通りかかった看護師がポスターに目を止め、しばらく立ち止まり熱心に見ているが、廊下の向こうから
「唐沢さーん」
と呼ばれ、慌てて
「はーい」
と返事して呼ばれたほうへ歩いていった。
その脇を右足がギプスで固定された男性患者が電動車椅子に乗って通りすぎていき、唐沢と呼ばれた看護師を振り返り、不気味に笑う。
同じく、掲示板のポスターを見上げて、もう一度看護師を振り返った。今度は表情は影になって見えない。
* * *
朝礼のために隊員たちが集まっている。
そのなかで、一人大あくびをしている女性隊員。
課長が室内に入ってきてその女性隊員をにらんでみたが、全く気づかない。
少し咳払いをして注意を促すと、ようやくこちらを見たが、特に反省する様子はない。仕方なく課長はそのまま話をすることにした。
「諸君、おはよう。知ってるとは思うが、今日から医療班特別支援課から研修生の受け入れが始まる。当係にはこれから1ヶ月ごとに研修生が来るので、それぞれ担当になったものは面倒を見てやってくれ。その代わり当分仕事はパトロールなどの軽犯防止にまわすから早く帰れるぞ。それから…」
課長の長い話はいつ聞いても退屈だと女性隊員がもう一度あくびをしたところで、ドアの向こうに人影が見えた。
課長も気配に気付いたらしく、すかさず時計を見た。
「あ、もうそんな時間か。どうぞ、入ってくれ」
課長の言葉に人影が揺れて、ドアが開いた。
意外に小柄な女性が現れた。いや、基準では多分普通なのだろう。ここに採用されている女性隊員がことごとくモデル並みの身長をしているせいでそう見えるようだ。
肩に届くか届かないくらいの黒髪と黒曜石のような瞳。いまどき珍しく純日本人かもしれない。
「おはようございます」
「こちらへ」
小さな顔がやや緊張感で強張っている。
「自己紹介を」
「はい。唐沢真衣です。以前は看護師としてADMホスピタルで勤務していました。このたび国際軍看護師資格を取り、こちらでお世話になることになりました。足手まといだと思いますが、1ヶ月よろしくお願いします」
「はーい、しつもーん」
女性隊員が陽気に手を上げた。
「唐沢ちゃんは純日本人ですか」
「あ…私は厳密に言うと違いますが、直系はそう言われています」
「へー」
「こら、サカキバラ」
課長はひとつ咳払いをしてからサカキバラと呼ばれた女性隊員を指し示した。
「とりあえずもう一人のやつと交代でついてくれるやつだ。サカキバラ、頼むぞ」
「ハイ、喜んで」
「ところで、もう一人のやつはどうした」
「あー、あいつは今日はフレックスで〜」
「なんだそりゃ。来たらおれのところへ来るように言っておいてくれ。解散」
朝礼が終わり、隊員たちが散らばっていき、課内にはサカキバラと唐沢だけが残された。
「あの、よろしくお願いいたします」
「ハイ、ヨロシク、ハナキ・サカキバラです」
改めて唐沢は頭を下げた。その動作が妙に似合っていて、サカキバラは少しだけ微笑む。
「もう一人の方、いらっしゃるんですか」
「あ、ええ、そうね、夜中に呼び出しあったから、もう少ししたら出てくると思うわ」
「そうですか」
「んー、所内はそのうち覚えるでしょ。いきなりだけど、外回りでも行く?」
「はい。…大丈夫、でしょうか」
唐沢は不安げにサカキバラの顔を見つめた。
北欧系のすっきりした色白なサカキバラは、その薄茶の瞳を強く輝かせて言った。
「大丈夫!危険なところはいかないし、今日は車乗っていこう。で、ついでに外でランチもね」
そうして二人は連れ立って他の者たちから遅れながらも外へと出て行くことになったのだった。
ランチをおいしそうにほおばるサカキバラは、周りを見渡してからようやく手を付け始めた唐沢に不思議に思いながら聞いた。
「で、何で急にこっちに来ることにしたの?」
唐沢は、小さな顔に備え付けられた同じく小さな口元を開けようとして、サカキバラの顔を見た。
「あ、ごめん、どうぞ」
食べるように促し、サカキバラも続けてほおばった。
一口二口食べてから、唐沢は話し出した。
「ちょっと違う場で仕事がしたくなって…」
少しだけ憂い顔でそう言った唐沢を見て、サカキバラは興味をそそられた。
「唐沢ちゃんは運動神経がすごくいいとは言いがたいわよね。ここに入ってくる医療班の人間と言えば、現場でいち早く駆けつけられる並み以上の体力のやつか、図太い神経のやつらと決まってたんだけど、そのどちらでもなさそうだし」
パトロール中の唐沢は、決して運動神経がいいとは言いがたかった。
子どもが手放した犬を捕まえようとして転ぶし、公園では横から飛んできたボールを忠告したにもかかわらずまともに身体に当てていた。
「ああ、でも看護師としては優秀ね、十分」
通報により駆けつけた事故現場では、他の医療班員が来る前にほとんどの処置は済ませてしまった。人が変わったように手早く処置するその姿にサカキバラは半ば感心すらしていた。
「で、その心境の変化は何があったの?」
半分ほど食べたランチを見つめながら、唐沢は話した。
サカキバラは話を聞きながら、意外にもその小さな口に運ばれたランチの早さに少々驚いていた。いつ何時呼ばれるかわからない者の特技であるはずの早食いが、見た目おっとりした唐沢にもちゃんと身についていたことに。
話を聞き終わり、ともにランチを平らげたサカキバラは、この少女のような唐沢がすっかり気に入ったのだった。見た目だけで判断するのはよくないことである、という教訓を思い返しながら。
ランチも終えて、今度は所内で資料を見せながら説明しているところへ、すかした男が一人入ってきた。
唐沢はまだその男に気付かずに資料をめくっている。
「あ、唐沢ちゃん、もう一人の相棒を紹介するわね。相棒と言ってもただ一緒にパトロール回らなけりゃいけないってだけで、基本いつも一緒にいるわけじゃないから大丈夫」
そういう前置きでサカキバラが紹介したのにはもちろん理由があったのだが、紹介されたほうは随分と回りくどい牽制をされたな、と少々訝しげにサカキバラを見た。
「ほら、漆原」
サカキバラの声がけに唐沢ははじかれたように顔を上げた。
「久しぶり、唐沢さん」
「う、…漆原く…ん…!あ、え、お、お久しぶりです」
そのうろたえようと声をかけた漆原の妙に機嫌のよさそうな顔を見て、サカキバラはまたもや興味を引かれた。
「知り合いだったの」
「高校まで学校がずっと一緒だったんだ。飛び級もほぼ同じで」
どう見ても唐沢の顔が引きつっている。その顔は明らかに、どーしてここに!と訴えている。
「ふーん、漆原、あんた、知ってて黙ってたわね」
「あ、いや、驚かせようと思って。だって、唐沢なんて漢字名、そうそういないでしょ」
「男嫌いの唐沢ちゃんに何かしたら、あたしが許さないわよ」
「男嫌い?」
そう問いかけられて、唐沢は思わず後ずさりする。
「えーと、ちょっとした…」
目をそらしつつ、言葉を濁した。
「そういうわけだから、あんたは必要以外あまり近寄らないこと」
漆原は何も言わず唐沢の横顔を見て肩をすくめた。
一目散にトイレに駆け込み、意味もなく水道の蛇口に手をかざす。水がちょろちょろと流れ、とりあえず手を洗ってみた。水の冷たさは少しは冷静にしてくれたが、とても動揺を抑えきるまでにはいかない。
「うわー、どうしよう」
思わず独り言がでる。
「なんで今頃顔を合わせるんだろう」
唐沢にとっては、漆原はただの同級生とは言いがたい男だった。
なんと言っても中学から高校までの飛び級の三年余りをライバルとして過ごし、かつ片思いしていた挙句に失恋した相手なのだから。
唐沢はその名が示すとおり、日本人の中でも直系により近い人種であり、この閉鎖的だった島国においても混血が60パーセント近くを示す現代においてはなかなか注目すべき人間だった。
同じく同級生にもう一人同じように見られている存在、それが漆原だった。
「何で平気な顔して現れるんだろう」
そこまでつぶやいたとき、唐沢はかつて漆原と関わったさまざまな出来事を思い出した。
漆原も飛び級で卒業するくらいなので決して頭の悪い男ではない。加えて言えば、顔も悪いわけではない。世間一般からみれば十分よいほうの部類に入るが、凄くいいわけでもない、と唐沢は思っている。
どちらかといえば性格はひねくれている、と唐沢は過去の出来事から判断する。
「就職先を知っていたら転職しなかったのに〜」
誰もいないトイレに唐沢の声は細々と響いた。
午後の仕事は所内で済む仕事ばかりなので、サカキバラはこのまま唐沢を適当に休ませつつ終了を待とうと思っていた。
「所内は案内した?」
サカキバラに聞きつつ、手元の資料をめくっている漆原。
サカキバラはその首元をつかむと言った。
「あんたたち、何かあったでしょ」
「何もない」
「へー」
「飛び級で一緒だったから、ライバルみたいなもんかな」
「ふーん」
その簡単な説明を全く信じてないわよというアピールをして、サカキバラは手を離した。
「どう見ても唐沢ちゃん動揺しまくってるみたいだから、案内は不要。明日からのパトロールまで猶予をあげなさいよ」
「ハナキさんがそう言うなら、そうしますか。それじゃ、また明日から」
そう言うと、漆原はまた音もなく去っていった。
程なくして唐沢が戻ったが、漆原がいないのを見てあからさまにほっとした様子だった。
「漆原は明日からにさせたから。何かわだかまりがあるなら言ってちょうだい。漆原のやつは飛び級で一緒のライバルって言ってたけど」
「ああ、そうですね。そんな感じです」
少々上の空でそう答えてから、唐沢は再び書類に目を落とした。書類を読み始めた唐沢が真剣な顔つきに戻ったのを見て、サカキバラはそれ以上追求するのをやめた。いずれ事情をもわかるだろう、と。
(2010/07/27)
To be continued.