大江戸恋唄



55

祝言の中ほどで、別の店に少しの間奉公に行っていた裕樹がようやく現れた。本当は誰よりも早く駆け付けたかったのだと言っていたが、飾り職人に掛け合ってお琴のための飾りを間に合わせるのに必死だったのだと後で知った。
そのうち佐賀屋の若主人としての修業も始まるのだろう。
お琴は帰ってきてすぐに裕樹に会えなかったのもあって手放しで喜んだが、それすらも少々気にするそぶりを見せた直樹に、裕樹はさりげなく引きながらお琴に「兄さまが見てる」と忠告した。
見てるから何だと言うのかとお琴は首を傾げたが、「兄さまは相当やきもちやきだぞ、気をつけろ」と言われてようやく理解した。
初めはまさか、という思いで振り返ったお琴だったが、眉間にしわを寄せる直樹を見て、どうやら本当のことらしいと微笑んだ。
「そうだな、祝言の祝い代わりにいいこと教えてやるよ」
「何ですか?」
もったいつけて裕樹が話したことは、お琴が夢だと思っていたことだった。
随分前のことだが、ある秋の日にお琴が縁側でうたた寝をしていた日のことだ。
裕樹が見ているとは知らない直樹が、寝ているお琴にそっと口づけをしていたのを見てしまったのだという。
「えー、嘘!本当に?」
「兄さまには、内緒だって言われたんだけどな。もう、いいよな」


祝言の終わりになって、直樹はお琴の父と向き合って話ができた。
もちろんそれまでも顔を合わせてはいたのだが、お琴が直樹に嫁いだのが不満なのかと少々気が引けていたところだ。
料理はもちろん福吉の仕出し料理で、花嫁の父だというのに誰よりも当日が忙しくてゆっくり座っていられなかったというのが本当だ。
しかし、料理をいただいて、そんな考えは吹き飛んだ。
お琴の父が、一世一代をかけて取り組んだと思われる立派な祝言のための料理だった。
その細かい細工料理は、お琴の父ならではの見た目と味にこだわった素晴らしいものだった。
いろいろな店を回っているであろう松本屋のお裕ですら、食べたこともない、と感嘆していたくらいだ。
元は庶民の店なので、お裕が頻繁に利用するような店ではないだろう。
お琴の父があいさつに部屋に入ってくると、ぜひとも今度の会合で福吉の料理をと抜け目がなかった。
そんなこともあったので、改めて直樹はお琴の父とゆっくりと徳利を傾けることができたのだった。
客は引けて、片付けも済んだ部屋で、酒のあてにちょっとした油揚げが出てきた。
「坊ちゃん、いや、もう、お琴の旦那だったな。直樹さん、改めて、お琴をよろしくな」
「…こちらこそ。長崎まで来るのを許してくれて、ありがとうございました」
「いや、あれは、許すも許さないも、行かせてくれないなら縁を切るとまで言われてなぁ」
思い出したのか、茶碗から酒をすすって笑った。
ますます申し訳なさに頭を下げた直樹だったが、「腕のいい医者になってくれるなら、それでいい」と言われ、静かに「はい、精進します」と答えた。
いつの間にか眠ってしまった重雄に何かかけようと思ったが、蒸し暑い夏の始まりは、そのままで風邪はひかなさそうだった。
部屋に重雄を残し、隣の部屋に行くと、お琴が寝る支度をしようとしていた。
「お父さんは?」
「眠っているよ」
「まあ。もう、仕方がないわね。直樹さん、お布団を用意するから手伝ってくださる?」
そう言って立ち上がったお琴の腕を取り、直樹は言った。
「直樹さん?」
「改めて、明日から、よろしくな」
「もちろんです。長崎に行く前も後も、あたしは直樹さんに一生ついていくって決めてるんですから」
「相変わらず頼もしいな」
「診療のお手伝いも任せてください」
「いや、まあ、それはぼちぼちと」
ついそれに関してはつるりと本音を吐いた直樹だったが、一向に気にしないお琴に促されて、患者用ではあるが布団を重雄のためにお琴が用意したところに何とか重雄を移動させたのだった。
「もう、お父さんは」
お琴がぶつぶつ言いながら重雄の着物を整えている。
何とか支度を終えたお琴が立ち上がろうとしたとき、重雄の寝言が響いた。
「お琴ぉ、幸せになれよ〜」
お琴は振り返って笑った。
「はいはい、もう十分幸せにしてもらっています」
お琴と目が合った。
お琴が幸せそうに笑っている。
それで十分だった。
とりあえず今夜はおとなしく寝るか、と直樹は苦笑するのだった。

 * * *

強めに吹くとぽっぺんと音が鳴った。
大事に、それこそつぶさないよう、壊さないよう、大事に持ち帰った長崎土産のびいどろだ。
ぽっぺん、ぽっぺんと何度か吹いて、お琴が楽しそうに笑った。
「直樹さん、これできっと来年も福がやってきますよ」
ほら、直樹さんもと促されたが、直樹はいや、遠慮する、と断った。
「それなら、あたしが直樹さんの分も」とまたもや調子に乗ってぽっぺんぽっぺんと吹き鳴らした。
直樹には、お琴が幸せそうに笑ってくれるだけで福がやってきそうだった。

江戸に戻ってきて、患者が来るまでにもいろいろあった。
なんと言っても直樹の容姿につられて来る娘やおかみさんたちもいたが、逆にそれに反発する者もいたし、あまりにも若い直樹に不信を持つ老年の者もいた。
そのたびに、お琴がいつもの調子で直樹が長崎で修業して、どれだけ優秀かと力説して、あっけに取られているうちに、いつの間にか常連になっていた。
そして、開業したことを知った入江屋からは、たびたび南蛮渡りの医療器具が贈られ、大きく入江屋と書かれた包みから、直樹の診療所は入江堂と呼ばれるようになった。
開業してからようやく半年が過ぎ、なんとか二人して入江堂での師走を迎えた。

「今年もいろいろありましたね」
「ああ」
「今までで一番…いえ、二番目くらいに幸せな一年でした」
「二番?」
「ええ」
直樹としてはお琴と一緒になったこの一年が多分今までで一番印象深くて幸せだと思っていたので、お琴の言葉に首を傾げた。
「一番はいつだよ」
「…それは…内緒です」
内緒?と直樹はやや不機嫌になるのを隠せなかった。
「内緒、ねぇ」
そう言いながら、お琴の顔をのぞき込む。
「さ、さあ、直樹さん、お片付けの続きを…」
お琴は言うまいと話をそらしながら引き出していた柳行李を片付け始める。
「夫婦になって、内緒はなしと言ってなかったか」
「い、言ってません」
「そうか?」
「そうです。それに、少しくらいの内緒があった方がいいんです」
「それなら俺に内緒があってもいいんだな」
「そ、それは…」
「いいんだよな」
「う…」
直樹の念押しに真剣に悩んでいる。
真剣に悩むお琴がかわいくて、直樹はわざと煽る。
「そうか。内緒があった方がいいか。あんなことやこんなこともお琴には内緒だな」
「え…な、何ですか、それ」
「さあ。内緒だから」
「ず、ずるいです、直樹さん」
「最初に内緒にしたのはお前だろ」
「い、言います!言いますから!」
「へー」
「い、一番目は、直樹さんと気持ちが通じ合った時です」
「ふーん」
「そ、そんなふうに簡単にうなずかないでください。あたし、知ってるんですからね」
「…何を」
「直樹さん、それよりずっと前からあたしのこと好きでしたでしょ」
「は?」
「裕樹さんに聞いたんです」
直樹が目を見張っている間にお琴は得意気に言った。
「寝ているあたしに口づけ、しましたよね」
「…あいつ…」
裕樹に黙っていろと言ったことを思い出し、直樹がむっとしたところでお琴が自分から口づけて微笑んだ。
「ざまあみろ、ですね」
直樹は微笑んだお琴を見て笑った。
「おまえには、参った」
二人してもう一度見合って微笑んで、口づけようとしたところで。

「お〜い、お琴ちゃん!急病だよ、急病!」

表から呼ぶ声がして、片付けかけていた柳行李もそのままにお琴は「はーい!」と駆け出して行った。
直樹もその後からやれやれと重い腰を上げた。
「先生!八百徳の徳二さんが!」
「今行くよ」
そう答えながらお琴が柳行李の中にそっと置いたびいどろを見た。
あと数日もすれば年は明ける。
お琴と出会った幼い時、再会した時、失ってしまうかと思った時、そして二度と離さないと思った時。
この先お琴と何かあっても、今日が幸せだと思えた時を忘れはしない。
また後でお琴が柳行李を蹴飛ばさないように、蓋を閉めてそっと奥に押しやったのだった。

(2016/09/28)



大江戸恋唄−完−