大江戸恋唄



54

店に入る前から匂っていたが、店の中に入るとさらに強く匂った。
お香屋、松本屋の店先でのことだ。
西垣は中に入って番頭に「お裕さんはいるかな」と声をかけた。
お裕は大事なお嬢様であり、西垣のような女たらしの三男坊に名指しで声をかけられるのが不本意なのはわかる。番頭は西垣の正体を知っているとはいえ、にこやかな顔にそっと警戒をにじませているのがわかった。
西垣は自分で言うのもなんだが、そういう人の機微な様子を見てとることができる。
ゆえにあちこちをふらふらとしつつもその観察眼で世相を見知っている。
その情報網をありがたく利用する者もいる。
そういうわけで、定職にもつかずにふらふらとできるのだ。
「これはまた、西垣さま。どういった御用で」
奥から出てきたお裕は相変わらず華やかな着物に身を包み、そつなく西垣を迎えた。
松本屋に赴くときは、どこかの女に貢物をするために商品を見つくろってもらうときや、何かほかの情報をさりげなく渡すときだ。
今日はどうやら貢物ではないとすると、情報の方かとお裕が判断し、「こちらへどうぞ」と奥へと誘った。
「やあ、これはすまないね」
全くすまなさそうではない物言いでお裕について奥へと向かう。
すぐ脇の座敷に通され落ち着くと、茶が出てくるより前にお裕が口を開いた。
「それで、こたびは誰が何をやらかしたんです?」
「うん、まあ、やらかしたと言えばやらかしてるんだろうけれどねぇ」
「もったいぶらずにさっさと話してくださいな。私もさほど暇ではありませんの」
「仕方がないなぁ。茶でも飲んでと思ったんだけれどね。まあ、いいや。
先日、佐賀屋の勘当された嫡男と娘同然のお琴ちゃんが帰ってくるよと話したけれども」
「帰ってきたからって、何ですの?」
「帰ってきた早々、女将が新居だ、祝言だと走り回ってるらしくて」
「さもありなん、ですわね、あの女将なら」
「それで、これ。預かってきた」
「まあ、西垣さま、直々に?常識としてはどうかしら」
「いやいや、某が預かって渡すといただいてきたんだよ。だから、きょうの某は佐賀屋からの大事なお使い、というわけ」
「祝言を挙げたとお聞きしていましたのに」
「江戸でもお披露目したいんだろうさ」
「それで、これはご招待というわけかしら」
「まあ、そうだろうね。本所の佐賀屋が持ってる屋敷で、だそうだ」
「新居、というわけ」
お裕がため息をついた。
「おや、行かないつもり?」
「…行きまわすわよ!私の方がよかったと後悔させるためにもね」
「あちらで新婚生活を送るし、こちらでは勘当されてるし、いいんじゃないかな」
「この件は承りました、とお伝えくださいませ」
「何なら、当日迎えに来ても…」
「結構です。とんでもない噂に巻き込まれるくらいなら、たとえ頼りなくとも店の者に付き添っていただきますわ」
西垣は笑ってつんと顔を背けるお裕を見た。
そこへようやく松本屋の奉公人がお茶を持ってきた。
「一応歓迎されてるのかな」
「またこちらで買い上げてくださるのなら」
「…しっかりしてるねぇ」
お茶を一息に飲んで帰ろうかとした西垣に、お裕はさらりと言った。
「さあ、それではこれで本題に入れますわね」
「本題?」
「あら、西垣さまは何もお祝い品をご用意されないおつもりで?」
西垣は声を出して笑った。
まったく、このお嬢様は、と西垣は座り直した。
「素晴らしい祝い品を選ぼうじゃないか。勘当息子が君を選ばなかったのを後悔するくらいにね」
「それすらもきっとあの粗忽ものの嫁が台無しにしてくれそうですけれども」
「…ふむ、それは大いに同感だね」
西垣はうなずきながら、きっと今頃は女将に振り回されつつ、幸せいっぱいの笑顔でいるだろうお琴を思い出した。

 * * *

新居を見せられたお琴は、庭を見て喜んだ。
「まあ、紫陽花!」
まだ色づきも薄い紫陽花がこんもりと庭の一角を占めていた。
「それだけじゃないわよ。空木も紅葉も南天も。貴方たち二人だけじゃなくて、これからは患者もこの家に来るのでしょう。少しでも目で楽しんでいただかないとね。庭が殺風景で寂しくては治るものも治りません」
「ありがとうございます、おば…お義母さま」
「これくらいしか貴方たち二人にはしてあげられませんもの。祝言だってもっと派手にしたいのよ。でもね、たとえ表向きに勘当した息子とはいえ、あちらに対する建前というのもあるのは、お琴ちゃんならわかってくださるわね?」
「いえ、あたしは、もう佐賀で祝言を手配してくださったことだけで十分でしたのに」
「あら、あれはあくまで仮祝言よ。二人が暮らすのに十分な理由付けが必要だったからですよ。それに、あの子にとってはそうでもしないと酷だったでしょうから…ふふふ」
佐賀屋の女将であるお紀はそう言って笑ったが、お琴は首を傾げて「そういうものでしょうか」と庭の紫陽花に見入った。
そんな様子を部屋の中から直樹は見ていた。
またろくでもないことをと母であるお紀をにらみつけたが、どこ吹く風だ。息子のにらみなど屁でもない、というわけだ。
本当はすぐにでも新居に移るつもりでいたのだが、諸々の事情でいまだ佐賀屋に居候だ。
何せ店の奉公人ですら、せっかく帰ってきた二人をもてなそうと必死だ。
店に響き渡るお琴の声も、直樹の怒鳴り声も、おもとの呆れたようなつぶやきも、何もかもが久しぶりで懐かしかったのだ。
さらに言えば、祝言もこんな急ぐようにして挙げるのではなく、もっとゆっくりと準備をして気候のいい秋にでもと思っていたのだが、何よりも直樹が体裁の悪い佐賀屋に居着く前に新居に移ると主張した。
二人きりになりたいからではないのかと散々西垣などはからかうのだが、何よりも少々きな臭いものを感じているのも確かなことだった。
江戸での帰着に際して御隠居が現れたのもその一つだろう。
江戸の帰り着いた早々に師である了安医師に二人して挨拶にも行った。
あれこれと開業するための助言を受け、ようやく新居での生活が始められそうだった。
周りの家は、商家の別宅もあれば素朴な農家もあり、金はないが温かみはある貧乏長屋も仕事のない御家人もいる。
それらすべての人が患者になるとは思っていないが、開業するとなればあらゆる階層の患者が来るかもしれないことは肝に銘じておかなければならない。下手をすると治療代も取れないことすらあるかもしれない。
それでもきっとお琴は良しとするだろうし、直樹もそれでいいと思っていた。
取れるところから取ればいいのだ。
庭先ではお琴とお紀の話し声がする。早速近所の奥方とあいさつを交わしている。これからは垣根越しの付き合いも増えるのだろう。
それは長崎での長屋生活とは少し違うが、直樹は何の心配もしていなかった。お琴なら、きっとうまくやるだろうと思っているからだ。
梅雨時の曇り空を見やりながら、祝言の日は出来れば晴れてくれればいいと思っている。
ただ、もしも雨でも、それはそれで二人にとっては相応しいような気がしていた。
二人が二人で生きることを決めたのは、あの雨の日なのだから。

 * * *

梅雨の晴れ間とでも言うのだろうか。祝言の日は暑いくらいに晴れた。
「お義母さん、これ…」
朝早くから準備に勤しんでいた直樹の母であるお紀は、着物をお琴に着せかけて満足そうにうなずいた。
それは佐賀で仮祝言を挙げたあの着物だった。
決して豪華ではないが、刺繍の施された着物は十分に価値のあるものだ。
「やっぱりこれを選んでよかったわ。入江屋の皆が褒めていたとは聞いていたけれど、実際に見てみないとね」
「あたし、これ気に入っていたんです。でも、てっきり入江屋に置いていったもんだと思っていて」
「あの後、もちろん送らせたのよ」
「そうだったんですか」
そう言いながら、お琴はその白無垢の着物をなでた。
今のご時勢でもかなり良い品だとわかる。
「言ってなかったかしら。その昔、入江屋のご先祖様は、武家だったのよ。今思えば、商家に鞍替えして正解かもしれないわね。その名残で、入江屋の係累では武家風の白無垢に角隠しね」
「お義母さまも?」
「ええ」
お琴は紅梅色を配した小袖に白の打掛を着せてもらい、最後の仕上げに入る。
支度の終わったお琴が部屋を出て縁側に出ると、わあっと庭の向こうから声がした。
近所の者たちがお琴の姿を見に来ていたのだ。
もちろん姿を見せるようにしてゆっくりと縁側を進むのもお紀の配慮だ。
お琴は驚いたものの、近所の者たちに頭を下げてから、皆が集まっているはずの座敷に向かった。
招待客はごく親しい者だけを呼んでいたのだが、それでも一番広い座敷がやや手狭になるほどだった。
そこを支度の終わったお琴が静々とお紀に手を取られて入っていく。
座敷にはすでに直樹が座っており、入ってきたお琴を眩しそうに見つめた。
佐賀でも一度見ているはずの姿をもう一度眺め、満足そうに前を見た。
何とか転ばずに座ると、お琴はほっと息を吐いた。
二回目とは言え、今度は見知った顔ぶればかりだ。どちらかと言うと佐賀での仮祝言より気安い雰囲気だ。
そして、お琴にはなじみのない顔ぶれも少し。
目が合うとほんのり微笑まれた、柔和な顔に眼鏡の…。
「あ…渡辺さま?」
確か、手習い所でも道場でも直樹のそばにいたとお琴は思い出した。
お琴のつぶやきに素早く反応した直樹が、渡辺の方を向いた。
渡辺は笑った顔は崩さずに直樹を見ると、軽く頭を下げた。
直樹ですら渡辺が来たことに気付いていなかった。
何せ座敷は準備をする奉公人でいっぱいのうちに続々と招待客が現れ、挨拶もそこそこに主賓席に座ることになったのだ。
しかもここ最近は全く連絡を取っていなかったせいもあって、まさか渡辺まで呼ばれていることに直樹は気が付かなかったのだ。
お琴は不意に道場で待ち伏せしていたことを思いだした。
あの頃は、まさか親同士が友人であることなど知らずに、ただただ直樹の姿を見たいがためにこっそりと(結果的に全くこっそりとはいっていなかったようだが)道場に通っていた。
いつも誰かと一緒で、なかなか声をかける機会もなかった。
その傍らにいたのが渡辺であると知ったのは、同居する直前だったか。
渡辺はそのうち父である同心の後を継いで、全く交流がなくなってしまっていた。
ところが、その同心の持ち場である場所が、今度お琴と直樹が住むこの本所だというのは、お紀の根回しの成果だ。
町の同心や岡っ引きに顔をつなげておけば、これから先も何かと都合がいいのは間違いない。ましてや直樹は医者として開業する身だ。
こういうところはさすがお紀だと、直樹ですら素直に感心した。もちろん口に出して言わないが。
祝言は進み、和やかな雰囲気のまま終了した。
何よりも親しい者たちなので、あまり気兼ねがなくていい。
「いつの間にさっさと嫁をもらっていたんだ」
渡辺の言葉に直樹は軽く笑う。
「えーと、お琴…さん。よろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ」
お琴が慌てて頭を下げた。
小間物問屋の総力を挙げた簪≪かんざし≫がしゃらりと鳴った。
「仕方ないから認めてあげるわよ」
澄ました顔でそう言ったのは、松本屋のお裕だ。
もちろん認めるも何も、既に佐賀では仮祝言を挙げてきた二人だったが、そこはお裕のいつもの口調で、お琴は笑って「ありがとう、お裕さん」と受けた。
そもそもお裕も花嫁に負けず劣らず華やかな着物だったが、それでもお琴の白無垢姿にはやはり敵わない、とお裕自身も思っていたのだ。
「やあ、お琴ちゃん、よく似合ってるよ。その恰好がこんな偏屈若旦那の隣じゃなかったらもっと良かったのに」
いつもとは違う、少し真面目な格好で来ていた西垣だ。
「いえ、えーと…西牧さま」
「うん、惜しいけど西垣ね」
「直樹さん以外の隣にななんてとても座れません。どんなに頑張っても、直樹さん以外の人、好きになれそうもなかったんですもの」
「…ああ、そう?」
「本当にきれい、お琴」
「うん、うん、これすごい着物よね」
おさととおじんの二人も久しぶりだった。
二人ともそろそろ縁談がまとまりそうで、今日はよく観察させてもらうわねと言っていたくらいだ。
了安医師は祝言が一通り終わった後で急患が出たと弟子が呼びに来たとかで、早々に帰ってしまっていた。
いずれは自分もその身かと思うと、直樹もお琴も顔を見合わせてうなずいたくらいだ。
あとはお琴も知らない直樹の知り合いや、こちらも直樹の知らないお琴の知り合いなどもいたが、挨拶をして飲み食いをするうちに祝言の日は暮れていったのだった。

(2016/07/17)



To be continued.