大江戸夢見草



17


紫丹屋の主は滅多に姿を現さない。
それは呉服問屋の大泉屋のご隠居が調べたとおりであり、実際に上の者との会合にしか顔を出さない。
店でのほとんどは指示を受けた大番頭が取り仕切っており、残りは手代が細々としたことをやっているようだ。
高畑様にはあれからもう一度だけ、紫丹屋に立ち寄り烏頭の母根の部分を手に入れて投与した。
こればかりは人に頼むわけにいかず、最初に名乗った偽名をもとにうまく立ち回ることができた。
もちろんあれから日を置いて、しがない診療所の医師であることなど調べはついているかもしれないが、少なくとも表向きは高畑様の屋敷に出入りしているのは間違いないと確証を得たようだ。
高畑様の病は既に相当な進行具合で、あとは痛みをとるばかりだった。
やはり子根の部分投与では限界があった。
ほんの少量ずつの投与なのでどこまで効くのかと思ったが、母根の効果は強かった。
高畑様の屋敷では偽名を名乗り、大泉屋ご隠居からの紹介との名のもとに通っている。
しかし、それも終わりを告げようとしていた。
高畑様のご容体はいよいよ最後の時を迎えようとしていた。
既に高畑様の跡継ぎは決まっており、代替わりも済ませて憂いはない。
それだけに高畑様はゆっくりと静かに逝こうとしていた。
投与した母根の効果か、始終うとうととしていた。
痛みで呻いていた時間は長く、痩せ衰えた身体は少しの咳でも堪えるらしく、息することも大儀な様だった。
奥方はすでに亡く、忠実な家臣と代替わりをしたばかりの跡継ぎが時々顔を見せるばかりだ。
最期を看取るのは直樹の役目ではない。
痛みを取るために遣わされた者であり、あくまで使いの者という立場なのだ。
つまり、いよいよ痛みを取るのも限界になったこの時より後は、直樹は屋敷から静かに立ち去らねばならない。
もちろん口外することのないように誓わされているが、元より医師として患者のことを話すのは褒められたものではない。ましてや大名家のこととなれば、この場で切り捨てられてもおかしくはないのだ。
そこを呉服問屋大泉屋のご隠居からの紹介であり、腕のいい医師であると認められた功績がものを言い、直樹は高畑様の屋敷から無事に出ることができた。
しかし、紫丹屋の主は見逃してくれるのかどうか。
取引きした一見の客としてそのまま忘れてくれれば良いが、いつか取引きしたことを後悔するようなことになりかねない危うさを思わせる。
どちらにしても、直樹のあずかり知らない上の方々が紫丹屋の主を入れ替えると言っているのであれば、この先のことも問題はないのだろう。
そして、その入れ替えは、文字通り紫丹屋の主を亡き者にするのが今回のお役目だった。
直樹が対峙するのは、おそらく紫丹屋の主を守る用心棒連中であるのだろう。
命を奪う必要はないが、いざとなればそうも言っていられないのが憂鬱だった。
命を助けるべく医師になったというのに、裏では命を奪うのかといった葛藤があった。
その点、某退屈侍には躊躇がない。
今はどの辺りにいるのか定かではないが、行くのにも時間がかかれば帰ってくるにも時間がかかる西国行脚の最中である。
こうしてみると今回は助太刀を期待できないことが思ったよりも負担だということが、直樹にはやや悔しかった。
それでも直樹とともに赴いてくれる者たちが、手練れの者であるということが何よりも心強かった。

「かの者が出ます」
そう報告してくれたのを直樹は塀の続く武家屋敷近くで聞いた。
月に一度、紫丹屋の主が出る会合からの帰り道のことだ。
行きも帰りももちろん駕籠に揺られ、行き路も帰り路も違う。
それを待ち受ける。
早足の駕籠屋にはすでに手が回っており、お上からの指示だと言い含めてある。
止められたらさっさとその場から逃げ出し、知らぬ存ぜぬを通せとなっている。
今までどんな後ろ盾で商売をしてきたのか、直樹には知らされていないが、おそらくそれ相応の大物が控えているに違いない。それゆえに誰も今まで手出しできず、邪魔者は排除されてきたのだ。
そして、今回のことはお上からの追及をかわすことができない何かを背負わされ、主が入れ替えられることになったのだろう。
それも気の毒と言えば、今まで亡き者にされた者たちからすれば噴飯やるかたなきことだろう。
そして、警戒すべきはもう一つ、町奉行の手の者だ。
上の方には十分に話が回っていることだろうが、下っ端黒羽織の十手持ちたちまでは知らされてはいないため、ここで騒がれては困ることになるのは直樹たちだ。
勘のいい平吉親分にでも知られたら、少々厄介だ。
ただ、その上司である渡辺は、こんな騒ぎを知ってもお上の意向だと黙ってやり過ごすかもしれない。気になることは追及するたちであっても、引くべきところはわきまえている。
目立たず騒がず、お上から目を付けられぬようにふるまいつつ、裏では自分の納得するように折り合いをつける調べを済ませているそつのない御仁だ。
そういう飲み込むべきところを知ってもなお、付き合いやすい友人は貴重なのだ。
変な正義感を持って十手を振り回されては困る。
そんな筆頭がもう一人の眼鏡の御仁かもしれない。
そこまで考えたところで暗がりで動く者を目の端でとらえた。
合図の代わりにゆっくりとうなずく。衣擦れの音もささやかに。

 * * *

かつて自分が寝泊まりしていた部屋を整え、寝る支度をしていたお琴だったが、なんだか落ち着かない気分だった。
今夜は帰れそうにないので、そのまま佐賀屋で泊まるようにという直樹からの文が届けられ、ちょっと寂しく思いながらその旨を佐賀屋の女将、お紀に伝えた。
お琴だけではなくおもとにも文は届けられて、帰ろうとしていたお琴はすぐさま引き留められた。
安全のためと言われたが、どこまでが危険でどこまでが安全なのか、お琴にもよくわからない。
確かに押し込み強盗でもない限りは大店で人の多い佐賀屋のほうが安全なのだろう。
最近の直樹は往診の仕事が忙しそうで、それも心配だった。
毒饅頭事件はあのまま解決したのか、それもわからないが少なくともおすみ親子はなる坊の父の元へ行ったと聞いたので、お琴としてはそれでもう気にしないことにした。
明かりを消して寝ようかと思ったお琴だったが、やはり寝付けずに暗闇の中でそっと目を開けた。
まだ夜半には早いが、それでもどことなく違和感を感じて起き上がった。
しばらくお世話になっていた佐賀屋だというのに、お琴が住み、寝起きする場所はすでに直樹と暮らすあの家になっていたのだ。
直樹のいない夜は不安でさみしい。
もちろん今までにもいない日はあったというのに、今日は心細くて仕方がない。
お琴は薄暗闇の中でため息をついた。

 * * *

今まさに紫丹屋の主が屋敷の裏手から出てくるという直前、屋敷の中が急に騒々しくなった。
何が起きたのか、影で待っている直樹たちにはわからない。
それでも、出てくる者に注意を払うしかない。

「様子を見てきます」

手下の一人が音もなく屋敷の塀際に近寄り、耳を澄ませている。
様子を伺いつつ、塀に軽業師のように飛び乗ると、その姿は闇に消えた。
さすがにそんな技は直樹にはない。
誰かが走り回る音や叫び声も聞こえては来るが、何を言っているかまではわからない。
しばらくの後、同じように塀を乗り越えて戻ってきた手下の者によると、どうやら誰かが倒れたらしい。
それもよく聞いていれば、紫丹屋の主ではないかという。
どういうことなのか、手下の者たちと顔を見合わせる。
誰かが裏門から顔を出し、駕籠屋を呼びつけると、何事かを告げた。
告げた者はさっさとまた裏門から引っ込んでしまったので、誰かすらもわからなかった。
駕籠屋が戸惑ったように立っている。
仕方がなく手下の一人が近寄って事情を聴くと、医者を呼んできてほしいと頼まれたという。
ここから一番近い御用達の医師は、八丁堀近くの松庵医師らしい。
ここで直樹が出て行くのが一番手っ取り早いが、紫丹屋の者には顔を知られている。
今この時分にこの場所付近を偶然うろついていたなどという言い訳は利きそうにもない。

「本日は中止です。このまま紫丹屋主が亡くなるならば話は早いですが、状況が読めません。直樹様は一旦屋敷へお戻りください。私どもはここで見張ることにしましょう」

直樹は手下の者たちを置いて、大泉屋の隠居所まで戻ることになった。
一人では何かに巻き込まれてもいけないと、手下の者が一人付くことになった。
紫丹屋のあれこれを考えながら急ぎ足で帰りかけていると、後ろから足音が響いてきた。
とっさに直樹は身をひるがえして懐の匕首を抜いた。
間一髪、直樹のすぐ脇を光る刃が通り過ぎた。
今は隠密の仕事のため提灯も灯していない。
微かな月明かりだけが刃の光を跳ね返したのだ。
月明かりの下、寒々しい着流しの浪人風の男が向かいに立っていた。
手下の者もじりじりと直樹の傍で間合いを計っている。
いつ気づかれたのか。最初からか。罠なのか。
今はその判断もできないまま、残してきた手下の者はどうしているのかと案じられた。
こちらは手下の者と二人、向き合うは男一人で有利なはずが気圧されている。
こういう殺しを生業としている者かもしれない。
何故ここで今狙われたのか、今の直樹たちには知る由もない。
月が雲に隠れ、一瞬にして辺りを暗闇に染めた。
動く気配に息を止めて衝撃に備えたその時、明かりが差した。
手配した松庵医師を乗せたらしい駕籠が提灯の明かりとともに道を照らしたのだ。
その瞬間、こちらに向かいかけていた男の足は踏みとどまり、向き変えるとさっと走り去っていった。

(2023/07/03)



To be continued.