幼なじみ
「ナオちゃんは、ヘンタイのおかまっ!」
…久しぶりに嫌な夢を見た。
それというのも、昨日琴子が広げていたアルバムのせいだ。
おふくろにもらったとかで、俺の昔のアルバムを隠し持っていた。
俺が出張でいないと思って油断したらしい。
机の上に広げたまま眠っている琴子を見つけた。
アルバムによだれを垂らしそうな勢いで眠っているので、仕方なく抱き上げてベッドへ運ぶ羽目になった。
アルバムはそのまま捨てるかどこかへ隠してしまおうと思ったが、一応琴子が大事にしているらしいのでそれもためらわれた。
こんなことならためらわずに捨ててしまえばよかった。
俺にとって、あの幼き日の出来事は相当深く心の奥でしこりになっている。
人によってはトラウマだとか言うかもしれない。
それでも、あの出来事があったから今の俺が形成されたと思っている。
それに…なんだかんだと言って、卒業式の打ち上げだとか結婚式だとかで皆に見られているわけだし。
それなのにそれでも嫌だとか思うのは、俺にとってやはり不本意な記憶なのだろう。
俺は頭を振って起き上がると、仕事へ行く準備をする。
「ん…、…あれ?」
どうしてここにいるのだろうという顔をして琴子は目覚めた。
「おはよう」
「入江くん!!いつ帰ってきたの?」
琴子はがばっと一気に起き上がって、ニコニコして俺を見ている。
「あたし、入江くん帰ってくるの待ってようと思って…。…あれ?」
「アルバム広げて寝てたよ」
「あ…」
しまったという顔で俺を見上げる。
すぐに顔に出てわかりやすい。
「今度見つけたら、捨てるぞ。ちゃんとしまっとけ」
「う、うん!」
俺は部屋を出て行こうとドアノブに手をかけた。
「待って、入江くん」
「何?」
ベッドから走り出てきて、俺にしがみつく。
「おかえり、入江くん。それから、おはよう、入江くん」
「ああ、ただいま」
俺は琴子の温かい身体を抱きしめてそう答えた。
寝癖のついた琴子の髪が俺の頬をくすぐった。
そのまま琴子の唇に触れた。
嫌な記憶を打ち消すかのように。
* * *
小児科の病棟に行くと、新しい女医がいた。
「ああ、入江先生。こちら新しく派遣された中島先生。入江先生の担当してる患児さんを一人つけさせてもらったから」
「そうですか。よろしくお願いします。入江直樹です」
「中島映子です。よろしくお願いしま…」
中島先生は途中で目を見開き、そのまま立ち尽くした。
「…ナオちゃん?!」
思いもかけない言葉がその中島先生の口から飛び出した。
そのときの俺は、自分の内側がガラガラと崩れるくらい動揺していたと思う。それでもどうやら、他人から見た目には何も変わっていなかったらしい。
俺はそれ以上何も言えず、中島映子の顔を見つめて考えていた。
自分の記憶をずっとさかのぼって同じ顔がないか考えていた。
「あら、ごめんなさい。ええと、入江先生、よろしくお願いしますね」
無邪気に笑ったその顔を見て、ようやく思い出した。
その昔、俺の家の3件隣に住んでいたえいこちゃん。
中島じゃなかった。確か、苗字は坂本だった。
俺は夢を思い出した。
しかし、えいこちゃんは俺が男に戻る前に引っ越していったはずだ。
頭のいい素直な子だった。引越しするまでよく遊んだことは覚えている。
同じ幼稚園に行けないことが残念だと言って別れたはずだ。
俺の物思いとは別に、中島映子は俺の前からはとっくに立ち去り、他の先生に挨拶して回っていた。
* * *
琴子は今日は夜勤でいない。
したがって食堂で会う恐れはなかった。
遠くからいつもの調子で呼ばれたら、俺はどんな態度を取るか知れたものじゃない。
…代わりに、あの中島映子がいた。
「あ、入江先生、こちらでご一緒しませんか?」
食堂は混んでいた。
断る理由もないまま向かいの席に座る。
「ちょっと、あれ、誰?」
「さあ、どちらにしても大胆よねぇ」
周りの看護師がざわめく。
中島映子は戸惑ったようにあたりを見渡す。
「あら、私何かまずいことしたかも…」
「気にすることないですよ」
「そ、そう?」
黙って食事を食べ始めた。
「先ほどは場もわきまえずすみませんでした」
「…久しぶりですね」
「…本当に」
「男の俺がわかるとは思いませんでしたよ」
「あら、だって、名前が同じですし」
「…あの頃は…」
つい口ごもる。
あまり認めたくない話だった。
周りが聞き耳を立てているのがわかる。
いったいなんなんだ。
「ナオちゃんが男だってことくらい、知ってましたよ?でも、おばさまが…。
こんなところでする話じゃないですね」
くすっと笑って中島映子は話をやめた。
「よろしければ、今度お宅にお伺いしてもよろしいでしょうか?久しぶりにおばさまにもお会いしたいわ」
「そうですね、妻も喜ぶかもしれません」
「まあ、もう結婚なさっていたのね。どんな方かしら?楽しみだわ!」
どんな方…?
あえて説明はしなかった。
俺はそのまま黙って日替わり定食をたいらげた。
* * *
俺と中島映子がしていたたわいもない会話が、その後尾ひれをつけて回り回って琴子の耳に入るなんて、考えもしなかった。
翌日夜勤を終えた琴子が、俺を見つけるなり手招きをした。
小児科の病棟だった。
小児科の主任はまたか、と言う感じで今更気にもしない。
俺を呼び出した割にはナースステーションをきょろきょろと見回して落ち着きがない。
おそらく何か聞いたのだろうと察した俺は、ずばり言ってやった。
「中島先生は外来だぞ」
「え?そんなつもりじゃ…!だってね、入江くん、だってね…」
中島映子を捜しているのだろうという俺の予想は図星だったらしいが、琴子の口から出た次の言葉には絶句した。
「入江くんのこと信じてるけど、その中島先生が宣誓布告に今度来るって本当なの?!」
「はあ?」
…バカか、お前は。
いや、バカだったな、十分。
「何の話を聞いたんだ…」
朝の忙しいときにそんな暇はないと思いつつ、一応聞いてやることにした。
「えっとね、だってね…」
「要点を話せ」
「だから、中島先生が入江くんの昔の不倫相手で、久しぶりに会って焼けぼっ栗に火だとか」
それを言うなら、焼け木杭だ。
しかも、昔の不倫相手って、なんだ、それは。
呆れてものも言えない。
それでも、ナースステーションの横でほかの入院患者もいる手前、俺はなるべく怒りを押さえて言った。
「琴子、焼けぼっ栗じゃなくて、焼け木杭だ。
それから、彼女は俺の幼なじみで、この間25年ぶりに会ったので、不倫どころか男として会うのも初めてだったんだ。
わかったか!」
俺はそれだけ言って回診に回ることにした。
呆然とした琴子を残して。
廊下を曲がるとき、一安心したらしい琴子が、廊下にへたり込むのを目の端で捕らえた。
琴子が俺の言葉でどれだけ理解できたか怪しいところだが、とりあえず俺の怒りと不倫じゃないと言う言葉は頭に響いたはずだ。
しかし、なんてくだらない噂になったんだ。
そして、俺は琴子に気を取られ、もう一つの誤算を忘れていることにそのときは気がつかなかった。
* * *
「お兄ちゃん!!」
家に帰るなりおふくろの声が頭に響いた。
琴子はどうやらお風呂に入っているらしい。
「…ただいま」
一応それだけ言って部屋へ上がろうとした。
もちろんおふくろがそれで離すはずがなく、俺の上着をしっかりつかんでいる。
「映子ちゃんに会ったんですって?!」
ああ、その話か…。
琴子に聞いたんだな。
「きれいになったでしょうねぇ。頭のいい子だったから、あの子も医者になったのねぇ」
「…そうだな」
「ご両親がイギリスに転勤になってから、いつお戻りになったのかしら。お会いしたいわぁ」
「…多分今度来ると思う」
「そう!来るの!
でも、琴子ちゃんがいるんですからね。あまり病院で親しげにし過ぎちゃダメよ」
くだらない噂のことを言ってるのか。
「ご両親の連絡先聞いてきて頂戴」
「…おい!」
今さっきその口で親しげに口きくなと言っただろうが。
「ご両親も呼んで久しぶりにパーティーしましょう」
「はあ?」
忙しくてそんなひまねぇよ!
「あ、お兄ちゃん〜〜!夕食は〜?」
「いらない」
俺は服をつかんでいたおふくろの手を引き剥がして、2階へ上がっていった。
「まあ、お兄ちゃんたら、本当に気難しいんだから〜」
おふくろが文句を言うのが聞こえたが、そんなこと俺にはどうでもよかった。
そもそもの元凶を思い出したからだ。おふくろが、自分の趣味であんな格好させなければ…。
俺の不機嫌さを風呂から上がった琴子は、朝の自分のせいだと思ったようだった。
なんとなく様子を伺うようにして、寝室に入ってきた。
下でおふくろから俺の機嫌が悪いことを聞いたのかもしれない。
それでも、朝からナースステーション付近でバカげたことを言ったことはもちろん忘れていない。
このままでは琴子に必要以上にきつく当たりそうだったので、とりあえず風呂にでも行くことにした。
案の定琴子は少しうなだれている。
まあ、いいさ。
少しくらい反省しないとまた同じようなバカげた噂に振り回されるに違いないから。
リビングに下りると、おふくろはまだ起きていた。
「懐かしいわ〜」
そんなことを言いながら何やら見ている。
俺がのぞくと、それは小さい頃のアルバムだった。
「いいかげんにしろ!」
すかさずアルバムを取り上げる。
「あ、ちょっと〜」
おふくろは恨みがましく俺を見ながら言った。
「昔はあんなにかわいかったのに」
「…誰のせいでこうなったと思ってんだよ」
「まあ、でもお陰で琴子ちゃんみたいなかわいいお嫁さんもらえたんだから、感謝してもらわないとね」
「…誰に感謝だよっ」
「映子ちゃん、かわいかったわよね〜」
「人の話聞けよっ」
俺はおふくろから取り上げたアルバムを脇に抱え、書斎にしまいこむことにした。
「映子ちゃんに見せようと思ったのに」
「見せなくてもいい」
「思い出話に花が咲くじゃない」
「咲かなくてもいい」
「…あの頃のかわいい姿なんて、映子ちゃんが一番知ってるのに。今更アルバム隠したって遅いわよ」
俺はおふくろの言葉を無視して書斎へ行った。
アルバムをクローゼットの中に乱暴に押し込むと、思いっきりクローゼットの扉を閉めた。
カタン、と音がして、書斎のドアが開いた。
「入江くん、どうしたの?」
乱暴に閉めたせいか、琴子が驚いて見に来たらしい。
「…別に」
琴子は少し傷ついた顔をして、書斎を出て行こうとした。
「琴子」
俺の呼び声にも振り向かない。
「な、何?」
かろうじてそう答える。声は震えていた。
後ろから琴子の頭を抱え込み、もう片方の手で涙を拭ってやった。
「別にお前が悪いんじゃない」
「でも」
「俺が一人でイラついてるだけだよ」
柔らかな琴子の髪に頬を寄せて、琴子を抱きしめた。
「だから、もう泣くな」
琴子からはほのかにシャンプーの香りがした。
(2005/10/30)
To be continued.