斗南大学病院白い巨塔



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「正直、自分がそんな風に訴えられることになるとは思いませんでした」

柳田はこんな風に誰かに弱音を吐くなど、自分でも珍しいことだと感じていた。

「まだ、正式に訴訟になったわけではありませんし」

お茶を飲みながら直樹はそう言った。
すぐに口を挟みそうな琴子が何事か考えている。
またろくなこと考えてなければよいが…と直樹は横目で琴子を見た。

「杉田さんの奥さん、どうしてそんなに怒っちゃったのかしら?」

琴子はそうつぶやいた。

「入院が長引いたのが一番の痛手なんでしょうね、おそらく」

柳田はため息をつきながら答えた。

「あ、お弁当ご馳走様でした。久々においしいお弁当を食べさせていただきました」
「柳田先生は、お弁当作ってくれるような方はいらっしゃらないんですか?」

柳田は苦笑した。

「…いないですね。どうやらあまり恋愛ごとには向いていないみたいで。正直、入江先生もそんな感じかと思っていました」
「…向いていないですよ」
「私も6年押せ押せで、ようやくですから!」

勢い込んだ琴子に柳田は目を細めた。

「そうなんですか。でも、こういうときは、慰めてくれる恋人でもいたほうがいいのでしょね」
「柳田先生ならたくさんファンがいるみたいですよ?」
「いや、それほどもてませんよ、私は。こんな疎い男ですから」
「そ、そんなことないですよ!」
「…そうでしょうか?」

久々に柳田は声を出して笑ったと感じた。
琴子は柳田の言葉を受けて、更に何やら熱心に柳田を弁護してくれているようだ。
次々と表情が変わる少女のような琴子を見て、いい休憩になったと思う。
どうやら彼女は病棟ではまれに見るトラブルメーカーのようだが、それを補うほどの快活さと元気を与えてくれるらしい。
病気で心沈んでいる患者にとっては、こういう看護師も必要なことだろう。

「琴子、俺は病棟に戻るから。お前も帰ったほうがいい」
「うん、わかった。じゃあ、お仕事がんばってね、入江くん」
「ああ、お前も気をつけて帰れよ。もう遅いから、電車じゃなくてタクシーで帰れ」
「大丈夫だよ、夜勤のときと変わらないし」
「…いいから、言うとおりにしろ」
「は、はぁい」
「それでは柳田先生、お先に失礼いたします」
「いえ、お疲れ様です。こちらこそお先に」

直樹が行ってしまうと、琴子は弁当箱を片付け始めた。
そこへ何故かどよ〜んとした暗〜い空気をまとわりつかせながら、一人の男が現れた。
琴子は片付けに夢中で気付かないが、柳田は気付いた。
男は柳田にも気付かないまま、そのままふらふらと柳田にぶつかりそうになる。

「船津先生?」

ぶつかりそうになった男は船津だった。
柳田は相変わらずテンションの落差についていけない。
…大半の人はついていきたくないが。
船津は柳田を見返すと、今気付いたかのように見直す。

「柳田先生ですか…」

琴子も気づいて船津を見返す。

「船津くん、こんばんは」
「もう助教授選が目の前だというのに…」
「そ、そうねぇ」

船津は、はっと気付いたように琴子を目に捉えた。

「こ、琴子さん!!あなたのお陰で、僕は、僕は…!!」

琴子の肩をがしっとつかんで揺さぶる。腕に抱えた空の弁当箱がカタカタと鳴る。

「船津くん、な、何?」
「あなたが書類を落とさなければ…!!」

…琴子はようやく先日の書類入れ替わり事件を思い出した。
船津くん、しつこい…。
そんなことを思いながら船津の剣幕に押されたように、つかまれた肩を振りほどけないでいた。

「船津くんだって、書類落としたんだから、お互い様でしょ?あたしだけのせいじゃ…」
「そうだ、どうして俺は論文を〜〜〜」
「大丈夫よ、それくらいならあたししょっちゅうやってるし」
「あなたと一緒にしないでください!」
「もういいじゃない、済んだことなんだし、論文はちゃんと提出したんでしょう?」
「助教授になれなかったらどうしてくれるんですっ」
「え〜、だって、船津くんて計画する割にはいつも最後の詰めが甘いと言うか…」

言ってしまってから、はっとしたようにもう一度船津を見返した。
船津はつかんだ手を下ろし、あらぬ方向を向いて思いっきり叫んだ。

「教授と同じこと言うな〜〜!」

船津は眼鏡の位置を直し、琴子を再び振り向いて指差した。

「見てろっ!助教授になってやる!そして、真里奈さんと結婚するんだー」

琴子は後ずさりながら、小さく「がんばってね〜」とだけ声を掛け、そのまま医局を一目散に出て行くことにした。
後に残された柳田は、初めて切れる船津を目にして呆然としている。
しかし、ここまで思いっきり叫ぶことができれば、ストレスもたまらないだろうなーなどと柳田らしからぬ感想を抱きつつ、憤然と立ち去る船津を見送ったのだった。
…帰ろう
柳田は疲れた身体でそう思った。
船津はいったい何をしに医局にやってきたのか、誰も知らない。

それでもって、週明けにようやく助教授選が行われる。
助教授候補それぞれの思いは無視して、裏側ではいろいろあるらしいが、そんなこと助教授候補たちは知る由もない。
どうしても助教授になりたいのなら、船津も裏工作に回るべきだが、そんなことは全く思いつかないバカ正直で詰めの甘い船津だった…。


To be continued.