斗南大学病院白い巨塔



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杉田の妻は、店が暇になった昼過ぎから早々と病院に来ていた。
杉田は退院を翌日に控えていた。
杉田自身が珍しいな、と声をかけたくらいだった。

「この間、看護師さんが来たわ」

杉田の妻はため息混じりにそう言った。

「もしかして、入江さんか?」

杉田は妻の横顔を見ながら、週末の検温のときのことを思い出していた。
幸い今日は入江看護師の顔は見ていないので休みなのだろう。

「入江さん…そう。あと、あの男の看護師さんもいたわ」
「説得しに行ったのか…」
「説得?…なんだか違ったわ。どうして私が訴えたくなったか…みたいなことを勝手にしゃべっていったけど」
「あのな、俺は…」
「…いいのよ。わかってるわよ。確かにあなたの入院が長引いたことはつらかったわ。今だってまだ納得はいかないけど」
「そうなのか?」
「訴えようと思ったのは本気だったのよ。でも…」
「やめたのか?」
「そうね…。裁判になったら勝つとか負けるとかじゃなくて、ただ謝ってほしかっただけかも」
「謝るって、おまえ、先生は何も間違ったことはしてないだろ?」
「それでも、よ」
「…先生たちにとったら、そりゃ謝れねえだろ。謝ったら医療ミスしたみたいじゃないか。そりゃ無理だろ」
「だって、すぐに帰れるって言ったじゃない。合併症なんて出るなんて思わなくて、気が気じゃなかったのよ」
「先生は大丈夫だって言ってたろ」
「…私は、お店にいて、一人で、ずっとあなたに付いてるわけにいかなかったし、大丈夫なんて言葉は何回聞いたって実際に治った姿見なきゃ安心できるわけないじゃない」
「まあ、もう治ったんだから」
「…心配だったのよ、本当に」
「…そうか…。悪かったな」

杉田の言葉に少し笑みを浮かべながら杉田の妻は言った。

「…あなたに謝ってもらってもね」

杉田の妻は夫の顔を見ながらふと思い出した。
あの看護師の言ったこともあながち間違っていたわけではないのだ、と。
一人でさみしくて、心細かったのだ。
絶対に謝らない病院側に対してただ意地になっていたのもわかっている。
おそらくあの主治医の治療も落ち度はないのだろう。
病棟内の患者に聞いても、柳田医師は医者の中でも物腰は柔らかくて威張ることはないよい先生だ、と。
だからこそ…、そんなに評判のよい医者なのにうちの主人の合併症は防げなかったのか。
主人の合併症は、百パーセント絶対に起こさないようにするのは無理だとわかっている。わかっているけど、それでもなお求めてしまう。
医者にとってはたくさん手術した中のほんの一例かもしれないが、患者とその家族にとってはそうではないのだとわからせてやりたかった。
合併症が出たのは医者のせいじゃなくても、合併症が出てすみませんと謝ってほしかったのだ。
それは多分無理だろうし、自分でも矛盾しているとは思うが。
のんきな夫の人のよい顔を見ながら、後で師長に裁判のことはなかったことにすると言わなければ、と思った。


「入江先生、院長がお呼びだそうです」

そう言って、師長は少し心配な様子で直樹の顔をうかがった。

「わかりました。院長は、今どこに…?」

直樹はカルテを書く手を休めて、師長の顔を見た。
師長が口を開く前に他の看護師が慌てて声をかけた。

「師長さん、杉田さんが…」

師長は「第1会議室です」とだけ言って、その場を立ち去った。
直樹は少しだけ師長が呼び出された方に目を向けたが、院長の呼び出しに応じるべくカルテ書きを進めた。
そろそろ会議が終わったころだろうか。
そんなことを思いながら、直樹は会議室に向かった。


直樹が会議室の中に入ると、ざわついていた会議室の中は一瞬にして静まり返った。
どうやら会議は終わったらしいが、会議室の中にはまだほとんどの教授や外科医局員たちが残っていた。
院長と外科の教授が「こちらへ」と手招きをする。

「入江君、具体的に、開業はいつになるのかね?」
「つまり、この病院をやめるのはいつか、ということになるのだが」

外科の教授と院長がそれぞれ言った。

「まだ病院の建築自体が始まっていませんので、あと半年程度はここでお世話になるつもりですが。
一番忙しい夏休みを過ぎてからのほうが迷惑にもならないでしょうし、場合によっては開業まで1年程かかるかもしれません。特に急いでいませんので」
「そ、そうか」
「では、決まりですね、院長」
「…そうだな」

外科の教授は一つ咳払いをして言った。

「入江君、君に助教授の辞令が下りることになった」
「ああ、いい、わかっている。辞めるから、というのはもちろん考慮したうえで、だ」

院長は何か言おうとした直樹を制して言葉を続けた。

「その点はもちろん外科の教授以下いろいろ検討したのだ。
もちろん全員が賛成というわけにはいかないが、ほとんどの医局員は君を支持した。
現在において君以上にふさわしい人材は数えるほどもない。
それによく考えたまえ。
辞めるからといって助教授という肩書きが何か邪魔になるかね?
開業するにあたってもプラスにこそなれ、マイナスにはならんはずだ。
開業しても人脈は必要だ。
助教授になればますます忙しくなるかもしれないが、確実に人脈も広がり、開業時にはきっとその人脈が必要かつ役に立つときが来るはずだ」

ほんのわずか考えるそぶりを見せ、直樹は口を開いた。

「…それは、拒否はできないということですか?」
「真実君がいやなら仕方がないがね」
「一つお願いがあります」
「なんだね?」
「肩書きが邪魔になるようなら、すぐに辞めさせてください」

院長と外科教授は一瞬顔を見合わせた。

「わかった。院長の名において約束しよう。受けてくれるね?」

直樹はやっと少しだけ微笑んだ。

「いろいろと我がまま言って申し訳ありません。…引き受けさせていただきます」

直樹の言葉に、会議室の中のあちこちでため息が漏れた後、一つ二つ…、やがて割れんばかりの拍手が沸き起こった。

こうして直樹が助教授になった噂は、すぐに病院中を駆け巡った。
その影で、失意のあまり奈落の底へと落ちんばかりに気落ちした人物が数人いたが、その中の一人は立ち直りも異常に早かった…らしい。


(2005/10/05)

To be continued.