15
「え〜〜〜〜〜!引き受けたの?ホントに?」
琴子は電話口で大声を出して、危うく直樹に電話を切られそうになった。
「ご、ごめんなさい。だって、入江くんそういうの嫌いかと思ってた」
「お兄ちゃん、なんて言ってるの?」
「え?あ、ああ、お義母さんよ。
え、だって、そんなっ!あ、待って、入江くん!入江く〜ん!!」
電話口に叫んでも、後はむなしくツーツーと言う音だけが響いていた。
「何かあったのね!そうなんでしょう、琴子ちゃん!」
「え、あの、その…」
「お兄ちゃんのことだからしゃべるなとか言われたんじゃないの?」
「えーと」
「いいのよ、琴子ちゃん、しゃべらないでうなずいてくれるだけでいいの。それならしゃべったことにならないでしょう?」
確かに直樹にしゃべるなと言われたが、自然に顔がにやついてきて、黙っていられそうにない。
だって、入江くんが、助教授!
さすが入江くんよね〜。
辞めるってわかってるのに引き受けて欲しいだなんて。
さすがだわ〜、私のだんな様。
「いいことがあったのね?そうなんでしょう?」
琴子はニコニコしてうんうんとうなずいた。
珍しく早く帰宅した直樹の弟・裕樹がリビングのソファに座って、雑誌を片手に琴子と母・紀子の会話を聞いていた。
「前に言ってた助教授選のことだろ」
ぼそっとつぶやいた一言に紀子の目は輝いた。
「お兄ちゃん、助教授になったの?」
琴子は一瞬戸惑ったが、紀子と同じように目を輝かせてうなずいた。
「そうなのね!…助教授!ああ〜、そうだわ。お祝いしなくちゃ!!琴子ちゃん手伝ってちょうだい!」
俄然はりきりだした紀子は、琴子の両手を握りながらも、すでにお祝いの計画を立てるのに余念がなかった。
入江家、にぎやかな夜の始まりであった。
柳田は心底ほっとしていた。
訴えるのを取り下げられたこともあったが、患者の杉田とその妻がやっと何かに吹っ切れた感じで柳田に挨拶してきたことを。
柳田は正直に言った。
「自分で言うのもなんですが、今回の手術の選択と方法、技術については間違っているとは思いません。
ただ、本当に合併症の予測は不可能だったのか、改めて勉強しなおすことにします。
私の未熟さであなた方を不安にさせたことをお詫びします」
杉田の妻はうっすらと涙を浮かべた。
それを見て柳田は、つい聞いてみる気になった。
「こんなことを聞くのは失礼かもしれませんが、…どうして訴えることをやめたのですか?」
杉田の妻は微笑んだ。
「師長さんにも同じことを聞かれました。
…勝てる勝てないは、結局どうでもよかったみたいです。ただ、患者がこれだけ不安に思うことをわかって欲しかっただけだったのかもしれません。
それを指摘されて気が抜けてしまったと言うか…。
指摘した本人はわかってるんだかわかっていないんだか、なんだか頓珍漢…あら、えっと、そういうようなことをわざわざ言いにお店まで来たんですよ」
「お店まで…?病院の誰かですか?」
「…ええ、まあ」
「誰でしょうか?」
杉田の妻は杉田と顔を見合わせて笑った。
「悔しいから言いませんよ」
「はあ…」
そのおかしそうな、それでいて秘密めいた笑いに、柳田はつられて微笑んだ。
店まで行くようなもの好きな病院関係者など柳田には思いつかなかったが、その人物に深い感謝と尊敬の念を覚えた。
「ま、真里奈さん、僕は…僕は〜」
男泣きに泣く船津。
夕飯をおごってくれると言う船津につられて食事に来た真理奈は、先ほどから向かいの席でむせび泣く船津を頬杖ついて横目で見ながらため息をついた。
別に助教授になったら結婚するとは一言も言ってないんだけど。
そう口にしてしまうのは簡単だが、それを言ってしまえばまた一騒動。
外の夜景に目を向けながら、いまだ独身の自分の身を少しだけ嘆いた。
こんな高級レストランでむせび泣く男と一緒にいるなんて、あたしもおちたものよね…。とりあえず…。
「ねえ、船津さん。
入江さんがやめた後、また助教授のポストがあくわけでしょう?
それに柳田先生も近々海外へ研修に行かれるわけでしょう?
チャンスじゃない」
真理奈の言葉に涙で濡れた顔を上げ、船津は目を輝かせだした。
「そ、そうです、真里奈さん。まだダメだと決まったわけじゃないですよね!今度こそ、助教授になりますよっ。
…真里奈さん!!」
がしっと真理奈の手を両手でつかみ、すっかり涙のひいた目で真理奈を見つめる。
「…な、何?」
真理奈は手をつかまれたまま、つい後ろへのけぞる。
「いつまでも待たせてすみません」
「い、いえ、誰も待ってないから…」
「それで…」
真理奈の手は片手で握ったまま(逃がさないため?)、もう片方の手でジャケットの内ポケットを探る。
探ったその手には、明らかに高級そうなアクセサリーの箱。それも、どう見てもリング。
さすがの真理奈もそれには目をみはる。
今までネックレスやピアスなど、数々のアクセサリーをもらったことはあったが、リングだけはねだったこともないし、もらったこともなかったのである。
船津にリングをもらうなど、恐ろしくてもらえないというのが本音だった。
「あ、あの…」
「真里奈さん、ささやかですが、これを約束の証に…!」
手を離された瞬間に逃げようかと思ったが、ついそのリングケースの中を見てしまった。
なんとも豪華なダイヤモンドリングだった…。
無視しようと思ったのに、あまりにも豪華なそれは、今まで真里奈が男たちから見せてもらったリングの中で一番高級そうで、目が離せなかった。
「これ…」
「遠慮せずに受け取ってください」
いや、誰も遠慮してるわけでは…と突っ込むべきなのか、その指輪の意味はなんなのかと問うべきか。
船津はただ見つめるばかりで身動き一つしない真理奈に、にっこり笑いながら自分で真理奈の指にリングをはめた。
「よくお似合いです、真里奈さん!」
ちょ、ちょっと、誰もはめてなんて言ってないじゃない。
て言うか、そのリングをはめる前に言うことがあるでしょう。そう、船津さん、何か忘れてない?
あ〜、違う、違う、そんなことじゃなくて。
約束も何も、あたし一度でも承諾したことないはずだし。
いらないと言ってその場を逃げ出すこともできたはずだった。
黙って指輪をはめてもらって見つめているなんて、今までの真理奈なら考えられないことだった。
船津は顔の引きつった真理奈をどう解釈したのか、にこやかに言った。
「遠慮することはありません。お式の時にはもっときちんとしたものを用意します」
いや、お式のときって…。
真理奈は冷や汗が出る思いだった。
でも、じゃあ、お式のときにはこれよりももっと豪華なものが出てくるわけ〜?
真理奈の心を知ってか知らずか、船津はやがて来る(と信じている)未来に思いを馳せ、「その指輪が似合うのは真里奈さんだけです」と勢い込んで言った。
…でも、まあ、まだ結婚するって決まったわけじゃないし〜。それに…。
うれしそうな船津の顔を横目で見た。
真理奈はしばらく考えた後、指にきらめくリングを見ながら「ま、いっか」とつぶやいた。
助教授就任の承諾をした翌朝のこと。
直樹はいつにも増して不機嫌そうな様子で病棟に現れた。
病棟スタッフは、お祝いを言おうとしてそのぴりぴりとした雰囲気に誰も近づけなかった。
「おっはよ〜ございま〜す」
能天気に現れた琴子にその場の空気は少し和らいだ。
その後ろにはやや疲れ気味で青い顔をした桔梗の姿。
「あ、入江く〜ん。先行っちゃうんだも〜ん」
「おまえを待ってたら遅刻だ」
「あ、ひど〜い。ちゃんと時間には間に合ったわよ」
ある意味、今の入江直樹に近づけるのはさすが琴子だ、と誰もが思った。
「ったく、おふくろには黙ってろと言っただろ」
「だ、だって。で、でも、楽しかったでしょ」
「楽しかったのはお前とおふくろだろ」
「そんなことないよね、モトちゃん」
「…大きい声でしゃべらないで…。って、あんたってばなんでそんなに元気なのよ。信じられない…」
二日酔いの頭を抱え、桔梗はナースステーションのデスクに頭をもたせ掛けた。
昨夜は無理矢理入江家に呼ばれ、助教授就任パーティと名をうったホームパーティに招かれた桔梗だった。
飲めや歌えの大騒ぎで、はっと気付くと限界の時間は過ぎており、今日のこの体たらくだ。
桔梗は割れそうな頭で昨夜言われたことを考えていた。
もしも病院を開院した折には手伝ってくれないか、と。
以前の桔梗なら直樹の言葉にすぐに喜んで承諾しただろう。
でも今は、少しだけ考えてしまう。
このままでいいのか?
隣で他の同僚とにこやかに話している琴子を見て思う。
妙に元気いっぱいで、いまだ危なっかしくて、とても二児の母には見えない優秀なる外科医の妻を。
「ねえ、モトちゃん。杉田さんね、訴えるのやめたんだって!よかったわよね〜」
「…そうねぇ」
このままこの病院に残るのも悪くはないけど、琴子の傍にいるほうが何倍も刺激的で楽しい毎日かもしれない。
それに、もしこのままここで見捨てたら、なんとなく後味悪いじゃない。
おまけにあたしったら、根っから入江さんが好きなのよね〜。
仕方がない、これも運命かも。
桔梗は、ぼんやりとした頭で琴子を見ながらつぶやいた。
「まあ、それもいいでしょう」
朝から妙にご機嫌な人がもう一人現れた。羽があったら飛んでいそうなくらいである。
「はっはっはっは…。皆さんおはようございます!
いや〜、僕と真里奈さんにふさわしい素敵な朝です」
すかさず直樹を見つけると、その進路を断ち、胸を張って言った。
「今回は負けましたが、僕は必ず教授になりますよ!
そのときは入江さん、あなたが真に負けるときです!」
直樹は船津を見返す。
「…そのときには病院にいないから、関係ない」
「な、どうしてなんです?!」
さすが船津。
あれほど噂になったのを知らないらしい。いや、忘れてるのか。
相変わらずだな…などという視線にもめげず、船津は直樹に説明を求める。
もちろんあえてわざわざ説明などする直樹ではない。
「…さあね」
それだけ言って立ち去ろうとする直樹に船津はしつこく食い下がる。
「どうしてなんですかっ」
直樹は目の端に映った人物の名をわざとらしくつぶやいた。
「…品川」
船津の真理奈アンテナがすばやく位置を確認した。
「真里奈さん!!真里奈さ〜ん!」
手を振りながら真理奈の方へ駆け寄っていく船津を見ながら、直樹はフーっとため息をついた。
柳田は医局の自分の机を片付けていた。
前々から申請していた研修が認められたのである。
なんとも唐突に決まったそのわけが助教授選のせいだったことがわかったのは、つい先ほどのことである。もともと助教授選のためにT大から斗南大学病院へ派遣されたらしいことも。
裁判寸前だったこともマイナスに響いたらしい。
この際再び蒸し返すことのないように海外に送ってしまおうというのが上の判断らしかった。
医局にやってきた直樹を認めると、軽く挨拶と助教授就任のお祝いを述べた。
あたりさわりのない会話をした後で、海外研修でしばらく戻ってこないことを告げた。
直樹は細かい事情を知っているらしいが、そんなことは口には出さない。
多分残りの1週間は引継ぎと準備で追われることになり、ほとんど顔を合わせて話し込むこともなくなるだろうと思われた。
「開院の折には私でよければお手伝いさせていただきますよ。手術の際にはぜひ」
「柳田先生のような方に手伝っていただけるなら、こちらからお願いしたいくらいですよ。しかし、T大が黙ってはいないでしょうから」
「…さあ、戻って席があるのかどうか。ダメならこの斗南大で雇ってくれるらしいですから」
「もしそうなれば、のお話ですね。あまりいいお礼が出来ないかもしれませんよ」
「いえ、入江先生の手術を間近で見られるなら、どの先生も喜んでお手伝いに伺うと思いますよ」
「開院すればさすがに貧乏ですからね」
「大丈夫ですよ、入江先生なら。それに、あの元気な奥さんがいれば」
「…そうですかね。…余計に心配な気も…」
苦笑した直樹を見つめながら、こんな顔もできるのだ、と初めて知った。
そして、柳田は医局から出て行く間際に思い出したように笑って言った。
「凄く残念でしたよ。…入江先生の奥さんだと知ったときは」
エレベータに乗り込んだ柳田は、チラッと見えた直樹の顔を思い出しながら、研修から帰った後も入江氏の病院では手伝えそうにないかな、などと思った。
その一年後。
派手な開院セレモニーと共に素晴らしく立派な病院が開院し、何やらちょっとだけ不機嫌顔の院長が格好いいと評判になったが、それはまた別のお話。
そして、それに前後してその院長夫婦に結婚式の招待状が届いたが、それもまた別のお話。
教授になると張り切っていた医師が、本当に教授になれたのかどうかは、遠い未来の別のお話。
斗南大学病院白い巨塔(2005/10/11)−Fin−