幼なじみ琴子編9



(41)




ふと気がつくと、隣にあったぬくもりがなくてあたしは目覚めた。
時計の針は…。

「いやー、遅刻する〜〜」

あたしは飛び起きて着替える。
いつもなら寝ぼけ眼のまま下に行くこともあるけど、今日はそんな悠長なことやってられない。
意地悪にも目覚ましは止めてあった。…いや、もしかしたら自分で止めたかもしれないけど。
とにかく、朝食の用意どころか食べる暇があるかどうか…!

「琴子ちゃん?」

バタンと勢いよく部屋を出ると、心配そうな声でお義母さんが下から声をかけてくれた。
あたしは階段を駆け下りながら言った。

「お義母さん、ごめんなさい、遅刻しそうなんです。次の電車に乗らないと遅刻なんですぅ」
「そ、そうなの?お兄ちゃんが起こすなって言うもんだから、ごめんなさいね。
あ、その代わりこれ、食べていってちょうだい」

差し出されたのはパンに卵をはさんだトースト。
これなら走りながらでも食べていける〜。
お義母さんありがとう!
ダイニングでコーヒーを立ち飲みしながらトーストをほお張り、あたしは遅刻しないように家を飛び出した。
入江くんてば、入江くんてば、…意地悪なんだから〜〜〜。


何とか仕事には間に合って、主任に怒られずに済んだ。
入江くんはどうやら小児科の早出だったらしく、外科にはまだ廻ってきていないようだった。
あたしは一通り担当部屋に顔を出していたら、山田さんに手招きされた。
今日は担当じゃないんだけどな。

「昨日サエが持ってきたんだ」
「あ、写真ですね」
「そうそう」

そう言って手渡されたのは、たくさんの子どもが写っている写真。
でも入江くんはすぐにわかる。
後ろの隅に立っている不機嫌そうな子ども。ただカメラをにらみつけたような結構かわいい顔。
うん、間違いない。

「入江、すぐにわかるだろ」
「うん」

あたしは写真を見つめていろいろ想像する。
きっと何を聞いてもさらっと答えてしまう頭のいい子。でも、笑顔を見せない妙にきれいな顔をした子。
きっと幼稚園でももてたんだろうなぁ。

「ねえ、この真ん中に写っているのって山田さん?」
「ん?どれ?ああ、そう」
「…あまり変わってないかも」
「ま、よく言われる。っと、入江だ!」
「えっ」

あたしは写真をさりげなく隠した。
…つもりだったのに、入江くんはさっと写真を取り上げた。

「あ、だ、だめ〜〜〜〜!!」

入江くんは写真を見てから不機嫌そうに言う。

「何でこんなもの」
「いや、昨日サエが…」
「加藤サエ、か」

面白くなさそうに写真を付き返した。

「あ、もう!」

あたしは写真を落とさないように慌てて受け取り、もう一度写真を見た。
思わず吹き出す。

「凄い仏頂面よね、これ」

写真を見ている間にサエさんが入ってきた。
まだ面会時間には随分早い。
手には荷物を下げていて、山田さんのお母さんから頼まれたという着替えを持ってきたらしい。
山田さんはドンと荷物を手渡されて、何だかんだと文句を言いつつちょっとうれしそう。

やっぱりこの二人って恋人同士?
んー、でも山田さんとサエさんは違うって言ってたけど、どう見たっていいコンビよね。
幼なじみって、いいなぁ。
あたしと入江くんが幼なじみだったら、どうなってたかな。
あたしが幼なじみだったらずっといじめられてそうだな、とか。
口もきいてくれなかったりして?
や、やだな、それは。
でも、でも、幼なじみからいつの間にか恋人へって、少女マンガの黄金のパターンよね。
やっぱり、いいなぁ。

ふと気づくと、入江くんはとっくにガーゼ交換を終えていなかった。

次は外来だから今捕まえないと…!

あたしは少し小走りになって入江くんを探した。
エレベータの前で立っている入江くんを見つけた。

「あ、入江く〜ん!」

エレベータに乗る前に声をかけたら、入江くんは振り返って言った。

「走るな」

あたしは息をついて続ける。

「う、うん。あの、今日は手術のない日だよね。早く帰れそう?」
「さあ?」
「もう、意地悪」

いつも絶対『うん』なんて言ったためしはない。
だって、本当にわからないもんね。
だから入江くんはいつも即答しない。
でも、たまにはそうだなとか何とか答えてくれたっていいのに。

「で、早く帰ったらどうするんだ」
「今日は頑張ってお料理作るから!」

少しの沈黙。
…嫌がってる?

「ふーん、それで、俺にスタミナつけてどうするの」
「へ?どうもこうも…」

スタミナつける料理なんてあたし一言も…。

「昨夜はそんなによかったのか?」
「は?」

エレベータに乗りかけながら入江くんが耳元でささやく。

「リクエストに応えて、今夜も足腰立たなくなるまでしてやろうか?」
「い、入江くん、や、やだ、何言って…!」

昨日…昨日の夜…夜…!!

ちょっと思い出して赤くなったあたしに入江くんはささやく。

「へー、意味わかるんだ?」
「なっ、わ、そんなんじゃ…」

わ〜〜〜〜、バカバカバカ。
入江くんの意地悪!

あたしは無茶苦茶にこぶしを入江くんの白衣に向かって振り上げる。

「…今日はすぐに寝るなよ」

もう、やだーー。

思いっきりこぶしを入江くんに向かって振り上げたら、瞬間にエレベータの扉がしまった。

ダン!

うっ。

「いったーい!!」

エレベータの階数表示はどんどん下がっていくのを見ながら、あたしは扉にぶつけたこぶしをさすっていた。
頭の中は人にはとても見せられない。
いろんなことを一気に思い出して、あたしはしばらくエレベータの前で一人騒いでいて、やっぱり主任に怒られた。



(41)




土屋君と夏帆さんから招待状が届いた。
舞台の公演はまだまだ先だけど、その案内とともに入っていたのは披露宴への招待だった。しかも場所はあの中華屋さんだった。
もしかして、結構思い出の場所だったりするのかな。
もちろん入江くんも招待されていたから、一緒に行こうねと言うと「お祝いは任せた」だって。
…入江くんて人に物を贈ることってあまりないのかも。
それに中島先生にも招待は入っていて、入江くんに頼んで家に連れてきてもらって渡してみた。
中島先生は喜んでって言ってくれたけど、入江くんは「無理して行くことない」とか言うの。
よく考えたら土屋君と中島先生ってあの時しか会ってないんだっけ。
でも舞台を見るのは好きだって言ってたから、いいのかな?

お義母さんは喜んで中島先生を夕食に呼びなさいって言うので、あたしは時々声をかけた。
家に来るたびに内緒ねって言って、入江くんの女の子だったときの話をしてくれるのが楽しみ。
多分気を使ってくれているのかな。
それに最初こそちょっと嫉妬しちゃったけど、中島先生って結婚してたらしくて。いや、もちろん結婚してるから安心とか言うわけじゃないけど。
でも、中島先生がだんな様の話をするときはうれしそうだから、きっと大丈夫。あの落ち着いた先生がちょっとだけ赤くなって話すの。
あたしはその顔を見るたびによかったと思う。…ちょっとだけ雰囲気が沙穂子さんに似ていたから。
沙穂子さんから奪って結婚したのをまるで責められたみたいで、少しだけ苦しかったから。
今、どうしてるのかあえて聞いていないけど、沙穂子さんも幸せだと、いいな。…凄く勝手だけど。


夜勤が終わってから、あたしは入江くんの様子を見に行った。
土屋君と夏帆さんへのお祝いを買いに行きたいんだけどなと思って。
だから今のうちに約束を取り付けようと、わざわざ小児科病棟まで行ったのに入江くんはいなかった。
そばにいたほかの先生に聞いたら、中島先生がこの病院をやめると聞いた。
そろそろ外科にも回る頃だろうと言われたので、あたしは渡り廊下へ向かった。
その途中で入江くんの姿が見えた。

「入江くーーーーーん!!」

思わず駆け出して入江くんのそばまで行って、今聞いたことを口にした。

「中島先生が…!」
「今聞いた」
「あ、あれ、中島先生」

入江くんがあきれて言う口調の後ろに中島先生がいた。

「どうせ小児科のナースステーションをのぞいてきたんだろ」
「だって」
「仕事に戻るから」

あっさりと入江くんはそう言って行こうとする。
思わずその白衣をつかむ。

「え、だって、中島先生行っちゃうんでしょ?」
「だから?」

とっさに思いついたことを言う。

「だったら、お別れパーティしなくちゃ」

入江くんは一つため息をついた。

「…引越しの準備とかあるだろ」
「えーと、じゃあ、土屋君にも言っておかなくちゃ」

そ、そう、土屋君の結婚披露パーティにも呼ばれてるし。

「…稽古で忙しいに決まってるだろ」
「だって、中島先生は入江くんの大事な幼なじみでしょ」

あたし、なんでこんなに必死なんだろう。
なんとなく、中島先生がいなくなったら、また入江くんの友だちがいなくなるような気がしてるのかもしれない。中島先生だけが友だちじゃないのに。

「本当に、なおちゃんには琴子さんがいてよかった」
「え、そう?」

中島先生の笑った顔が少しさみしげだった。

「だから、お願いね、大事な、なおちゃんを」
「ええ、任せておいてください!ね、入江くん」
「怖くて任せられねーよ」
「そんなこと言うと、山田さんたち呼んでお祝いパーティするってお義母さんに言っちゃうから」
「…まだ懲りてないのかよ」

ぼそっとつぶやいた入江くんの声に、あたしはぎょっとして後ずさる。
こういうときの入江くん、あまりいいこと考えてない。

「あ、モトちゃんと帰るんだった。じゃ、じゃあね、入江くん」

あたしは別に待たせてもいないモトちゃんを引き合いに出して、そのまま入江くんの元を逃げ出した。



(43)




それから半月ほどの忙しかったこと。
土屋君と夏帆さんの結婚披露パーティが行われ、中島先生がアメリカへ行ってしまい、山田さんとサエさんから結婚式の招待状が届き、あたしはいっぺんに起こったこれらの出来事が、ほんの短い間だったことに驚いた。

あたしたちは小さい頃から出会いと別れを繰り返してきた。
きっとこの短い廻り合わせも大切なひと時だったのだと思う。
入江くんが女装していなければ起きなかったことも、多分大事な巡り会わせで、そうやって人生は進んでいくのだとあたしは思う。
もう忘れてしまったことも、いつかまた巡り廻って、何か起きるかもしれない。
入江くんは勘弁してくれって言うだろうけど、あたしはそれも楽しみかな。

あ、もちろん入江くんとは絶対出会う運命だったとは思うけどね。


幼なじみ琴子編−Fin−