斗南大学病院白い巨塔



10


「入江くんどこかな〜」

外科の病棟をこっそりのぞいてみたが、直樹の姿はなかった。
両手に持っているのは、大きな包み。おそらく張り切って作ったお弁当。
琴子は病院内をうろうろしながら考えた。

「うーん、医局のぞいてみようかな」

時刻はまもなく21時。病棟の面会時間は終わり、患者も就寝時間。
ひっそりとした病棟でうろうろするのはあまり好ましくない。
ましてや、他の看護師たちの前でお弁当を広げるのはもっと嫌だ。
そのまま医局へと足を運ぶ。
この時間になれば、さすがに医師たちも帰りだすか、研究室に直行している時間である。
医局の中には誰が見ているとも知れないテレビがつけっぱなし。先ほどまで誰かが吸っていたらしいタバコの匂い。
入り口で立ち止まって、誰かいないかと探したが、誰もいない。
並んだ机の上は、人によって整理整頓されていたり、雑然だったり。
少なくとも、何も置いていない机と言うのはどこにも存在しない。
資料だと思われる本の山と書類の山。タバコでいっぱいの灰皿。積み重ねられて崩れそうなフロッピーとディスクの束。

「…入江くんの机どこかな?」

名札がついているわけでもないので、持ち物で判別するしかない状況では、かなり難しい。
きょろきょろと辺りを見回しながら、こんな姿見られたら誤解されそう〜と思いながら、見回っていると…。

「…おい」

急に声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。

「うわっ、怪しいものじゃないです!」

…いや、思いっきり怪しいが。
そう思いながらも、声をかけた主は琴子の肩に手をまわした。

「あ、あのっ、入江くんの妻ですっ」
「…確かに、俺の妻だけど?」

少々疲れ気味の顔を肩越しにアップで見た琴子は、両手の荷物を抱きしめて叫んだ。

「な、なんだ、入江くん!びっくりした〜。今いいの?」
「ああ。持ってきたんだろ。他に犠牲者が出ないうちに食べるよ」
「ちゃんとお義母さんに手伝ってもらったもん」

そう言いながら、琴子は大きな包みを見せる。
直樹は、いつから置いてあるのかわからないくらい薄汚れたソファに座った。
目の前に置かれたテーブルの上の新聞やら灰皿を隅に片付ける。
琴子は直樹が作ってくれたスペースにお弁当を広げ始める。
おにぎりに卵焼き(多分殻入り)など、おなじみのお弁当のおかずから何やら得体の知れないものまで。

「さあ、食べて、入江くん!」

広げ終わると、ニコニコしながら直樹の顔を見つめている。
直樹は「いただきます」とだけ言うと、おいしいとも何も言わずに食べ始めた。
隣では琴子が「どう?おいしい?」と言う視線を投げかける。

「卵は殻入り…。お前が作ったな」
「あれ?気をつけたつもりだったのに」
「このシュウマイはうまいな」
「…それは冷凍してあったお義母さんの作ったものなんだけど」

もちろんそんなこと直樹は知っているが、からかうためにわざわざ言ってのける。

「芋はまあまあ…」
「それ、あたし一人で作ったの!よかった〜」

直樹は続けて一つかなりいびつなおにぎりを取ると、一口食べて「お茶…」とつぶやく。
琴子は水筒に入ったお茶を直樹に渡す。

「…塩つけすぎだろ、これ。他のは普通だったぞ」
「あ…あはは、それ、最初に握ったやつ…。よけたつもりだったのに…ごめんなさい」

そう言いながらもその塩漬けおにぎりを全部たいらげた。
まあ、でも昔よりはましか…などとお茶を飲み干しながら直樹が思い返していると、琴子が急に声を潜めた。

「ねえ、入江くん。助教授選、どうなってるの?」
「…さあな。俺には関係ないし」
「そうかもしれないけど〜。入江くん、いつ話すの?」
「…そのうちな」

静まり返った医局の中で不意に目があって、なんとなくお互いに顔を近づけかけたとき、機械音が響いてエレベータの止まった音と共に誰かが歩いてくる足音がした。
琴子は慌てて入り口のほうを見た。
柳田だった。
直樹はお茶を飲みながら軽く頭を下げた。
柳田は琴子を見て少し驚いた様子だったが、同じように微笑んで頭を下げた。

「お食事中でしたか」
「柳田先生も食べませんか?まだたくさんありますよ」

琴子の勧めに少し眉を寄せた直樹だったが、そんなことに気付くわけがない。

「あ、それとも、まだお忙しいですか?」

しばらくして、納得したように柳田は答えた。

「そうか、入江さんですね、お二人とも…」

柳田の言葉にようやく直樹は気が付いた。

「ええ、妻なんです。すみません、こんなところで弁当なんか広げて」
「いえ、知らなかったもので。どうやら私はそういうことに疎いらしくて」
「…こんなものでよければ、どうぞ。空腹でなければお勧めしませんが」

苦笑しながら勧めた直樹の言葉に首をかしげながらも、勧めにしたがって柳田は向かいのソファに座った。

「いろいろあって、夕食どころではなかったので、ありがたくいただきます」
「どうぞ〜」

琴子はにこやかに割り箸を渡す。
直樹は、とりあえず危険そうなものは全て平らげたことを確認していた。
いびつなおにぎりも、殻入りの卵焼きも、微妙な味付けの多分おひたしのようなものだったものも。

「…おいしいですよ」

気合の入った琴子の様子に、柳田は笑いながら答えた。
とは言うものの、琴子手作り品はほとんど直樹のお腹の中。
こんなこともあろうかと、直樹はせっせと口に運んでいたのだった。
まあ、他のやつに琴子の料理を食べさせるのも面白くないと言うか、危険と言うか。
後に残るは、母・紀子作の絶品おかずばかりで、琴子が自慢げにするのは少々問題はあろう。

「お二人とも多分聞いていらっしゃいますよね、訴訟のことは」

ある程度弁当の残りをお腹に収めてから、柳田はそう切り出した。


To be continued.