんに声をかけられたようだったが、ほとんど必要最低限にしか挨拶をせず、お琴に遠慮なく向けられた好奇の目を知ってか知らずか、お琴のことを「行くぞ」と短く促すだけで紹介する風でもなかった。
佐賀屋に着いたとき、ようやく直樹がお琴を見た。
「家では余計なこと言うなよ」
「わ、わかってる」
思いっきりうなずいて、お琴は了承の意を示した。お店の跡取り問題になるこの話が家で禁忌なのはお琴にだってわかるというものだ。
お琴は店の外で深呼吸をすると、すぐに笑顔に変えて「ただいま戻りました」と声を張り上げた。店の奥からは「お帰りなさい」と張りのあるお紀の声が聞こえた。
直樹はあえて店表からは入らず、その存在を隠すようにするりと裏に回ったようだった。
「あら、直樹は?」
「あ、ちゃんとお迎えに来ていただきました。お気遣いありがとうございます」
「いいのよ、大事な娘さんですもの。ところで、直樹とはお話できた?」
「直樹さん、とですか」
「そうよ。滅多に笑わないでしょ、あの朴念仁」
「そうですか?」
お琴は直樹を思い浮かべた。
確かに笑わないが、お琴は何度か馬鹿にされたように笑われたことがあった気がすると思い返した。
あの簪の時も微かに笑っていた。もちろんそれは馬鹿にした風のからかいの笑みだったが。
「私たちの子なのに、どうしてあそこまで愛想がないのかしらねぇ」
確かに、と思わずお琴はうなずいた。
いつも笑顔が優しい佐賀屋の主ところころとよく笑う陽気な女将につられるようにして、この佐賀屋の番頭も手代もよく笑う。
お琴は店が賑やかで気に入っていた。大店特有の活気があり、店の奥までそれは変わらず、この店をきっちりと掌握している感じがうかがえるのだ。
奉公人たちも居候であるはずのお琴に対しても決して分け隔てなく接してくれている。だからこそお琴はそれに甘えることなく時々は店奥で手伝いをしたりもするし、決して出すぎたまねはするまいと決めていた。
「本当にお琴ちゃんがうちにお嫁にきたらいいのに」
「む、無理ですよ」
だって直樹さんが…とお琴が消えそうな声で言うと、お紀が力強く言った。
「いいえ。直樹には絶対にお琴ちゃんのような娘さんが似合ってますし、好みのはずです。あれでも私の息子ですもの」
そうだろうかとお琴が首をかしげたところでようやくお琴は家の奥に入った。
お琴の部屋にとされている部屋まで行く途中に直樹の部屋はあった。
何か言うべきだろうかと考えているうちに目の前の襖が開いて直樹が現れ、お琴は思わず後ずさりした。
「なんだよ、覗き見する気だったか」
「そんなこと、するわけないじゃない」
「ああそう」
興味なさそうにそう言った後で、すれ違いざまにお琴にささやいた。
「てめえ、先ほどの話を家で口にしたら、ただじゃおかないからな」
お琴はささやかれた声に驚いて顔を赤らめた後、その内容に青ざめた。
「い、言わないったら」
その魅力的な声とは裏腹にささやかれた言葉の乱暴さに目を丸くしていると、その顔を見た直樹がくっと笑い出した。
「たぬきみてぇ」
「たぬき?見たことないくせに」
「それならあれだ、大福」
「いったいあたしのどこが大福だって言うのよ」
「その膨らませた顔」
ひどいっとお琴がますます頬を膨らませると、直樹は腹を抱えて笑いながら廊下を歩いていった。
「もう、いっつもひどいことばっかり」
そう言いながら部屋に入ると、お琴は何をするでもなく畳に座り込んだ。
事実がどうであれ、お琴はまた一つ直樹との思い出ができた。
いつまで佐賀屋にいられるかわからなかったが、直樹と通りを歩いたことがお琴にとっては大切な思い出になるのは間違いなかった。たとえその後が脅しであろうとも、だ。
お琴が部屋でひと息ついている頃、店奥では直樹の滅多にない笑い声を聞いて、奉公人たちが天変地異の前触れかと驚いていたという。
(2013/09/05)
To be continued.