(36)
絶望的な気持ちで家を出たときと違って、足元は軽い。
入江くんも同じように悩んで、そして分かち合えたことは、とても大事なことだった。
それを土屋君と夏帆さんにも伝えたい。
あたしはいるかどうかもわからなかったけど、土屋君と夏帆さんのマンションに行ってみた。
インターフォンを押すと、「はい」と土屋君の声がした。
「あの、琴子です。この間はありがとう」
『ああ、ちょっと待ってて』
ドアが開いて土屋君が顔を出した。
「悪いけど、外、行こうか」
「え?うん、いいよ」
土屋君はそのまま外へ出てきて、マンションの外へ歩いていく。
「ごめんね、夏帆さん今いないんだ」
「うん、そうだろうなと思った」
「二人で一緒に部屋の中にいると殺されそうだからさ」
「…夏帆さんに?」
「いや、琴子ちゃんのだんなさんに」
「そ、そうかな…?」
土屋君は笑って歩いていく。
「琴子ちゃんが知らないだけで、実は凄く嫉妬深いんじゃないかという気がするけど」
「よくわからないけど」
「そう?本当に素直じゃないなぁ」
大通りを歩いていくと、まもなく夏帆さんの会社が見える。
土屋君は駅前のベンチに座って、あたしにも座るように促した。
「この通りの裏に、僕がバイトしてた中華屋さんがあるんだよね」
「へぇ」
「そこでバイトしてるときに夏帆さんに会って、潔いお姉さんだなと思った」
「声かけたの?」
「まさか。劇団で公演の裏方手伝いやってるときに紹介されたの。で、顔だけは知ってたからね。
そうだなぁ、レベルが違いすぎて、つり合うとかつり合わないとかじゃないんだよね。
夏帆さんはああいう人だから、嫌ならマンションに住まわせてくれることなんてないだろうし。
これでも僕だって少しは考えることだってあるけど、世間は世間でしょ。
琴子ちゃんのだんなさんがどれだけ凄いか、散々聞かせてもらったけど、それでも琴子ちゃんを選んだんだから、胸張ってていいんじゃないかな」
「うん。そう思うときもあるんだけど、やっぱり考えちゃう」
土屋君も夏帆さんとつり合わないなんて考えることあるんだ。
「中華屋さんにさ、だんなさん連れて食べにおいでよ」
「へ?」
「夏帆さんがね、もし琴子ちゃんが来たらそう言ってくれって。あ、もちろん僕はもうバイトしてないけどね」
「うん、わかった」
「どうしてもだんなさんに会って一言言ってやりたいんだってさ」
「ふうん?」
入江くんと向き合う夏帆さんを想像したら、ちょっとだけ面白いかもしれないと思った。
それから、前を通り過ぎていく人たちを見ながら、あたしたちはお互いにどれだけ相手が凄いかを話していた。
多分聞いている人がいたら凄くばかげたことだったと思う。
それでも、こうやって笑って相手のことを話せることが、とても幸せでステキなことだと思った。
(37)
前を歩く姿を見つけて、あたしは走りながら声をかけた。
「入江く〜ん!!」
振り向いた入江くんには、廊下を走るなと注意されたけど。
追いついて腕をつかむ。
「ね、入江くん。今日一緒にご飯食べに行こう!」
「早く終わったらな」
「遅くても開いているお店知ってるから。ね?」
中華屋さんへ行く約束、早速果たしてしまおうと思っていた。
夏帆さんも今日なら早く仕事が終わると言っていたし。
入江くんは少し躊躇した後「…ああ」と返事をくれた。
「やった〜!」
うれしくてそう叫んだら、主任さんからも注意された。
少しの間お説教を聞いているうちに、入江くんはさっさと行ってしまった。
「入江くん!約束だからね!」
背中にそう叫んだら、入江くんが少し笑った気がした。
* * *
「相原…じゃなくて入江さん」
今この病棟でそう呼ぶのは決まってる。
山田さんは高校の同級生だったけど、あたしは全く覚えてない。というより知らなかった。
「はい?」
にやっと笑ってあたしを手招いた。
「入江の幼稚園時代の写真は見たことあるの?」
「う、うん、まあ…」
「…そうなんだ。凄いな」
「そうかな」
「入江なら何があっても阻止しそうだけど」
「お義母さんがね、ちょっと」
「…なんとなくわかった気がする」
どうやら山田さんは記憶の中のお義母さんを思い出したみたい。
「小さい頃の入江くんて、かわいかった?」
「…これ言うと入江が怒るだろうけど、並みの女の子よりもものすごく、な」
「そうよねぇ。あたしの小さい頃だってそりゃちょっとしたものだったけど、入江くんのかわいさにはやっぱり負けるわ〜。今だってそりゃかっこいいけど…」
「お、おい…」
「それにねぇ、入江くんてば」
「…入江さん!」
振り向くと、主任が仁王立ちしていた…。
「あなたは検温に来たの?おしゃべりに来たの?」
「検温ですっ」
「他の患者さんも待ってますよ」
「はい、すぐやりますっ」
苦笑する山田さんのもとを去り、あたしは別のベッドに回ることにした。
「後でサエが写真持ってくるって。見たいだろうと思って」
山田さんがあたしにそう言った。
あたしはその日の仕事を気分よく終えた。
(38)
あたしのほうが仕事が早く終わり、待ち合わせの病院のロビーで立っていた。
思ったよりも人が座っていたし、入江くんからよく見えるところにいたかった。
「…入江さん?」
そう呼ばれて顔を上げると、山田さんの幼なじみのサエさんが立っていた。
「こんにちは」
「もうお仕事終わっちゃったんですね」
「あ…写真ですか?」
「そう、後で山田に預けておくから」
「楽しみ〜」
「…それから、あの、あいつ、同級生だからって、態度でかくて迷惑でしょう?ごめんなさいね」
「いえ、そんなには」
「…入江…先生は、何か言ってなかったかしら」
「いえ、特には」
「そう、ですか…」
そのままサエさんは立ち去りかけて止まり、何か言いたそうにしている。
「あの…」
「はい?」
「私…、子どもの時のことは誰にも言ってないですからって、入江さん…入江先生に伝えて欲しいんです」
あたしはようやく気がついた。
入江くんだけじゃなくて、やっぱり気にしてくれていた人はいたんだってこと。
「大丈夫ですよ、入江くん、もう気にしてないと思いますよ」
「そうでしょうか」
「だって、あの姿、結婚式のときに皆に見せちゃってるから」
「本当に?!」
「うん。もちろん凄く怒ってたけどね。でも、本当にかわいかったから仕方がないよね。
きっと死ぬまで覚えてるだろうけど、きっともうあたしで免疫ついてるだろうから大丈夫よ」
サエさんは少し笑って言った。
「…今では想像もつかないけど」
「…ホントに」
仏頂面の入江くんが、あんなにかわいかったなんて。
その噂の入江くんが来るのが見えた。
「あ、入江くん!」
手を振ると、少しだけ顔をしかめた。
「それじゃ、入江さん、もう少しだけ山田のことお願いしますね」
「ええ」
サエさんは入江くんに軽く頭を下げて行ってしまった。
だからあたしは入江くんに駆け寄り、その腕にしがみついた。
「重い」
表情も変えずにそんなことを言う。
もう少し喜んでくれたっていいんじゃない?
でもわかってる。本当に嫌なら腕を振り払うもの。
「ねぇ、入江くん。感謝、してたよ?」
顔色をうかがいながらそう言った。
「…おまえ、あいつらに何言ったんだ?」
「え?えーとね、えーと…」
…何って、山田さんに何か言われたのかなぁ…。
「何だよ」
「…怒らない?」
「だから、何だよ」
「入江くんの小さい頃ってかわいかった?って…」
「はぁ?!」
「だ、だって写真でしか見たことないし」
「当たり前だ」
「あ〜あ、小さい頃の入江くんに会いたかったなぁ」
そうつぶやいたら、入江くんが笑った。
「あ、何?何か面白いこと思いついたの?」
「いや、別に」
「ふーんだ、その代わり、これから行くところは着くまで教えてあげない」
そう言いながら、今この話で笑うことのできる入江くんにほっとした。
…よかった。
入江くんが、笑うことができて。
(39)
入江くんを連れて、あたしは繁華街を進んでいった。
「うーんと、確か、ここ」
教えてもらったとおりにお店はあった。
「へぇ、珍しいな」
中華のお店に入江くんはしげしげとお店の入口を眺める。
店の中へ入ると
「あ、琴子ちゃん、いらっしゃい」
と声がした。
「あ、夏帆さん!」
奥に夏帆さんは座っていた。
手を振ってそのまま入江くんを連れて行く。
入江くんは見慣れない人に警戒している。
「あ、ごめんね、入江くん。
この間お世話になった人。土屋君の彼女さんなの」
「はじめまして、成田夏帆です」
「入江直樹です。…先日は、妻がご迷惑をおかけしました」
「いいえ、とっても楽しかったですよ」
お互いに名前を名乗った後は、少しだけ無言。
その沈黙が妙に怖い。
「琴子ちゃんのだんな様って、頭も顔もいいけど、中身はお子ちゃまかな」
夏帆さんはあくまでにっこり笑ってそう言った。
「か、夏帆さん?!」
「あら。だって話もせずに琴子ちゃん泣かせるなんて、男としてサイテーでしょ」
あたしは入江くんの顔を見ながら慌てた。
「い、入江くん、夏帆さんは本当はいい人でね、あの、その」
「いいのよ、琴子ちゃん。一度だけそう言っておきたかったの。
今度何かあったら、また私のところへいらっしゃいね。もちろん今度、はないでしょうけど?」
「…もちろん、ないですよ」
入江くんは多分内心面白くないだろうけど、努めて平静にそう応えた。
微妙に怖い。
「ですって。よかったわね、琴子ちゃん。
それに、元気な顔が見られてよかったわ」
夏帆さんは気にせずうれしそうに笑っている。
「あのね、仲直りしたらちゃんと報告に行くって約束してたの」
「いいけど」
それから土屋君の仕事の話をすると、入江くんは少しだけ冷めた答えをした。
…もしかしてまだ土屋くんの家に行ったこと怒ってる?
それを紛らわすために急いでメニューを開いた。
「えーと、えーと、エビチリもいいな。あ、この天津飯おいしそう。でも、このカニの爪みたいなやつも食べたいな」
久しぶりの中華なので、目移りして困ってしまう。
全部食べて見たいけど、それは無理だし。
…入江くんは何食べるのかなぁ。
「中華飯セットをひとつ」
あっさりと入江くんは決めてしまった。
「え、ちょっと待って、入江くん、あたしまだ…」
「さっさと決めろよ」
そう言いながらも多分時間がかかるだろうと思ってる顔。
あたしは同じようにセットメニューを選ぶことにした。
「じゃ、じゃあ、この天津飯のセットのから揚げつきで」
店員さんが行ってしまうと少しだけほっとした。
店の中をよく見渡せば、高級とは言いがたいけど気軽に入れる中華やさんという感じだった。
まだ時間が早いせいか、さほど混みあってもいない。
そうやって見ていたら、夏帆さんと目が合った。
「夏帆さんは何を食べるんですか?」
「炒飯セット」
「土屋君はいつ来るのかな」
「さあ、もしかしたら食事が終わる頃かも。今日は遅くなるって言ってたから、気にしなくていいのよ。琴子ちゃんに会いたかったのは私なんだから」
夏帆さんはそう言ってあたしを見て笑った。
それから注文した料理が夏帆さんのところに運ばれてきたけど、夏帆さんはあたしの話をちゃんと聞いてくれた。
仕事で失敗した話や一緒に仕事をしている人たちのこと、それから入江くんの家族の話。
それに対して夏帆さんはうなずいたり、何か一言話してくれたりと飽きずに聞いてくれた。
遅くなると言っていた土屋君は、本当になかなか来なかった。
(40)
あたしたちが頼んだ食事が運ばれて、それを食べ終わった頃、ようやく土屋君が現れた。
妙に嬉しそうでうきうきした感じ。
「夏帆さん、悪役ゲット」
「吾朗君、おめでとう」
何のことかさっぱりよくわからず、あたしは土屋君に尋ねた。
劇団で今度公演する劇で、結構いい役がもらえたんだって。
夏帆さんと一緒に喜ぶ土屋君を見ていたら、土屋君はうれしそうに笑って言った。
「琴子ちゃんが元気になって、よかったよ」
あたしは心配かけていたことを思い出した。
「うん。だって、入江くんと一緒だもん」
「そっか…。
あの後夏帆さんてば、家まで様子見に行こうかって心配してて」
ああ、やっぱり凄く心配かけたんだ。
夏帆さんが席を立った後、土屋君はチラッと入江くんを見て言った。
「ちゃんと謝ったんだ」
確かに土屋君はそう言った。
それも入江くんに向かって。
いったいいつそんな話をしたんだろう。
しかも謝るって、誰に?あたしに?
あたしに向かって悪かったって言った入江くんを思い出した。
あの言葉は、土屋君に言われたからじゃなくて、きっと入江くんが本当に悪いと思って言ったことだってこと、あたしは知ってる。
あたしだって悪かったことはたくさんあるのに、ちゃんと言ってくれた入江くんをあたしは信じてる。だって滅多にそんなこと口にしないもんね。
あたしは思わずキュッと入江くんの腕をつかんだ。
入江くんはあたしを見なかったけど、少しだけ微笑んだ気がした。
何かぼそぼそと入江くんと土屋君が会話した後、会計を済ませた夏帆さんが戻ってきた。
「吾朗君、お待たせ〜。あ、琴子ちゃん、入江さん、お先に」
「あ、はい」
その後、土屋君がニコニコ笑って夏帆さんに言った。
区役所に行こうとか何とか。
夏帆さんはそれを聞いて土屋くんの頬をぐりぐりつまんで、同じようにうれしそうにした。
そして、行ってしまった。
…あれ、何?
「ねえ、ねえ、何話してたの?」
思わず入江くんに聞く。
会話に対して興味もなさそうな顔をしていたけど。
「あの二人、結婚することにしたってさ」
け、結婚?!
「え、えーーーーーー!!」
思わず入江くんの耳元で叫んで嫌がられた。
だって、結婚って、そんないきなり。
「そっか〜、結婚するんだ〜」
あたしは入江くんが結婚したいと言ってくれたあの日を思い出した。
えへへ、そうだよね。
あたしだって相当いきなりだったよね。
あのときだって、入江くんてば…。うふふふふ…。
あ、そうか。
区役所って、結婚届(注:正確には婚姻届です)出さなきゃいけないんだっけ。
あれも確か大学行く途中でいきなりだったわよね。
そうだよね、届け出さなきゃ夫婦じゃないもんね。
「お祝い、しなくちゃね」
入江くんにそう言うと、面白そうにつぶやいた。
「おめでたいやつ」
いいんだもん、おめでたいやつでも。だって、本当におめでたいんだから。
夏帆さんは土屋夏帆になるのかな?
それに、土屋君の出る舞台、絶対見に行かなくちゃね。
あたしは入江くんの腕にしがみついて、思った。
こうしてつかまれる腕があること。
それがずっとできるなら、結婚万歳!だよね。
To be continued.