18
提灯の明かりが直樹たちを照らす。
「いかがされましたか。夜盗でも出ましたか」
駕籠屋が心配そうに声をかけた。
手下の者がわざとらしく「助かりました。今まさに襲われそうだったのです。あなた方は命の恩人です」と言えば、駕籠の中から鷹揚な声が聞こえた。
「お気になさらず。先を急いでおりますのでこれにて失礼」
「せめてお名前だけでも」
「…八丁堀の松庵と申します」
「松庵先生でいらっしゃいましたか!」
今聞いたというように手下の者が続けた。
「それでは病人の診察でございますね。お引き止めして申し訳ありません。お礼は後程」
二人して頭を下げ、松庵の乗った駕籠を見送った。
わざわざ名を尋ねたのは後からお礼と称して伺うのだろう。
本当はここで自分も医師だと名乗って手伝いを申すこともできたが、どちらにしても多分助からないだろう紫丹屋の様子を見に行くには危険すぎると判断した。
駕籠屋が去ってしまい、再び先程の男が戻ってこないとも限らない。
直樹と手下の者は暗闇に紛れながらご隠居が用意した屋敷へと戻ったのだった。
* * *
「結局、おすみさんの詳細はわからないままなのね」
茶屋でお茶をすするおもとと啓太はお智の言葉に黙ってうなずいた。
傍にある饅頭を複雑な目で見つめる。
「仕方がないでしょ、最近饅頭が余ってしまうんだから協力してくれてもいいじゃない」
「そうは言っても、なんだか命とられそうで」
「世間がそう言うからいまだ余るのよ」
「俺はそういうのに遭遇してないから、そこまで気にならないけどな」
「あの目をかっと見開いた顔を見たら食欲もなくすわよ」
「そういう具体的なこと言うなよ」
三人三様に饅頭を見つめながら愚痴る。
「いいわよ、食べてやるわよ。饅頭一つでいつまでもびびってちゃ女が廃るわ」
「女じゃないけどな」
「なにか?」
おもとの言葉に啓太は慌ててもごもごと饅頭を頬張った。
「それで、お琴さんは佐賀屋に戻ってるのに、肝心の直樹先生は戻らないの?」
「それがねぇ…文は来たのよ。何か計画外のことが起こったらしくて、お琴さんを戻すに戻せなくて」
「そりゃそうだろ。あれだけ狙われてたのに先生がいない家に帰らせたら、さすがにおもとさんですらちょん切られ…」
「余計なことを言う口はこれだったかしらねぇ?」
「あが…」
おもとの手によって啓太の口にはさらに饅頭を詰め込まれ、啓太はお智にさらに茶を求めた。
もちろんお智はしっかりとお茶代を加算させる。
「計算外のことって、何かしらね?」
「あら、あれでしょ」
お智は胸元から瓦版を取り出した。
「え、これ…」
その瓦版には、薬種問屋紫丹屋の主が心の臓の発作にて亡くなったとある。
おもとは絶句した。
「これ、例のやつでしょ」
お智は空になった茶碗を片付けながらおもとに言った。
おもとは瓦版を見つめ、考えを巡らせる。
「それなら、もっと安全になってもいいんじゃないの?」
「そんなの、上が入れ替わっただけで全く安全じゃないよな」
おもとの言葉を即座に啓太が否定した。
「用なしになったからってそんなに簡単に入れ替えられては、そりゃおちおち無防備に寝てられないわよね」
「これはいよいよ…」
お智と啓太が顔を見合わせてからおもとを見た。
「あたしたちの出番かしらね」
おもとはため息をついて言ったのだった。
* * *
お琴は久々に父の店である料理屋福吉に出向いていた。
「なんでい、お琴。もう出戻りかい」
そんな風に言う父にお琴は言い返す。
「とんでもない!縁起でもないこと言わないで。直樹さんはね、お仕事が忙しくて泊まり込みなの」
「出先で女と過ごしてるんじゃないだろうな。そんなことになったら覚えておきやがれ」
「違います!直樹さんはそんなことしません!」
「それならお前は何で帰ってきた」
「それが…」
お琴は少し心配そうな顔で父を見た。
一通り心配事を父に話すと、お琴は「どうかしら」と尋ねた。
父はうーんと唸ってから、「ちょいとこの父に任せてもらえねえか」と言った。
お琴は首を傾げながら「お父さんがそう言うなら」と承知したのだった。
* * *
料理屋福吉の主でお琴の父、重雄はお琴の話を聞いて少しの間考えた。
「大将、お琴さん、出戻りでっか」
「何不吉なこと言ってんだ」
弟子の金之助はお琴に惚れていたのもあって、未だ諦めきれていないらしい。
そんなことを言いながらまた仕込みに戻る。
少し考えた後、仕込みを弟子たちに任せて重雄はせっせと文を書いた。
一つはひときわ丁寧に。
もう一つはそれなりに。
さらにもう一つはしばらく悩んだ挙句に。
それぞれを届けるように下っ端に頼むと、「さて、やるか」と料理場に立つことにした。
直後に「お嬢さん、それは触らな…ああ!」という番頭の声が聞こえた。
客室で何かやらかしたらしい。
よい年ごろの娘になり嫁に行こうが、全く落ち着かぬお琴に苦笑いするしかない重雄だった。
* * *
お智はいつもの町娘の格好ではなく、やや形式ばった奥女中の格好をしてその店を訪れた。
もちろん一人で訪れることなく、駕籠で乗り付け、密かに啓太を伴っていた。
この格好すらも本当に似合うのはおもとだろうが、さすがにおもとでは日本橋ではそこそこ名の知れている小間物問屋、佐賀屋の奉公人であるとわかってしまう恐れがあったのだ。
お智ならば少し格好と化粧を変えれば茶屋娘とは思えないくらいにはなるとのことで、今回の役目を担ったのだった。
髪結いのお真理では貫禄がありすぎて、とてもお使いを頼まれる女中には見えなかったので仕方がない。
そしてその形《なり》を変えるのはお真理の真骨頂だ。
お智と啓太は、衣装を変え、いつもの髪型を変えて薬種問屋、紫丹屋に赴いたのだった。
「主人の持病が悪化しておりまして…」
訪れた女中風情のお智に紫丹屋の手代はうなずいた。
「それは心配なことでしょう」
「こちらでは他の薬種問屋では手に入らない薬もあるとお聞きしまして」
「ええ、それはまあ、たくさんございますよ」
「私をこちらへ寄こした大奥様もそれはそれは心配で夜も眠れぬ有様で、思い悩んだ末のお使いでございます。どうか、良き薬を私どもの主にいただけますようお願い申します」
「良き薬というものは…」
「それはもうもちろん承知しております」
ここでちらりと懐を軽くたたいて見せた。
金ならある、と知らせるためだ。
「それでご用心のために付添人までお連れになったのでございますね」
「ええ。大奥様が私風情に預けるのは相当迷った挙句に、見張り付きでございますよ」
「それはそれは」
「それですから、持ち帰らないとなんと言われることか…」
「それにしても、どちらからお聞きになられたのでしょう」
「…さあ、私には…。大奥様は、ありとあらゆる伝手をお持ちですから」
「どちらの御家門かお伺いしても?」
「それは…もしもそう聞かれたら、店主にのみ打ち明けても良い、と」
「それでしたら、奥へ、どうぞ」
そう言われてお智は奥へと案内された。
手代の後に続いて客との商談の間に促されて入り、お智は店主を待つことになった。
今日より少し前、お琴と直樹の助けとなるには自分たちが動くしかないというおもとの言葉にうなずいた三人だったが、時を見計らったようにご隠居とお琴の父から文が届いた。
どうせ動くならば、直樹と協力して動くべきだ、と。
それもそうだと三人は思った。
直樹は遠慮して、ただ自分だけがお琴のために動けばよいと思っている。
おもとなど既に関わっているにもかかわらず、だ。
ともかく、ご隠居から文が届いたからには勝手に動くことは止め、指示通りの時と場所にて計画を立てることとなったのだ。
委細を承知した福吉の客室の一室で
紫丹屋には跡取りはいなかった。少なくとも養子をもらわねば誰か奉公人か親戚にでも店を譲るしかない。
それとも跡取りという考えはなく、店は裏で糸を引いている者の持ち物であり、選ばれた人間が店主を務め、都合が悪くなれば店主は交代させられるのかもしれない。
紫丹屋の店主が代替わりしても裏での取引が続いているのか、それを確かめねばならなかった。
その役目をお智が請け負ったのだった。
襖が開き、店主が入ってきた。
お智は先代店主の顔を知らない。
店先にいた番頭も案内してくれた手代も初対面だった。
亡くなったとされる先代店主はそれなりに恰幅のよい男だったという。
店主のふりをしたのは細面のひょろりとした男だったというが、今ここにはいなかった。
入ってきた店主を見て、お智は驚きを顔に出さないように努めた。
亡くなったとされる恰幅のよい男だったからだ。
これは先代店主と同じ男なのか、それとも新たな見栄えのする男なのか。
お智の掌にじんわりと汗がにじむ。
この策略、このまま進めても良いのかどうか、お智は客間でただ一人、葛藤する羽目になったのだった。
(2025/11/30)
To be continued.