幼なじみ




「ナオちゃんはなんでもできてすごーい」

そう手放しでいつも感心していた幼い頃の彼女だったが、彼女こそなんでもできる女の子だった。
3歳にしてピアノも弾けたし、字も読み書きできて、おそらく家族からは神童扱いだったように思う。
俺は全てできるのが当たり前だと思っていた。
なぜ皆が同じようにできないのかが不思議だった。
同じようにできる彼女は普通だと思っていた。
今思えば、3歳児なら他のやつらが普通なんだとわかる。
琴子なら、きっと普通に話せることだけできっとほめられたりしたのだろう。
皆に囲まれてちやほやされるのは楽しかった。
それは自分がいろいろできることを知って、他のやつらはできないということだったからだ。
おふくろはそんなことには無頓着で、ひたすらかわいい格好の似合う俺がいればよかったらしい。
親父はあれこれできることをかなり喜んでいた反面、女の格好をさせられた俺をかなり気にかけていた。
女だからこうしなければいけないだとか、男だからこれもできなければいけないとか、小さな頃は曖昧で混沌としている。
男だから泣いちゃいけないと言われるのはもう少し後になってからで、女だからおとなしくしなくちゃいけないと言われるのもあまりなかった気がする。
おふくろはああいう人だから、女の子はひたすらかわいいのが好みだし、男は男らしいのが好みなんだろう。
自分の理想どおりの女の子を作り上げるのに熱心だった。
ある意味琴子は女としてしか生きられないタイプで、おふくろの好みにぴったりだったに違いない。
だからと言って、女らしいかと言えばそうでもないので、女的思考を持っているかどうかが大事なのかもしれない。
そう考えれば、俺はやはり女にはなれないし、女でなくてよかったと思う。


 * * *


「入江先生、今度手術予定の佐藤真里ちゃんですが…」

手術の資料となる本を手に俺は少しの間上の空だったらしい。
中島映子がそう言って俺のところに来てもしばらくは気付かなかった。

「…入江先生、どうかしました?」
「…いや、少し考え事を」
「そうですか。それで、佐藤真里ちゃんの検査データについて少し質問があるのですが」

中島映子は、仕事中は決して余分な話をしない。
何かに気を使っているのかどうか、もしくはそういう方針なのかは知らないが、うるさく言うほかの女たちとは比べものにならないくらい仕事に熱心だった。
余分な質問もしないし、飲み込みも早い。
一緒に仕事をするには申し分ないほどだった。

「さすが入江先生ですね。今の説明で納得しました」

彼女は自分の仕事のするべきことをよくわかっている。
既に担当患児も彼女になついているし、同期の医師の中では上出来だ。
俺はおふくろからの話をまだ彼女にはしていない。
これだけ仕事に集中している彼女に話をするには、やはり食事のときか医局で顔を合わせたときくらいだろう。
外科と掛け持ちの身としてはいつも一緒に食事をするわけではないし、医局でも顔を合わせるときは少ない。
まあ、おふくろの言いなりにすることはないので、別に無理に声をかける必要もないのだが。
しかし、放っておくと彼女をどこかで待ち伏せして無理にでも誘いかねない。
人にはそれぞれ事情って物があるのをおふくろは全く気にしない。
そもそも俺は彼女の名字が変わった理由をまだ聞いていない。
考えられるのは結婚か両親の離婚か。

「中島先生」
「はい?」
「お昼、一緒に行きませんか。話したいこともあるので」
「ええ、喜んで」

そうにっこり笑ったその顔は、幼い頃の笑顔に重なった。


 * * *


昼食に誘ったもののなかなか行くタイミングが悪く、食堂に行けたのは1時半になろうかという頃だった。
中島映子も同じように俺の担当患者の処置についていたのでちょうどよかったかもしれない。
しかし、さすがにいつものランチメニューはなかった。
俺は親子丼を頼んでテーブルについた。
中島映子も同じものを選び、俺たちは向かい合わせで席に座っていた。
食堂は既に人気はほとんどなく、食べそびれた連中ばかりがちらほらと座っているくらいだ。
俺はしばらく食べることに集中した。
いつまた呼び出されるかわからないので、医者はだいたい早食いになる。
あのおっとりとしていたえいこちゃんが、丼を黙々と食べる姿は目の前にしないと想像できなかったに違いない。
いくら優秀とはいえ、それなりに大変なときを過ごしてきたのだろう。
これが琴子だったら、丼で顔が隠れんばかりにご飯を口にかっ込んでいるに違いない。

「あれからもいろいろ転勤で引越しされたんですか?」

落ち着いた頃を見計らって声をかけた。
ゆっくりとお茶を飲みながら中島映子はうなずいた。

「ええ。あまりひと所にいませんでした。
東京の次は大阪、福岡、名古屋、仙台。それからドイツ、アメリカと海外も行きました」
「それだけいろいろ回るのも大変でしたね」
「そうですね…。学校になじむのが大変でした」
「東京にいたのも3年でしたね」
「国内は3年以上同じ場所にいたことがなかったので、長いほうだったんですよ」

彼女の父の職業は覚えていないが、かなり忙しい人だった気がする。

「中学からは寮に入って、そこでやっと中学と高校は一箇所で過ごせたんです。両親はその後もあちこち行ってましたけどね」
「…ご両親は今どちらに?」
「父は確かフランスに。母は東京で一緒に暮らしているんです」
「実は母が久しぶりに話がしたいから家に来て欲しいと…」

そこまで話したとき、電話が震えだした。
白衣のポケットから電話を取り出した。

「外科か…」

通話をすると、外科の担当患者が急変したという。
俺はそのまま立ち上がって食べ終わった食器のトレイを手にした。

「中島先生、外科へ行きますので、先ほどの患者の方はお願いできますか?」
「はい、もちろんです」
「では、お先に」

話の途中だったが仕方がない。
急ぐ話でもないのでまたこの次の機会にでもしよう。

そう思っていたが、事はそんなに甘くなかった。


 * * *


当直で家に帰れなかったので気づかなかったが、俺の知らないうちに話はどんどん進んでいた。

中島映子は、わざわざ外科の医局まで当直明けの俺を訪ねてきた。

「すみません。仕事の始まる前に、と思いまして」
「どうかしましたか」
「ええ。昨夜お母様から日曜にお誘いを受けたので、そのお返事をお願いしようと思いまして」
「…いつ、誘いを…?」
「え?ええっと、夕方だったかしら。帰ろうとしたら偶然病院の玄関でお会いして…」

…おふくろ…、それは偶然か?え?!

「私のこともすぐにわかったみたいで。おば様もあまり変わりなくて…。
確か、お嫁さんを迎えにと言ってましたよ。お嫁さんて、入江先生の奥さんのことですよね。
それで、日曜は母の都合が悪くて、私だけでもよければお伺いします、と」

おふくろが玄関でうろうろしていた様子が目に浮かぶようだ。

「入江先生?…あの、入江先生のご都合が悪ければまたの機会で…」
「あ、いえ、伝えておきます」
「はい、お願いします。では、また」

おふくろが病院へ琴子を迎えに来た状況のことも特に言わずに、中島映子は医局を出て行った。
おそらく俺の様子を見て話題に出さないほうがいいと感じたのだろう。
イスにかけてあった白衣を取って、今夜は絶対に家に帰ろうと決めた。
なんだか嫌な予感がする…。


(2005/11/03)


To be continued.