イタズラなKissで7題



7.好きにして


大学に戻ってから、しばらく俺の周りは騒然としていた。

「あれ?入江、相原と別れたんじゃなかったんだ」
「偽装結婚って聞いたぜ」
「相原の思い込みとか」
「え、なら相原はまだフリー?」

好き勝手なことを言い合う大学の暇なやつら。
琴子と偽装結婚していったい誰に何の得があるんだ。
思い込みだけで結婚式までするか。
…フリーなわけないだろ。

「うおっ、おまえ余計なこと言うなよ」
「げげ、入江がこっち睨んでるよ」
「こ、こっち来るぜ」

すれ違いざまにそいつらはなぜか直立不動。
ひと睨みだけしてそこを立ち去る。
それでも、前ほど琴子との噂話が苦痛じゃないことに気がつく。
当然バカな噂話には腹がたつが、琴子につく虫が一掃されると思えばいい。

結婚してから気がついた。
高校から注目を浴びた分、琴子を気に入った奴の一人や二人はいるってこと。
それまで、ただただ琴子から繰り返し俺に対する好意を聞かされていた時は、そんな奴らがいるなんて思いもしなかった。
琴子が他の誰に告白されようが、全く気にならなかった。
どこかで琴子は俺を好きだからと思っていたせいかもしれない。
結婚して、ようやく周りを見渡せるようになったのかもしれない。
正直、凄く可愛いわけでもなく、美人でもない。
多分よく笑ったり泣いたり怒ったり、そういう表情が目を引くのかもしれない。
頭もあまりのバカさ加減に二の句が告げないときもあるが、そのちょっとバカっぽいところがもしかしたらいいと思ってる奴がいるのかもしれない。
…俺は勘弁してほしいところだけどな…。せめて人並みに…と思ったが、あのバカっぽいところが琴子なのだと思うと、気にならなくなってきたのは確かだ。

授業の合間に琴子が教室の出入り口から顔を覗かせていた。
何をするわけでもなく、じっと俺を見て目を潤ませている。
気づいたやつが「奥さん来てるぞ」と言ってくるのだが、あえて無視していると、誰かに連れられて結局教室の中に入ってきている。
おまけのその目の潤みを俺のせいだと言われる。
「ち、違うの」
琴子は慌てて否定した。
そりゃそうだろう。俺はまだ何もしてない。
「しばらく入江くんいなかったでしょ。今日教室にいる姿を見ていたら、久しぶりだなーって思って。
そ、それから、今までの長かった苦労を思い出して…」
…長かった苦労ね…。
琴子の頭の中では今、大河ドラマ並みに今までの俺たちの出会いからここに至るまでの月日を再現しているのだろう。
それに付き合っていると日が暮れるので、俺はため息をついて琴子を追い出しにかかった。
「おまえ、次は去年落とした英文学の授業じゃないのか。今年も落とすと単位もらえずに卒業できないぞ」
琴子は夢から覚めたようにはっとした。
「そ、そうだった。じゃ、じゃあ、入江くん、今日こそは一緒に帰ろうね」
「…保証はできないぞ」
「いいの、遅くても待ってるから」
そう言うと、一番端の校舎まで急いで走っていった。
なんとも騒がしく、俺は周りのやつらに「騒がしくて悪かったな」と言っておいた。
「い、いや、いいけど」
驚いたように周りのやつは答える。
「入江が誰かのために謝るなんてびっくりだよ。奥さんてすげぇな」
そのまますぐに授業が始まったのであえて何も言わなかったが、俺は少しだけ考えた。
琴子の代わりに謝ることは当たり前だと思っていた。
そう意識もせず、琴子が何かやらかしたなら、俺は一緒になって謝るだろう。
結婚する前の俺はどうだったのか。
まず謝る場面が思いつかない。
琴子より幼い裕樹と一緒にいてすらそんな場面に会うこともない。
既に琴子と会う前はどんな生活をしていたのかすら思い出せなくなっている。
ひとつひとつ琴子との生活が刻み込まれている。
そばで騒がれてうるさいと思うことはあっても、だから一人になろうとか思わない。
腹がたつこともたくさんあるのに、それでも見捨てようと思うこともなかった。
知らずうちに苦笑していた。
ああ、本当に、琴子なしでは生活できなくなっている自分に。

 * * *

授業は終わったけど、入江くんのクラスは実験があるとかでなかなか出てこない。
そっとのぞいてみようかと思ったけど、実験の最中だけは顔を出すなときつく止められていたので、実験室の外でうろうろとしていた。
少し冷えてきて、あたしは自販機で缶コーヒーを買った。
遅くなっても平気。
入江くんが一緒に帰ってくれるなら。
入江くんがようやく大学に戻ってきて、やっとお医者さんの勉強を続けられることになって、もう一度夢が動き出して、本当によかった。
大学を諦めようとしたあの日、暗闇の中で入江くんは何も言わなかった。
抱きついたあたしにさせるままにしていた。
きっとあたし以上に残念だったに違いない。
悔しくて、でも入江くんは泣くことをしないから、ただじっと座ったまま、夢を手放す準備をしていたのかもしれない。
だから、もう一度こうやって戻ってこれて、本当によかった。
だからあたし、待ってるくらいどうってことない。
今までだって散々待ったことあるもんね。
待つことに関してはいわばあたしスペシャリストなわけよ。
片想いだって6年待ったもの。

そんなことを考えていたら、ようやく扉が開いて中から少しずつ人が出てきた。
終わった人から帰るのかな。
当然入江くんはさっさと出てきた。
「…こんなところで待ってたのか」
あたしを見るとそう言った。
「ここなら先に帰っちゃうこともないだろうって思ったから」
「荷物を置いてある教室で待てばよかっただろ」
「あ、そうか」

入江くんの歩調に合わせながら、あたしは大学の構内を歩いていく。
入江くんの背中を見ながら、あたしは少し前まで絶望的な気持ちで入江くんの背中を見ていたことがあると思っていた。
それを思うと、今あたしはこんなに幸せでいいんだろうか。
「何笑ってるんだ」
入江くんが穏やかにそう聞いた。
「うん。だってね、ほんの4,5ヶ月前まで、あたしはこうして入江くんの隣を歩くことすら考えられなかったの。
ただあたしが好きなだけで、入江くんは誰も好きじゃないと思ってた。
沙穂子さんと歩いてた姿をお似合いだなと思ってた。
あの雨の日、電車の中でそれでもいいやって思ってた。
入江くんが誰を好きでも、あたしは入江くんを好きなままでいようって。
でもそれは、誰にも知られちゃいけないって決心して…」
入江くんは立ち止まってあたしを見た。
その目は驚くほど優しかった。
「俺は…何も考えていなかった」
「…何も?」
「琴子がそばにいるのが当たり前で、まさか隣を一生沙穂子さんが歩くとは思っていなかった」
「見合いしたのに?」
「見合いしたのに」
「それって…」
沙穂子さんにとってはどうしようもなく悲しいことだよね。もしかしたら結婚していたかもしれないのに。
「当たり前だから、今好きだとか嫌いだとかも考える必要がなかったし、琴子が俺以外の誰かを好きになるなんて思いもしなかった」
入江くんはあたしの手を握って歩き出す。
あたしは入江くんの言葉を考えていた。
あたしも入江くん以外の誰かを好きになるなんて、結局考えられなかった。
もしも二度と会えなくなる羽目になっても。
「だから」
歩きながら入江くんが言葉を続ける。
「だから?」
あたしは入江くんの顔を見上げる。
「いつから好きだったのかわからなくても、今まで琴子以外の誰かに同じ感情を持ったことはないし、おまえがそばにいる限り他のやつを見る余裕なんかないだろ」
「それって、ずっと前からあたし以外誰も好きじゃないってことよね」
あたしは入江くんの手をぎゅっと握って引っ張ると、少しかがんだ入江くんの頬にチュッとキッスをした。
少しだけ顔をしかめた入江くんは、そうは言っていないとでも言いたげだった。
でもいいの。
入江くんの気持ち、知ることができたんだもの。
「あたしはずっと入江くん以外好きにならないよ?」
入江くんはまんざらでもないって顔をして言った。
「好きにすれば」
「だから入江くんももっとあたしのこと好きになっていいよ?」
入江くんが荷物を置いている教室に入ったら、誰もいなかった。
入江くんはそれを確認したようにあたしを抱き寄せてささやいた。
「これ以上は、無理」

…あたしたちが甘いキッスをする頃、教室の外には入りたくても入れない学生が、誰が邪魔をするか盛んにじゃんけんしていたのだという。

(2011/11/05)

Fin