大江戸夢見草




番所には他の遺骸があるとかで、近場の自身番に連れていかれた一行は、戸板に乗せられた男の遺骸とともに誰もが沈黙している。
直樹はお琴がまだ大事に抱えている饅頭をちらりと見て、「男が食べていたのは饅頭だったんだな」と口火を切った。
お琴ははっとして饅頭を見ると、「…多分」と答えた。
「確かに饅頭を口にしたのは見ましたけれど、すみやで買った饅頭かどうかは見ておりません。ただ、私たちの目の前で饅頭の入った包みを開け、頬張っただけです」
おもとはお琴を擁護するように言った。
「なるほど。しかし、直前に食べたのは饅頭だったわけだ」
直樹の言葉に番所で番をしていた番人がお琴の饅頭を見た。
「で、それは毒入りかい?」
「さあ。まだ食べておりませんので」
「男が持っていた饅頭はどうなったんだ」
「あら、そう言えば」
おもとがきょろきょろと辺りを見回した。
「一緒に持ってきたわけではないんでしょうか」
その言葉にお琴はうーんと首をひねる。
「どうだったかしら。倒れた男の人しか見てなくて」
そこへお琴たちを番所に連れてきた岡っ引が戻ってきた。後ろに黒羽織の同心を連れている。
「あ、渡辺さま」
お琴はいち早くその顔を見て声を上げた。
直樹とは身分が違うものの、手習い所や道場で一緒だったいわば友人だ。官民一体の素朴な手習い所と道場で知り合った二人は、いまだ交流を保っているのだ。
初夏に行われたお琴と直樹の祝言の際にも参列したくらいだ。
「久しぶりだね」
渡辺は新米同心としてこの辺りを受け持っている。
「話を聞いてそうじゃないかと思ったんだが、何か大変なことに巻き込まれたようだね」
「巻き込まれたというか…」
渡辺は横たわっている男の遺骸に近づき、目や口の中、着物の下を丁寧に見ていく。
「他に傷はない、と。泡を吹いて倒れて、そのままだね」
「はい、そのようで」
「口の中に傷はない。倒れた時の傷だけだ。まだ饅頭が口の中に残っている。ねずみ捕りのような臭いがしない。で、そちらの先生の見立ては」
「鳥兜、だそうで」
「うん。さすが妥当だね」
「では、本当に鳥兜でよろしいんで」
「あの入江堂の先生はね、知り合いだからひいきするわけじゃない。ものすごく頭が良くて、手習い所でも道場でも誰も敵わないくらいで、見たとおりの美丈夫で、多分会った者誰もが腹が立つくらい無愛想なんだ」
そう言って笑う。
「それでもね、嘘はつかないし、医者としてもものすごく努力してる人だ。友人としても自慢に思うほどにね。だから、信用していい。少なくともいつも見立ての時に酔っぱらってる法眼よりはずっと正確だから。あ、これはここだけの話」
「はあ、渡辺さまがそうおっしゃるなら」
先ほどまでは偉そうだった岡っ引の親分も下っ引きの子分も同心である渡辺の言葉に半信半疑ながらもうなずいている。
どちらかというと新人同心の渡辺よりも岡っ引の親分の方が偉そうに見えたりする。おそらく渡辺の父が同心時代から仕えていた名残だろう。きっと若造である渡辺のことはまだまだ頼りない、くらいに思っているのかもしれない。
「他に饅頭で死んだという者がいないか手配して聞きこんでくれないか」
「一応他の下っ引きや親分方に繋ぎをつけてますさ」
「そうか。ありがとう。悪いが、今からすぐに現場へ行ってみるか。口の中から饅頭を一部取り出して、本当にすみやの饅頭かどうか確かめてみる必要もある」
「承知しました」
「その饅頭はすでに頬張っていたのかどうかわかるかい」
「あの、あたし、袋から取り出したのを見ました」
お琴は渡辺に言った。確かにすみやの袋だと思った覚えがある。
「すみやから出てきたかどうか知ってるかい」
「…いえ。それは見ませんでした。目の前を通り過ぎた時にすみやの饅頭の袋を持ってるなと思って、そこから取り出した饅頭を口にしたのを見て、あたしもすぐに食べたいって思ったんですもの。でも直樹さんが待ってるから一緒に食べようって我慢したの。だから、饅頭の袋は確かにすみやのものだったし、取り出したのは饅頭だったけど、すみやで買ったかどうかは知りません。あの男の方が並んでいたかどうかも…わからないの」
「ということは、確かにすみやの袋だけれど、そんなものは前々から用意することもできるし、中の饅頭も誰かがあらかじめ用意したものかもしれないってことだ。すみやの行列に並んでいたかどうか、それがわかればもっと簡単かもしれない」
「それも早速聞きこんでまいりますぜ」
「ん、頼む」
下っ引きが指図によって走り去った後は、皆で番人に遺骸を任せて外に出た。
さすがにずっと遺体のそばにいたくはなかったお琴だったので、少しほっとする。
「お琴ちゃんたちはまた話を聞くかもしれない。そちらの美人は誰だったかな」
美人と言われたおもとは「あら」と言いながら頬を染める。
一瞬直樹が眉間にしわを寄せた。
「申し遅れました。私、日本橋佐賀屋の奉公人もとでございます。このたびはお役目ご苦労様です。何かございましたら佐賀屋までお越しいただくか、御言付けくださいませ」
「ああ、佐賀屋の。佐賀屋は直樹殿の生家だ」
渡辺がそう言って岡っ引に説明する。
「ええ。主の御所望によりお使いに出たところでした。この御饅頭、食べない方がよろしいかしら」
「ああ、そうだね。おそらく大丈夫だとは思うんだけれど、絶対とは言い切れないから」
お琴は手に持ったまだ手を付けていない饅頭を恨めがましく見た。
まだ食べていないのに、食べたかったのに、という視線だ。
「まあ、まあ、お琴さん。命があるだけ良しとしましょう。女将さんには私から話をしておきます。それでは直樹さま、また」
おもとは佐賀屋での仕事もあるせいか、足早に帰っていった。
お琴は渡辺たちと別れてから直樹と帰ることになったが、直樹は「厄介なことになったもんだ」とつぶやいた。
「ごめんなさい。こんなことになるなんて思わなくて」
「いや、お琴が巻き込まれたことは仕方がない。偶然そこにいただけなんだから。それよりも、玄さんのことはどう考えればと思っただけだ」
「…まさか玄さんの買ったお饅頭にも毒が」
「いくらなんでもそれはないだろうと思う。…もちろん即効性ではないかもしれないが」
「そんな。じわじわと玄さん一家を殺すような理由なんてないでしょうし」
「そうだ。だが、玄さんの体調不良はただの食いすぎや消化不良じゃないと思う」
「難しいわね」
「ああ」
そう言った直樹だったが、不満げに渡辺たちが去った方を見た。
「どうでもいいが、おまえ渡辺とは親しかったか」
「え?いえ。直樹さんのご友人だからと前から知ってはいましたし、祝言の時に少しお話をして、その後二回くらいお会いしたかしら」
「は?」
「ええっと、だって、買い出しに行くと渡辺さまはお役目でお店のある辺りを廻っていらしてるし。でもそう言えば最近はお会いしてなかったわね」
「…そうだったか」
「渡辺さまがどうかして?」
「いや。いつの間に」
その先は口に出さずに心の中で毒づいた。
…いつの間にお琴ちゃん呼ばわりなんだか。
お琴はそんな些細なことに気が付きもせず、「あ〜残念だわ〜」と手に持った饅頭を見つめている。
「今日お饅頭を買った人の中で他に食べて死んだという人はいないわよ」
「それを今調べてるはずだ」
「こんなの持って帰ったら、絶対食べたくなっちゃうわ。それに、誰かが間違って食べてしまうかも。それにもったいない」
「お琴」
「わかってます。大丈夫、言ってみただけで食べたりもしませんし、間違って食べたりしないようにちゃんとします」
「わかってるならいい」
「でも、おすみさん、これから大変だろうな」
「自分の店の商品で人が死んだわけだしな」
「それもそうだけど、女手一つでお店を開いてようやく評判になったというのに」
「女手一つなのか」
「ええ。坊やが一人いるらしいの。連れ合いの人が行方知れずになって、一人で苦労して、ようやく薦められてお店を開いたんだって」
「どこで聞いて来た」
「並んでいる間にいろんな人がそう話していたわ」
「ふーん」
そんな話をしているうちに入江堂に帰り着いた。
往診に行っていると札を出していたのだが、既に入江堂の前には勝手に床机を置いて患者らしき人々が座り込んで話をしていた。
「あら、大変。患者さんたちが」

「おやおやようやくお戻りだよ」
「先生、いつもの薬出してくんな」

そう口々に入江堂の主である直樹を待っていたのだった。

 * * *

「それは大変だったわね」
いつもより時間がかかって帰ってきたおもとに佐賀屋の女将であるお紀はそう労った。
目当てだった饅頭を持ち帰ったものの、食べるには危険な代物となってしまった。
「どうしましょうか。まさかこれまで毒入りだとは思いませんが、さすがに毒があるかもしれないと思っているものを皆さんにお勧めするわけには」
「そうね。他に知らない人は食べてしまっているに違いないから、きっとその亡くなった人を狙ったものなんでしょうけど」
お紀が饅頭を見つめる。
「ええ。無差別ではない気がしました」
おもともまだほんのりとぬくもりさえ感じられるような未食の饅頭を抱いて複雑そうな顔だ。
「とは言うものの…。仕方がないわね。間違って食べないように庭で燃してしまいましょうか」
「毒がこう…煙となって廻ったりしないでしょうか」
「さあ。その辺りは詳しくないからどうかしらねぇ。直樹の所はどうするつもりかしら」
「聞いてみましょうか。まずは誰も食べないように庭にでも埋めて」
「そうしておきましょう。こうなってみると本当に厄介なものね」
「ええ。でもせっかくおいしいお饅頭のお店ができたと思っていたのに、こんなことになるなんて」
「それよ、おもとさん。本当にその饅頭屋の女主人が入れたと?」
「それが…肝心なところは見ていないものですから」
「食べていたのは確かに饅頭でしたが、それがすみやの饅頭かどうかも今となっては不明ですし、なにぶん他にもすみやの饅頭を食べた人はいるわけですし」
「まあ、結構いい加減な話なのね。そんなところに出くわすなんて、お琴ちゃんもあなたも損な話ね」
そんな会話をしてからおもとは、男衆に願って庭に饅頭を埋めるための穴を掘ってもらうと、少々良心がとがめたが思い切って饅頭を穴に落として埋めた。
男衆は噂を聞いていたらしく、これが殺人饅頭かと物珍しげだった。
「まさか掘り返して食べる人はいないと思うけれど、入り込む猫にも注意しておいてね」
「猫はこんなもの食べやしませんよ」
おもとは男衆が笑って言った言葉にふっとため息をついた。
その時、表の通りで賑やかしい声が通り過ぎていった。

「二つ目の殺しだよ!ほら、買った買った!」

男衆と顔を見合わせる。
「何、あれ」
「読み売りのようで」
「二つ目の殺しって?」

「おもとちゃん!」
家の中を走る音がする。
「女将さん、そんなに走っては奉公人に示しが…」
後ろから心配そうに番頭がついてきた。
「読み売りが何か」
何となくそうだろうとあたりをつけてそう促すと、さすが我が意を得たりとお紀がうなずいた。
「それがね、二人目の死人が出たらしいのよ、饅頭で!」
「え」
おもとは思わず今埋めたばかりの穴の跡を男衆と二人で見下ろしたのだった。


(2017/04/30)



To be continued.