大江戸夢見草




年も明け、寒い冬も乗り越え、少しずつお江戸にも春が訪れそうだった。
梅の花は咲き、桃の花はあともう少しというところで、桜はまだそのつぼみを固く閉じていたくらいの季節のことだ。
なんと言っても梅は咲いたか桜はまだかいなといったところで、江戸においても梅と桜は絶大な人気を誇る。
梅屋敷と呼ばれる屋敷の周りにはただで見ようと人が集い歩き、桃の季節ともなれば御大尽の家では切り枝を愛でるのだ。
桜も同じく枝を眺めることはあったが、なんと言っても大川沿いの桜を見に行くのが江戸っ子の人気となった。
花見ともなれば弁当を持って総出で繰り出すこともある。
咲いて潔く散りゆく夢のように美しい桜を、時に夢見草(ゆめみぐさ)と呼ぶこともあったという。


「ひゃー寒い」
昨日暖かいと言ったその口で、お琴はぶり返したような北風にあおられて、慌てて家の中に駆け込んできた。
家の中ではまだ一人診療中で、医者である直樹はお琴の騒がしさに眉間のしわを深くした。
「お琴、まだ患者がいるぞ」
「あ、ごめんなさい、先生」
「いいよ、いいよ、お琴ちゃん、今日は寒いな」
「あら、玄さん、どうしたんですか、今日は」
そんなふうにお琴は診療している直樹の手伝いをしようと診察している部屋へと向かった。
お琴と直樹は先年の初夏に医者修行をしていた長崎から江戸に戻って入江堂を開いた。
評判は上々で、ようやくこの辺りの者も気軽に入江堂に来るようになり、直樹はそこそこ忙しい。
「いやー、なんだか、腹の具合がおかしくてな」
「寒いから、冷えたのでしょうか?」
「だといいんだけどな」
「それで済めばここへは来ないだろ」
「ああ、そうですよね」
玄と呼ばれた職人風の男の患者は、近所の長屋に住んでいる者だ。
「どうやら、何か食べたものにあたったかもしれないな」
「何かって、何でしょうか」
直樹の言葉にお琴は首を傾げた。
「この時期で早々あたるものじゃないんだけどな」
「いつもの貧乏所帯で食べるものなんてたかが知れてらぁ」
「そうは思うんだが」
「そうですよね、あたしたちだってそうそういつもと違ったものなんて食べてないんだし」
「おいおい言ってくれるなぁ。これでも評判の饅頭の一つや二つ、母ちゃんに買って帰るくらいのことは出来らぁな」
「饅頭か」
「おうよ」
そこで直樹が考え込んだ。
「お琴、おまえ、ちょっと前に開店した『すみや』の饅頭、食べたことあるか」
「そんな、直樹さんに隠れて食べるなんてことしませんよ」
「近所のおかみさんたちの間ではどうだ」
「すごい行列ですぐ売り切れちゃって、まだ誰も食べたなんて話聞いてないわよ。橋を越えるところでもう行列が見えるくらいだもの」
「それくらいの評判の饅頭なら、古くてどうだとか、何か混ぜ物をしてどうだかとかないだろうな」
「そんなことしたらたちまち評判を落として閑古鳥でしょ」
「だよな」
「それに、それなら玄さんのおかみさんだって調子を崩してもおかしくはないはずだもの。元はおかみさんへのお土産だったんでしょ」
「俺は一個だけだが、母ちゃんはもっと食ってるぞ。それにもっとぴんぴんしてる」
「そうか。なら、勘違いだな」
「そんなに気になるなら、あたし、明日こそは早起きして並んで買ってくるわよ」
「いや、そこまでは。それなら、まずは消化の良くなる薬でも出しておくから、少し飯を控えめにして様子を見た方がいいな」
「あいよ。先生の言うこと聞いておとなしくすることにするよ」
「そうよ、うちの先生はとーっても腕がいいんだから、きっと大丈夫」
「…大丈夫かどうかは、様子を見てみないとわからないが…もしも誰か、例えばおかみさんも調子が悪くなることがあったら知らせてくれ」
「大丈夫だとは思うけどなぁ」
「必ず、だ」
「あい、わかった」
そう言って、玄は調合した薬を持って帰った。
その後も直樹は少し考えがちで、お琴は一息入れようといれたお茶を直樹に出しながらお琴は言った。
「そんなに気になるの、お饅頭」
「饅頭がどうこうというわけではないが、症状がちょっとな」
「ただの腹痛ではなくて?」
「気のせいならいいんだが」
「直樹さんが気になるなら、やっぱりどこかおかしいところがあるのかもしれないわ。それに、お饅頭も気になるならやっぱり明日並んでみましょう。この辺の人は食べてないけど、他の人なら食べてるかもしれないし、評判も聞いてみましょう」
「ああ、そうだな」
お琴の言葉に直樹はようやく笑顔を見せた。そして、お琴の入れたお茶をうまそうに飲み干したのだった。


 * * *

翌朝、お琴は昨日直樹に言ったとおりに朝早く最近饅頭が評判と噂されていたすみやに向かった。
お琴たちの住まいの本所から西に大川両国橋を望み、南に下ると堅川がある。その堅川をまたぐいくつかの小さな橋の一つを渡るとすぐにすみやがあった。
店主がおすみという女性であるらしく、その名前からとった菓子の店は饅頭が名物で、皆同じように饅頭目当てで並んでいるらしかった。
まだ開店まで時間があるにもかかわらず、数人がすでに並んでいる。
「えっと、ここでいいのよね?あの、もし、すみやさんに並んでいるんでしょうか」
列の最後に並んでいる人にお琴は話しかけた。
「そうだよ」
返事をしてくれた男はそれだけ言って黙って待っている。
お琴はそれなら安心とばかりにその男の後ろについて待つことにした。
しばらく待っていると、さらに後ろに一人二人と列が長くなっていく。
十人ほど並んだところで見慣れた人がやってきた。
「あら、まあ、お琴さん!」
かなりの美人。
「あ、おもとさん!」
お琴はうれしそうに手を振った。
「お琴さんもすみやに?」
「ええ、ちょっと。そういうおもとさんも?」
「女将さんが見かけたとかで気になっていらして。いくつか余分に買えたらお琴さんにもっておっしゃっていたので、私が並んできますって申し出たのです。まさか女将さんにこんな朝早くから並ばせるなんて、ねぇ?」
「そうだったんだ。でもほらこの通り、あたしも並んでいるから、おもとさんの分も一緒に買いましょうか?」
おもとはお琴の後ろの列をちょっと見て苦笑した。
「ここで私の分もと言い出したら、並んでいる方々から不満の声が出そうだわ。いくつ買えるか心配していらっしゃるでしょうから、私も列の後ろに並んでみます。でもこれでお琴さんの分は必要なさそうですから、女将さんたちの分だけなら何とか買えそうですわね」
お琴はおもとの言葉に笑って「それなら、早く並んで。ほら、また列が伸びてしまうわ」
「あら、ほんと。では、また」
そう言っていそいそとおもとは列の後ろへ急いでいった。お琴はさすがにすみやの出入口が見えるくらいの位置で並んでいたが、おもとの場合は少々後ろに並ばないといけないくらいだ。
まさかこの時刻でここまで並ばないといけないとはおもとも思わなかったのだろう。日本橋からは少し距離がある分、遅くなったのも仕方がない。
お琴はじりじりと開店の時を待った。
ついでに後ろに並んでいる人の良さそうな女の人にすみやについて聞いてみた。
「すみやさんって、最近開店したお店なんですか?」
「ええ、そうね。すみやのおすみさんは、店を構える前から饅頭が得意でね。餡が絶品。蒸された皮はふっくらとしていて、熱々で食べるのもおいしいのだけど、冷めてからも十分おいしくいただけるって評判で」
「へぇ」
「あら、お嬢さんは初めて?」
「やだ、お嬢さんだなんて。でも、ええ、このお店の評判を聞いて来たんです」
「お嬢さんではないの?先ほどの大店の女中さんと話していた感じからてっきり」
「あたし、人妻なんですの」
お琴はその響きに自分でうっとりした。
あまり他人に自分は人妻だと言う機会もそうそうない。
「まあ、そうだったの。お若いのにさすがお嬢様は違うわね」
「いえ、お嬢様では…」
そう言いかけたところでようやくすみやの戸口ががたっと音を立てて開いた。
完全に戸を開けたところですみやの主であるおすみが出てきた。
「皆さま、朝も早くからありがとうございます。ただいまよりすみやの名物酒蒸し饅頭をお売りします。途中で品切れの場合はご容赦願います」
わあっと声が上がり、列が動き出した。
皆次々に饅頭を買い求めている。
お琴も順番が来たところでつい買おうと思っていた量よりも余分に買ってしまっていた。
「えーとうちには…」
食べたりあげたりする算段をしながら道の端で立ち止まっていると、先ほどお琴よりも後ろに並んだおもとが何とか買えたらしく、同じく包みを持ってお琴のそばにやってきた。
「お琴さん、私も無事に買えましたわ」
「ああ、良かった。もしも買えなかったらおすそ分けしようと思って、ほら、こんなに買っちゃった」
「まあ」
お互い戦利品を見せ合う女同士のような微笑みあいを交わした。
どこからどう見ても美女のおもとだが、これでいて実は男、というのをお琴はいまだ知らない。
しかし、もしも今ここで実は男なのだと打ち明けたとしても、驚きはしてもそうだったんだーで済ませそうな素直さがお琴にはある。
そんな二人の横を通り過ぎた男が、同じように持っていたすみやの饅頭の包みを素早く開けると、中の饅頭にかぶりついた。家に帰るまで待ちきれなかったのだろうか。
お琴とてまだほんのりと温かい状態の饅頭を食べてみたい。
しかし、ここは家に帰って熱いお茶とともに直樹と一緒に評判の饅頭を食べたい。
そんなことを思っていた矢先に通り過ぎた男がいきなり泡を吹いて倒れた。
「きゃー」
周りから悲鳴があがる。
お琴もどっと音を立てて倒れた男を見て、顔が引きつったものの、はっと我に返って男に駆け寄った。
「もし、どうされました?!」
お琴の呼びかけにも答える様子はなく、ひくひくと痙攣≪けいれん≫した後、事切れた。
「お琴さん、これは…」
「先生を呼ばなくちゃ!」
「いえ、もう無理でしょう。誰か!あ、そこのお人、親分さんを呼んできて」
「いえ、やっぱり本所入江堂の直樹先生もお呼びください。お琴が呼んでいると言えばわかると思います」
おもととお琴の言葉にそれぞれ男たちが走っていった。
目の前で倒れた男は、片手に饅頭を握っている。
「これ、やっぱり酒饅頭、よね」
お琴は男が握っている饅頭を見ておもとに言った。
おもとが何か答えるより早く、取り囲んでいた者たちがざわざわと騒ぎ出す。
「…毒だ」
「そうだ、毒だ」
「毒入り饅頭だ」
「毒入り饅頭を食わされちゃ敵わねぇ」
うわああとせっかく買った酒饅頭を放り出したものもいる。
さすがにその騒ぎにすみやの主も気づいた。
並んでいた者たちが一人減り二人減りして、すみやを遠巻きに眺めている。
「ど、どうして…」
すみやの主が血相を変えて走り寄ってきた。
お琴もおもともそれに応える声はない。二人もどうしたことかわからないからだ。
そうこうしているうちにこの辺り一帯を治めている岡っ引の親分がやってきた。
「ほら、どいたどいた」
人垣を掻き分けて岡っ引がやってくると、そばにいたお琴とおもとを残して人が散っていく。
「誰か医者を呼んだかい?」
お琴が「あの、本所のうちの先生を呼んでもらいました」と勢い込んで伝えた。
「本所の?うちの?」
「ええっと、あの」
お琴はここにきてなんと言えばいいのかと躊躇している。
「最近開業された入江堂の先生ですよ」
おもとがさらりと付け加えた。
「そ、そう、その入江堂の」

「お琴が何かしましたか」

そんな言葉とともにいつの間にか直樹が現れた。
「先生!」
お琴は直樹を見て泣き出さんばかりだ。
それを見て直樹はさらに眉をひそめて「何をやったんだ、おまえ」と言う。
「人殺しなんかするわけないでしょ」
そんなふうに大声でつい反論したので「お嬢さん、あんたがやったのか?」と岡っ引に疑わし気に見られる羽目になった。
「病人がいると聞いたんだが…死んでるな」
「あ、ああ。あんた、医者かい。どう思う、この仏さんは」
岡っ引に言われるまでもなくさじを口の中に差し入れ、胸元を見て、瞳孔と脈を診た直樹は首を振った。
「何だ、先生、石見銀山(作者注1)かい?」
「…いやに瞳孔が開いてる」
「だから何だい」
「鳥兜≪とりかぶと≫」
「っていうと、あれかい、猛毒の」
「そうですね。うちでも烏頭≪うず≫として取り扱うこともありますが、高価なので」
「本当に毒なのね」
お琴は目の前の男を見て身を震わせた。
ただ倒れているわけではない。正真正銘毒殺だ。
「番所へ運ぶ。おい、戸板貸してくれ。そこのやつ、手を貸してくれ。入江堂の先生よ、ちょいと番所まで付き合ってくんな。そこのお嬢さん方も」
お琴はおもとと一緒にうなずいたが、おもとは近くにいた者に佐賀屋への伝言を頼んだ。
こうして、お琴とおもと、呼び出された直樹は、毒殺された見知らぬ男とともに番所に行く羽目になったのだった。

(2017/03/20)



To be continued.