大江戸夢見草



16


飛脚が運んできた文は、入江堂に届けられた。
京からだというその文は、誰の手跡なのかわからず、お琴は文を開いた。
開いた文には、一言だけ『無事』と。
いったい誰からの文なのか、お琴は首をかしげて直樹に渡した。
直樹は「ああ」とだけ言ってうなずき、文をたたんだ。
「京からだって」
「ふうん。そうか、まだ着くわけないか」
「どちらさまから?」
「西垣様だよ」
「西垣様?団子屋の?」
「…いや、旗本の…」
直樹はそう答えながら、あれほど世話になったというのにという思いと、男の名など覚えなくともよいという複雑な気持ちでそう答えた。
「あ、ああ、そういう名でしたっけ」
そうつぶやいてはいるが、その頭に浮かんだ名前は決して西垣などではないと直樹は確信していたが、それには触れずに「そろそろ行ってくるよ」と立ち上がった。
「はい、手荷物は」
「持った」
お琴が直樹の手にある荷物を見てうなずいた。
「行ってくる」
「はい、では私は佐賀屋に」
直樹はうなずいた。
直樹の不在の折には、しばらく佐賀屋へ行くようにとの取り決めをしたのだ。
「行ってらっしゃいませ」
お琴の見送りで出かけると、直樹は大泉屋の御隠居がいる別邸へと向かった。
お琴を一人で佐賀屋に行かせるのをためらったが、お琴には岡っ引である平吉親分の手下がいまだ琴子を見張っていることを知っていたので、昼間の移動ならばさほど問題はないだろうと思っていた。
もちろんできることなら自分で送り届けたいところだったが、反対方向なうえに大泉屋のご隠居に向かう時間は急がなければ間に合わない。
今できる最大限の配慮だった。
ただ、お琴は直樹の想像の範囲を超えて騒動を引き起こすので、万全ではないのは確かだ。
どれだけ気を付けていても、お琴が引き起こす騒動の前にはなす術もないのだから、仕方がない。
仕方がない、という言葉はただの準備不足だという思いを持っていたが、お琴に会って数々の騒動を体験し、諦めた。
諦めることも妥協することも世の中の理には必要なのだとようやく悟ったのだった。

お琴は直樹を見送ってから、荷物を持って戸締りをした。
もちろん入口の前には「本日往診中、留守」との札を出すことは忘れなかった。
昨日のうちに来そうな患者には既に薬の処方を行い、近所にも知らせておいた。
これでも何かあったら、それはもう患者の運がなかった、としか言いようがない。
お琴は少しだけ気にはなったが、久々に佐賀屋に行くことを考えたらそれはそれで楽しみだったので、意気揚々と出発した。
その少し後ろを一人の男がついて歩き、もう一人は動かずに見送った。
これは言わずと知れた平吉親分の手下だった。
お琴は程なく無事に佐賀屋に着き、女将の盛大なる歓迎を受けた。
そこまで歓迎するほど会わなかっただろうかと思いつつ、これはうれしいことではあるので甘んじて受けた。
日が高く上るまで、お琴は以前佐賀屋にいたと同じように過ごした。
嫁である身にもかかわらず、佐賀屋では実の娘のようにかわいがってもらっていたおかげか、以前からいた女中も何ら変わりなく受け入れているし、新しく来た女中見習いに限っては実の娘だと誤解されたままだ。もちろん出来のいい息子の噂位は聞いているだろうが、あれとこの嫁が夫婦とは思っていない様子だ。
むしろ実の息子である直樹の話題すら出ない。
直樹が家を出てから、修行に出ている裕樹もおらず、佐賀屋としてはずっとにぎやかさがなかったせいか、久々に佐賀屋に活気が戻ったようだ。
それは表にも通じるのか、お琴がいるからと顔を出す近所の者やにぎやかさにつられて入ってくる客もいた。
「ねえ、当分こちらに泊まらない?」
女将の言葉に周りの女中も手代も言葉には出さないが同じ気持ちだろうことはわかった。
なんとなく期待に満ちた目で見られたが、お琴は少し残念そうに返した。
「でも直樹さん一人にはできませんから」
「あら、そう?」
「というか、あたしが直樹さんと離れたくないんですもの」
一人にしておくとこれ幸いとばかりにどこかの娘っ子が総菜を持ってやってこないとも限らない。
確かにここのところ直樹の忙しさはさみしい限りだが、それもご隠居からの信頼厚いことの証だ。おまけにご隠居には大きな借りがある二人である。
「こんな健気なお琴ちゃん、本当に直樹にはもったいないわぁ」
女将がしみじみと言う。
隣でおもとがそうかな?と少しだけ首を傾げ、その後ろで手代が顔を引きつらせ、さらにその後ろで女中たちが半分うなずき、半分顔を上気させて直樹を思い浮かべていたようだった。
「そもそも直樹は今どこに行ってるの」
「…さあ。患者さまのことですから詳しくは。それに今はご隠居様の紹介で身分がお高い方の治療をなさっていますから」
「そんなに偉そうなの」
「でも町医者の直樹さんが頼りにされるんですからすごいですよね」
「本当に頼りにされてるのか、使い捨てにされないといいけど」
女将の一言にびくりとしたのはおもとだったが、幸いなことにお琴は気づかなかった。
「ご隠居様がそんなことなさるはずがありません」
「そうは言っても、孫を蔑ろにした憎き元許婚でしょうからねぇ。それご隠居様のあずかり知らぬところでは、どうなってるかなんてわかりゃしませんよ」
女将のつぶやきはお琴の耳には入らなかった。
おもとが慌てて「お、お琴さん、そう言えばお琴さんお気に入りのお店で新しい甘味が出たんですよ!」と遮って気をそらすことに成功したからだ。
お琴はまんまとそれにつられて、あら、どこ?などと気をそらした。
外で見張っていた平吉親分の手下は、一時撤退したようだ。
おもとはそれを思ってお琴を見守ることにしたのだった。

ご隠居のもとに出向いた直樹だったが、入ってすぐにご隠居の部屋に呼ばれた。
「どうじゃな、お琴さんは」
巻き込まれた形のお琴に対して、ご隠居は今も気にかけている。
孫娘である沙穂と年が近く、本来なら恨まれてもおかしくはないというのに、気にかけて心配されるというのは自分にはないお琴の人徳かもしれないと直樹は思った。
「相変わらず元気です」
そう答えれば、ご隠居は満足そうにうなずいた。
「何よりじゃ」
しかし、本題はここからだ。
「そろそろお上も目障りになったと見え、沙汰が下る」
「…しかし」
「やりすぎたようじゃ。表向き、大元のみ入れ替えよと」
それは、言葉だけ聞けばあまりにも軽いが、残酷な宣告だった。
入れ替える、とは、薬種問屋紫丹屋の主を廃すということだろう。
「黒幕は」
「それはお上が始末をつけると」
「それで、私の役目とは」
「月に一度、大元の所へ薬の手配に動く。滅多に店から出てこない主に近づく唯一の機会じゃ。西垣様のいない今、手練れの者で近づけるのが直樹殿しかいない。頼まれてくれるか」
「…承知しました」
ご隠居はうなずいて手を一つ叩いた。
「…お呼びですか」
襖の向こうから声がした。
「手はず通りに」
ご隠居の言葉に「準備整ってございます」と返答があった。
「では、頼むぞ」
「かしこまりまして」
ご隠居は直樹に視線を戻し、懐から紙包みを出して言った。
「聞いての通り手配は済んだ。配下の者を二人付けよう。そなたの同輩にも報償は必要じゃろう。これはその同輩たちに」
「しかし、それは…」
「お琴さんへの好意とこちらの意図通りの指図とは違うもの。こちらの意図を汲んでもらうには必要なものじゃ」
「…では、ありがたく受け取らせていただきます」
置かれた紙包みを直樹は受け取り、袖にしまい込んだ。
これは、依頼と心得よということだ。
いざとなれば断ることもできるもの。好意だけでは躊躇する出来事も依頼となれば話は別だ。ただし、裏切ることは許されない。
「そしてこれは、直樹殿に。護身用じゃ」
そう言って渡されたのは、以前借りたことのある匕首(あいくち)だった。
「何事もなきに越したことはない。…しかし、そうもいかぬのは世の常」
どちらにしても巻き込まれたことがわかったときからとうに覚悟はしていた。
直樹はこれも頭を下げて受け取ると、懐深くに差し入れた。
「直樹殿には剣のほうがよかろうかとも思うが、町人が剣をぶら下げるわけにもいくまい。あの御方にはある程度良きものを此度は差し上げたのじゃが」
「あくまで護身ですから」
「あの御方は順調に進んでおるようじゃな」
「そのようですね」
あの御方とは京から文をよこした西垣だったが、そのまま家臣になってしまえばいいのにと一人笑う。
「家臣に、という話もあれこれあるんじゃが、本人がその気がないとみえる。この先、どうやって生きていかれるつもりかとご両親は心配為されておるんじゃが」
「それこそどのようにでも生きていかれるでしょうよ」
「なかなかに器用な御方じゃからのう」
「器用貧乏かもしれませんがね」
「いっそ沙穂の婿にと考えんでもないんじゃが、流す浮名が多くて息子夫婦がうんとは言わん」
「そうですね、やめておいた方が」
そう言うと、ご隠居は笑った。
西垣への冒涜には目をつぶってくれるらしい。元よりそういう間柄というのも承知のようだ。
「お琴に…というか、生家の佐賀屋に使いを頼んでもよろしいですか」
「わかった」
「このまま家に帰られると私の気が散って困るので」
そう言うと、直樹は一つ息を吐いた。

穏やかな日差しの下に見える中庭を見ながら、直樹は文を書いていた。
一つは佐賀屋で待っているお琴へと送るためのもの。
もう一つはお琴の御守りをしているであろうおもとに。
西垣様のいない今、後は頼れる者たちはご隠居の手のものとお琴を通じて知り合った者たち。
大工の啓太、髪結いのお真理、茶屋娘のお智と女中のおもとたちがそれぞれ自分たちができることを手伝うと役割を担っている。
お智の場合は神出鬼没なので気が向いた時だけのようだが。
それぞれに伝わるようおもとを通じて文を託すことにした。
これから行うことは、お琴を始め、なるべくばれてはいけない。
同心の渡辺などはわかっていても手が出せないだろうが、気づくこともあるだろう。
これで憂いを絶てるのかどうか、直樹の計画と行動にかかっている。
果たして計画通りにいくのかどうか。
皆がそれぞれうまく動けるのかどうか。
文を書き終わった直樹は、日差しに目を細めてもう一度頭の中で計画を練り直したのだった。
半刻程考えを巡らせた直樹は、立ち上がってご隠居への取り次ぎを頼んだ。
毒饅頭事件の大攫えだ。

(2022/05/15)



To be continued.