(6)
仕事が終わって玄関ロビーへ向かうと、そこにはお義母さんがいた。
よく見ると、もう一人。
白衣の…女医さん?
あたしは遠くからお義母さんと話している人を見ていた。
すっきりとした立ち姿に、後ろで束ねた黒髪。やわらかく微笑むその人は、どこか沙穂子さんに似ていた。
ううん、沙穂子さんはこんなところにいない。お医者さんでもないし。
あたしはもう一度良く見てみた。
お義母さんが親しく話しているのだから、もしかしたらあの人こそが中島先生なのかもしれない。
声をかけてみようと思う間もなく、女医さんは足早に外来のほうへと行ってしまった。
入江くんも確か今日は当直で帰ってこないんだったなと思ったら、急に心細くなった。
当直なんていつものことだし、帰ってくるのも遅くなりがちなのに。
あたしは一呼吸置いてからお義母さんに声をかけた。何でもない風を装って。
入江くんが入院させたという患者さんに会った。
あたしの看護を顔を引きつらせながら受ける。
初対面でここまで怖がられるなんてなかったから、いったいどこまであたしの噂が回っているのだろうと思ったら、どうやら入江くんの同級生らしい。
ということはあたしの同級生でもあるわけだ。
なるほど、それなら納得。って、納得してる場合じゃないか。
でも、顔に見覚えもなかったから、あたしとしては他の患者さんと変わりない。
入江くんが有名なように、最後の一年であたしもずいぶんと噂されて、高校の同級生には顔と名前を知られているらしい。
そんな昔話を同室の患者さんにもするものだから、その部屋へ行くたびにからかわれて困っている。
入江くんの噂と、あたしの噂では大違い。
それでも、その入江くんとあたしが結婚したのを知って、とても驚いて感心し、それから納得したようにうなずいた。
その患者さん…山田さんの話を入江くんにしたけど、あまり関心がなさそうだった。
ついでに、という感じで気になっていたことも話した。
中島先生の話。
沙穂子さんに似ていると言ったら、入江くんは上の空で「そうかな」と答えた。
最近の入江くんは、少し変。
何か気になることがあるようで、あまり外科にも来ない。
何が気になるの?
患者さんのこと?それとも中島先生のこと?
少なくとも、病気の治療方針でないことは確かだった。
(7)
入江くんはいつも黙っている。
もちろんあたしに話したら、解決するものも解決しないって言うんだろうけど。
中島先生がきれいだから。
中島先生が頭がいいから。
そんなことだけで落ち込んでいるわけじゃない。
いつもあたしは不安だった。
入江くんの隣にいるのは本当にあたしでいいの?
入江くんはあたしじゃないとだめって言ってくれたけど、もしも同じように入江くんを支えてくれる人がいたら、どうするのかな…。
ああ、もうやめよう。
こんなこと考えているのがわかったら、またくだらないって怒られそう。
あたしはなかなか眠れないベッドの中で、何度目かの寝返りを打った。
ふと気づくと、寝室のドアが開いて光が差し込み、入江くんが帰ってきたのがわかった。
なぜか布団の中で息を殺す。
どうか入江くんがあたしの顔をのぞきませんように。
きっとあたしはひどい顔をしている。
しばらく我慢していたら、入江くんはお風呂に入りに行ったようだった。
少しほっとして布団から出る。
いつもなら入江くんの顔を見て夜勤に行くのだけど、また泣きそうになったのでやめた。
泣くと入江くんは困った顔をする。
何で泣くのか、時々自分でもわからないから困る。
入江くんがお風呂に入っている間に、あたしはこっそり家を出た。
どうして入江くんの顔を見るのがつらいなんて思ったのだろう。
ときどき、小さな頃の入江くんに会っていたら、どうなっていたかなと考える。
友達になれただろうか。それとも、やっぱり最初は嫌われたりしただろうか。
みんなにいじめられていたら、あたしが守ってあげたのに。うん、多分あたしは入江くんを守ってあげたかったのだと思う。
小さな入江くん。
実は男の子だったってばれたとき、あたしがいたら、絶対守ってあげたのに。もちろんそれはもうかなわないことだけど。
(8)
夜勤が終わってから、なんとなく放心したまま家に帰ることにした。
わかってる。
入江くんと顔を合わせたくないくせに、入江くんに会わないと元気が出ないからだ。
このごろ入江くんは外科に顔を出すのが遅い。小児科で中島先生と小児科の患者について話し合ってから来るからだ。
こっそりどこからか入江くんを一目見てからにしようかと思ったけど、なかなか来ないのであきらめることにした。
家に帰ってひと眠りした後、仕事が終わったらしいモトちゃんと智子から
食事に行かないかと誘いがあった。その誘いを受けることにして、あたしは出かけた。
最初は気軽なレストラン。
それでもまだ時間が早くてもの足りないので、駅前の居酒屋へ。
いつも酔って迷惑をかけるので、ちょとは自粛しようと思ったけど無理だった。
入江くんの態度がおかしいことをあたしはモトちゃんと智子に愚痴った。
酎ハイを手に持ち上げて何度目かの乾杯を強要していたところ、後ろに手を振り上げすぎて、後ろを通りすがった人に酎ハイのグラスをぶつけてこぼしてしまった。
あたしは何が起こったのかよくわからず、ぼーっとしている間に、モトちゃんと智子がお酒を拭きながら謝っていた。
「琴子、いい加減にしなさいよ」
モトちゃんの言葉に反応したのは、あたしではなくその酎ハイをこぼされた人のほうだった。
「琴子ちゃん?あ、本当だ」
あたしの顔を見て、その人は笑顔を見せた。
もちろんこぼされたことにもさほど怒っている風ではなかったのだけど。
「覚えてない?幼稚園で遊んで、小学校の途中まで一緒だった土屋だけど」
「ええ?!」
あたしはやっと少し現状を理解し始めた。
「…土屋君って言うと、えーと、犬の糞を踏んで泣いていた…」
「…いや、それはおれじゃなくて琴子ちゃんだよ」
「えーと、えーと、犬に追いかけられてどぶに落ちた」
「それも琴子ちゃん」
突っ込まれるたびにあたしの記憶はどんどん怪しくなっていく。
それを聞いていたモトちゃんは、それだけ覚えてりゃ十分よ、と言ったとか。
智子はにっこり笑って、今の琴子さんと変わらないわね〜と言ったとか。
「ああ、わかった。木から落ちて捻挫したごろうくん」
「ハイ、正解。よくできました」
ようやく正しい記憶に落ち着いたときには、すでにモトちゃんが一緒に飲む手はずを整えていた。
(9)
土屋君とその友だちと一緒に飲みながら、いつの間にか話題はあたしのだんな様の話になった。
モトちゃんは入江くんがどんなにいい男か話している。
「琴子ちゃんは昔から面食いだよね」
土屋君の言葉であたしは「そうだったかなぁ」と返す。
「琴子ちゃんがだんなさんと結婚したっていうのが不安なら、どこまでいったって不安はなくならないでしょ」
土屋君の言葉にあたしは胸が痛む。
あたしは入江くんを信じていない?
信じたいけど、いつも不安。自分に自信がないから。
「入江くん何でもできるの。頭はいいし、スポーツだってできるし、手術もうまいし、できないことがないくらい」
「そう?」
おまけにかっこよくて〜、世界一のだんな様なの〜。
どんどん眠くなってきて、あたしは自分が何を話しているのかわからなくなってきていた。
入江くん、大好きなの。
「はい、はい」
モトちゃんの声が遠くに聞こえる。
「ああ、もうだめね。完全に眠りこける前に連れて帰るわ」
「でも、今日はおとなしかったですね」
「智子はたまにだからいいでしょうけど、眠ってもうるさいのよ、琴子は」
「入江さんに連絡します?」
「あー、それはやめておいたほうが…。なーんだか知らないけど、まぁた入江さんと何かあったらしいのよぉ。
あの小児科の新任の先生と関係あるんでしょうけど。
罪な男よね〜、入江さんて」
バカなのは、誰?
あたし?まさか入江くん?
いっぱいいっぱい考えて、あたしの頭はもうショート寸前。
お酒でごまかしたって、変わらない。
モトちゃんと智子は駅前からタクシーを拾って、苦労してあたしを家まで連れて帰ってくれた。
家に着くと、玄関に仁王立ちした入江くんが、とても怖かった。
もちろんあたしを心配してくれてたんだってこと、頭の隅ではわかっていたんだけど。
(10)
酔って家に帰ったあたしは、家に帰るまでもモトちゃんと智子に抱えられていたのに、帰り着いたからと言って一人で二階へ上れるはずがなかった。
結局は入江くんに助けてもらって寝室へ行った。
着替えている後ろから、入江くんがため息混じりに言った。
「おまえは余計なことを考えすぎるんだ」
ボタンがうまくはずれず手を止めた。
後ろの入江くんを見た。
「何も…考えてないもん」
それは嘘かもしれない。でも悔しくて、それは言わない。
「入江くんこそ、余計なこと考えてる」
あたしは小さな声で言い返した。
そう、考えすぎてる。
治療方針について、患者さんについて、研究のこと、学会のこと、そして…あたしのこと。
あたしのほうこそ入江くんをまた悩ませている。
酔ってぼんやりとした頭ではそれ以上考えることができなかった。
眠気が強くなってきて、身体がだるかった。着替えを終えると、大きなあくびが出た。
「…もう、寝るね」
笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。
布団に入ってすぐ、あたしは眠りに落ちた。
ごめん、入江くん。今は眠くて、何も考えたくないの。
考えすぎて動けなくなるって、何だか寂しいね。相手を想っているのに、それじゃ伝わらない気がして。言葉があるから、かえって言葉に縛られるのかな。
いつもあなたを想っていること、どうやったら伝わるのかな。
それともちゃんと伝わってる?
今はあたし、自信がないよ…。
To be continued.