幼なじみ琴子編



(1)





今日で3日目になる。
入江くんが出張のときは、とても寂しい。
学会だ、研修だ、といろいろな理由で入江くんはいなくなる。
同居してから、何度も入江くんが家にいないのを味わっても、何度入江くんは帰ってくるってわかっていても、なんだか切ない。
入江くんは今日帰ってくるのだろうか。
出張から帰った日も必ず病院に顔を出す入江くん。それが入江くんのいいところで、お医者様として優秀なところ。
でも、妻としてはちょっと寂しい。
一目散に帰ってきて、あたしに顔を見せて。
病院でトラブルがあれば、そのまま出張帰りだろうと泊まってくる羽目にもなる。
帰ってくるのかな…。
あたしは今日もこっそりアルバムを広げる。
今の入江くんじゃなくて、昔の入江くん。
結婚式のときの入江くん。
大学生のときの入江くん。
高校生のときの入江くん。
そして、小さな少女の頃の入江くん。
思わず微笑んでしまう。
あたし個人が持っているアルバムはこれだけ。
最近にない笑顔の入江くんは、幼い頃の写真の中だけ。
リボンをつけて、ひらひらのスカート姿で、特別にっこり笑った顔はモデルもはだしで逃げ出すくらい。本当にかわいい。多分あたしの幼い頃なんかよりずっと。
あ、でも、これを見てること、
入江くんには内緒。
入江くんは多分人生最大の汚点と思っているらしいから。
早く、帰ってこないかなぁ。



(2)




カーテンのすきまから朝日が漏れていた。
昨日の夜、入江くんが帰ってこないかと窓から見たすきま。
目を開けると、いつもの天井が見えて、あたしは一瞬なんでベッドで寝ているのかわからなかった。
部屋の隅では誰かが動く気配。

「ん…、あれ?」

寝室での人の気配と言えば、入江くんしかいない。

「おはよう」

入江くんの声がする。

「入江くん!!いつ帰ってきたの?」

あたしは一気に起き上がって入江くんを確かめる。

「あたし、入江くん帰ってくるの待ってようと思って…。…あれ?」

そうだ、待ってようと思って、窓から外を見たり…。

「アルバム広げて寝てたよ」
「あ…」

しまった。
入江くんはあのアルバムを見ているとあまり機嫌がよくない。
こっそり見ていたのがばれてしまった。
それに、多分机で寝ていたのを入江くんがベッドに運んでくれたらしい。
反省し切れなくて、顔が自然と笑ってしまう。

「今度見つけたら、捨てるぞ。ちゃんとしまっとけ」

入江くんもそう言う割には、それほど機嫌は悪くないみたい。

「う、うん!」

あたしは慌ててそう返事をした。
あたしがベッドから出ないうちに、入江くんは身支度を済ませて部屋を出て行こうとする。

「待って、入江くん」
「何?」

ベッドから走って入江くんを捕まえる。
入江くんに抱きついて、入江くんに伝える。

「おかえり、入江くん。それから、おはよう、入江くん」
「ああ、ただいま」

こう言えることのうれしさ。
入江くんが帰ってきただけで、あたしはうれしい。
入江くんがここにいることが、何よりうれしい。
微笑んでくれた入江くんが、キスをしてくれる。
朝にふさわしい柔らかなキス。
でも、入江くんが朝からキスをくれるなんて、入江くんも出張で寂しかったのかな…なんて、ちょっと思ったけど。
…そんなわけないか。
でも、そうだったら、いいな。



(3)




その日、夜勤で仕事へ行くと、同僚があたしを手招いて言った。

「ちょっと、琴子。入江先生の昔の恋人が小児科に来たらしいわよ」

え?沙穂子さん?
あたしは入江くんの恋人だった、と聞くと沙穂子さんしか思いつかなかった。
あたしが知っている唯一の付き合っていた人。
その前にももしかしたらいたのかもしれないけど、お義母さんにも聞いたことがないので、きちんと付き合っていたという人はいないと思う。
…というのはあたしの希望であって、事実ではないのだけど。

「あの小児科の先生、結構親しげだったわよね」

小児科の先生?沙穂子さんじゃないの?

「もしかして不倫相手だったりして〜」

ふ、不倫?!あた、あたしという妻がありながら…!

「今度家に行く、とか言ってたらしいわよ」

な、何で家に…?!

「もしかしたら宣誓布告だったりして」

え〜〜〜!

「ちょっと、琴子からかうのよしなさいよ」

あたしはすっかり混乱して、そうモトちゃんが言ってくれたことなど全く聞いていなかった。
ちょっとしたことが気になるのは、いまだあたしが入江くんの妻という立場に自信がないからかもしれない。
結婚していようが入江くんはもてるので、いつだって周りが放っておかない。
夜勤が終わる頃には気になって気になって、とうとう仕事が終わってすぐに小児科まで見に行くことにした。

小児科の病棟で入江くんを見つけると、こっちへ来てとお願いする。
まさか先生を見にわざわざ来たとは言えないので、なんて言おうかと迷った。
例の先生はどこだろうと辺りを見回してみたけど、それらしき先生はいない。

「中島先生は外来だぞ」
「え?そんなつもりじゃ…!だってね、入江くん、だってね…」

ばれてるみたいなので、思い切って入江くんにずばり聞いてみることにした。

「入江くんのこと信じてるけど、その中島先生が宣誓布告に今度来るって本当なの?!」
「はあ?」

入江くんは思いっきり間の抜けた疑問を返してきた。
しかも、額に青筋が立ってる。

「何の話を聞いたんだ…」

ため息交じりのその言葉には、怒りが隠れている感じ。
あたしはうつむきながら言葉をつなぐ。

「えっとね、だってね…」
「要点を話せ」
「だから、中島先生が入江くんの昔の不倫相手で、久しぶりに会って焼けぼっ栗に火だとか」

そう言った瞬間、船津君のようにぶちっと切れたかと思った。
というか、切れたように見えた。

「琴子、焼けぼっ栗じゃなくて、焼け木杭だ。
それから、彼女は俺の幼なじみで、この間25年ぶりに会ったので、不倫どころか男として会うのも初めてだったんだ。
わかったか!」

入江くんはナースステーション前なのも忘れたように怒鳴って、廊下を歩いていってしまった。

幼なじみ…。
不倫じゃない…。

あたしはそれだけを理解すると、安心で足の力が抜けていった。
もちろん焼けぼっ栗がなんだったのか、よくわからないままだったけど。



(4)




夜勤から家に帰ってベッドに入ると、再び中島先生のことが気になってきた。

入江くんは幼なじみだって言っていた。
幼なじみってことは、小さいときの友達ってことだから、もしかして写真が残っていたりするのかな。

急に目がさえてきて、あたしはベッドから起き上がってお義母さんを探した。
お義母さんならアルバムを持っているに違いないと思って。
お義母さんは中島という苗字に記憶はなかったけど、えいこという名前は覚えていた。

「あまり残っていないけど、多分この子よ」

そういって見せてくれた写真には、にっこり笑った女の子が二人。
…もとい、女の子の格好をした入江くんと女の子。
入江くんよりもやや長めの髪。黒くて真っ直ぐなつややかな髪をして、意志の強そうなキュッとした唇と真ん丸の目。それはとてもかわいい、美少女と呼ぶにふさわしい容姿。
それでお医者さんなんだから、きっと頭もいいのだろう。
女の子同士の仲良しな写真。それはとても微笑ましい。
入江くんにもこんなときがあったのだとあたしは少しうれしかった。
もちろんこの写真の半年後には、あの仏頂面になるのだけど。

お義母さんは「映子ちゃん」を思い出したらしく、久々に会いたいと言っている。
あたしは病院であったことを思い出し、ちょっとだけ首をすくめた。

入江くんはまだ怒っているのかな。
帰ってきたら、なんて言おう。

そう、あたしは忘れていたのだ。
入江くんは、あの頃を思い出すのが、とても嫌なんだってことを。



(5)




夜になって帰ってきた入江くんは、やっぱりあまり機嫌はよくなかった。
あたしがお風呂に入っている間にお義母さんが怒らせてしまったと言っていた。
お風呂から出ておそるおそる入江くんの様子をうかがった。
入江くんはあたしをチラッと見て、
「風呂行ってくる」
と言って寝室を出てしまった。
…まだ怒ってるみたい。
どうしても入江くんはあの頃のことを認めたくないらしい。
よほど嫌なことがあったのかな。
…そういえばどうして女装をやめたのか聞いていなかったな。
どうしてなんだろう。
それまでは嫌がっていなかったと言っていたから、何かきっかけがあったのよね。
でも、もちろん入江くんはそんなことを話してくるわけはなくて。
あたしはそんな思い出話も本当は知りたい。
欲を言えば、入江くんのことは何でも知りたい。
入江くんにとってつらい記憶でも、あたしに話してくれたなら、つらさを分かち合えるのに。


髪の毛とお肌の手入れをしていると、書斎のほうからダン!と乱暴にドアが開く音がした。
気になって書斎へと向かう。
さらにバン!と音がして、クローゼットを閉めているようだった。
書斎に顔をのぞかせると、お風呂上りのせいか、少し上気して息をついた入江くんの姿があった。

「入江くん、どうしたの?」

思わずそう聞くと、
「…別に」
という不機嫌そうな声。
あたしはやっぱり何か怒っている入江くんにそれ以上声がかけられなかった。
口もきいてくれないよりはましかもしれない。
でも、もしあたしが入江くんの不機嫌さの理由なら、すごく悲しい。
ちょっと涙がこみ上げてきた。

「琴子」

書斎を出る寸前、入江くんは気遣うように声をかけた。
涙を知られたくなくて、振り向かずに答えた。

「な、何?」

一所懸命自制したけど、声は震えてしまった。
涙をぬぐおうかどうしようかと思ったとき、ふわっと後ろから頭を抱えられて、涙を指ですくわれた。

「別にお前が悪いんじゃない」
「でも」
「俺が一人でイラついてるだけだよ」

でも、入江くんのイラつきの原因の一つは確実にあたし、だよね。
そう思うと、また涙が出てきそうだった。
それを察したのか、入江くんはそのままあたしを抱きしめてくれた。
単純なあたしは、少しだけほっとした。

「だから、もう泣くな」

頭に入江くんの重みを感じた。
上から響いてくる言葉は、少しだけため息混じりで、震えていて、なんだか切なかった。


To be continued.