救急外来に着いてから気づいた。
唐沢は自分の足元を見て「うわー」と思わず声を出した。
先ほどまでの華やかな会場から離れた場所で、場違いなドレスを着て、ストッキングも破れたヒールもない足で立っている自分。
毒物を含んで自殺を図った犯人を搬送したのは、つい先ほどのことだ。
とっさに持っていたアナフィラキシーショックに使う注射器を注射したが、どれほどの効き目があったのか。
救急治療室ではかろうじて保たれていた心拍が間遠になっている音がする。
だめかもしれない。
唐沢はとっさの行動も無駄に終わりそうな出来事を思い出していた。
自分のしたことを振り返ることは大事だ。二度と同じ失敗をしないように。
そう思っても、それでも振り返ることが苦痛なことは間違いない。
自分の処置は適切だったろうか。
他に何かできたんじゃないだろうか。
他に医師はたくさんいたものの、医師免許を持っているから処置できるとは限らない。
それこそ救急現場を経験した者でないと、臨機応変に対応できるものでもない。
ましてやあの場には救急バッグも何もなかったのだ。あったのは、唐沢の持っていたアナフィラキシーショックに対応するための注射しかなかった。それも偶然だ。
ああいうパーティ会場では、思わぬ食材でアレルギー症状を起こす人を見てきた。ゆえにあらかじめ申請して、注射のみを携帯することを許されたのだ。
間遠になっていた心拍音が途切れた。電子音が微かに響く。
蘇生は多分無理だろう。
いつもの救急バッグを持っていたからといって、犯人が助かる保証はなかった。それは断言できる。
あれは、毒物反応だった。
どこかに隠し持っていた、もしくは口内のどこかに仕掛けていた毒物を服用したのだから、唐沢の落ち度ではありえない。
どちらかと言うと、今回の人質騒動は、ボディガードについていた隊員たちや犯人が毒物を含んでいるかもしれないと予想できなかった者たちの落ち度となる。
これはかなり痛い減点に違いない。何人かの隊員の配置が変わってもおかしくないくらいだ。
それを思うと唐沢は胸が痛んだ。
犯人とは言え、一つの命が失われたことにも。
もちろん凶悪犯は許されるべきではない。
死刑廃止論者でもないが、助けるべき立場にいる身としては、人の命を奪うのは良しとしない。
ただ、こういう組織に入った以上、簡単に人の命が奪われてしまう可能性も当然想定していたし、命を軽く扱う犯人がいることも承知ししていたのだ。
黒幕をあぶりだすためにも、できることなら犯人の命は助かってほしかったところだ。
救急外来の椅子で座り込んでいたら、そばに誰かの影がかかった。
足元に唐沢の脱いで置いてきたはずのヒールが置かれた。
ことりと音を立てて置かれたそれは、何だかひどく場違いで、自分が裸足だとわかっていても履くのをためらわれた。
「何なら、履かせてやろうか」
そう言って優しげな口調でひざまづいたのは、漆原だった。
片手でヒールをつかみ、手を差し出す。
「どうぞ、お姫様」
「…やめてよ、ふざけないで」
ストッキングも破れてぼろぼろになった足を差し出す勇気は唐沢にはなかった。
「じゃあ、おぶってあげようか」
唐沢は漆原を見た。冗談めかした言葉の割に顔は真剣だった。
「それも嫌」
それだけ言って視線を下げる。
多分今自分は情けない顔をしているに違いない。
漆原の嫌というほど優しげな顔を今は見たくない。
「…戻ろう」
ほら、といった感じでヒールを目の前にもう一度揃えてくれた。
そっと足を入れると、少しだけほっとした。
何もなければ人を助けることもままならない。
「唐沢さんの役目と俺の役目は違う」
心を読まれたかのように漆原が言った。
「次に生かせばいい」
唐沢はようやく顔を上げた。
さり気なく手を出されて、思わずその手をつかんで立ち上がった。
それは十分わかっている。
わかっているけれど、と唐沢は思う。
「車を待たせてあるから」
「ありがとう」
「しっかし、誰もいねーのな。普通あれほどの事件の犯人の生き死になのに」
「他に共犯者がいるからでしょ。手薄なのも囮かもしれないし」
「ならなおさら。何で唐沢さん一人なわけ」
「先ほどまではいたの。電話が鳴って、外へ出ていったみたい。ほら、ここは禁止だから」
「まあいいや。俺が送る権利もらったようなものだし」
その物言いに唐沢は曖昧に微笑んだ。
ちょうどこの治療エリアから出ようとしたときに、ようやくこの犯人に対処するための人員が戻ってきた。
そこで遠慮なく唐沢は簡単に報告だけして帰ることにした。この場違いなドレスを一刻も早く脱ぎたかったのだ。
唐沢を立ち上がらせてから、そのまま手を握ったままでいようと思ったところ、この場を仕切る所員が戻ってきた。
唐沢はするりと握った手を放し、その所員に報告しに行ってしまった。
捕まえようとしてもなかなか捕まえられない。
弱みを見せるかと思えば立て直した。
先ほど声をかけた時には泣くかと思ったが、唐沢はやはりそんなやわな女ではなかった。
自分一人で唇をかみしめて、漆原の手だけをつかんで立ち上がった。
それは文字通りの比喩ではなく、きっとこの先もこうやって甘えることを極力抑えて自分で立ち上がっていくのだろうと思われた。
それは学生時代に見ていた唐沢の姿勢そのままで、漆原は苦笑して唐沢の後をついて歩いた。
危なっかし気にヒールで歩いていく。どうやらこういう格好は苦手のようだ。
もちろん転びそうになったらすぐさまこの腕に抱きかかえるくらいの余裕はあるが、転びそうで転ばない。
そんな背中を見ていたら、学生時代を思い出した。
背筋を伸ばして廊下を歩いていく唐沢を見送ったこともある。
その品行方正ともいえる姿勢が漆原には少しだけ苦しくて、うらやましかった。
いつだったか、唐沢が一人で資料を探して棚の前にいた時、高いところにある本が取れなくて苦労していたことがあった。
もちろんそれは漆原なら楽に手が届くのだが、唐沢には少々無理な位置で、どうするかと見ていたことがあった。
普通の女なら、見渡して取ってと頼むだろう。
唐沢もそうすれば早いのだ。
近くでいつ声をかけられるかとちょっと意地悪気に見ていた漆原もいたのだから。
しかし、唐沢は資料室の奥にある脚立を見つけて苦労して引っ張ってきた。
ああ、そういうやつだよな、と見ていたら、今度は見るからに危なくて目が離せなくなった。
脚立に乗る、本をつかんだ。そこまではいい。
ところが本はかなりぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、唐沢の非力さではかなりの力で引っ張らないと本が取り出せなかったのだ。
脚立の上で力を入れる女。
危なくて見ていられなくなった。
案の定近づいたところで脚立から落ちそうになっていた。
危ういところで受け止めてみると、ホッとしたと同時にあまりの華奢さに驚いた。
唐沢は所内で言われているほど小さくはない。
漆原から見ると小さく感じるが、日本人女性の平均的な身長だと思われる。
もちろんそれまでも何人かの女と関係を持ったこともあるので、唐沢が特別華奢なわけではないと頭ではわかっていた。モデルをしているという細い女もいたし、もっと小さい女もいた。
唐沢は自分の所業に驚いた顔をしてから、更に漆原に助けてもらったことにさらに驚いていた。
「あ、りがとう」
驚いたまま、なんとか声を絞り出したようにお礼を言った後は、強張った顔をして急いで離れた。
思えばそれがなんだか悔しくて、もやもやとしたまましばらく引きずることになった。
今までの自分の所業と意地悪のせいなのだと気付くには、マツオカの助けが必要だった。
別に触っただけ妊娠するわけじゃないぞ(いやそもそも避妊はほぼ完璧だ)、と言い訳したくなったのを覚えている。
そして今思えばバカなことに、その後のもやもやが何なのか解明しないまま、他の華奢だと思う女を抱いてみたことだ。結果として、全く面白くなかったのだが。
やはり何かが違う、想像と違う、という事実に何が違うのかとしばらく考えたくらいだ。
もちろんその所業を聞いた(聞かされた)マツオカには、思いっきり顔をしかめて「バッカじゃねーの」と言われてしばらく口をきいてくれなかったのだった。
ちなみに学生最後の学年なので、この時点で親しくしていた友人付き合いは、年上ながらマツオカと同じく飛び級の唐沢だけだった。マツオカもそこそこ飛び級だったので年が近い、というのもあった。
これはマツオカに確認していないが、実はマツオカも学生時代は唐沢のことが気になっていたのではないかと思われる。そうじゃなくても、少なくとも漆原よりは余程唐沢の味方だった。
何せ唐沢から相談なんて受けたこともないしな、と唐沢の背中を見ながら心の中で愚痴った。
確かに学生時代の漆原は、今思い出す限りでも唐沢に関して言えばバカな所業ばかりだった。
ゼロから始めるどころか実はマイナスじゃないのか、と考え直した。
いや、唐沢はあの所業の漆原がなぜか好きだったらしい。これはとりあえずマイナスを埋めるポイントに違いない。
いったいどこが良かったのか。
顔か頭か、まさかあの意地悪だとか?
まあまあ顔が良くてよかったと言うべきか。その点は親に感謝すべきか。
などと日頃うっとおしくて避けている家族にすら感謝してもいいと思ったのだった。
漆原が後ろで笑っている。
唐沢は不格好に歩く自分が滑稽なことは十分承知していたが、笑われるのはあまりうれしくない。
こんな格好になったのは、仕方がないこととは言え、早く車に乗ってしまいたいと切実に思った。
病院の外に出ると、車が待っていた。車の中には珍しく運転手を買って出たらしいサカキバラがいた。
「サカキバラさん、ありがとうございます」
そう言って唐沢は車に乗り込んだ。
「どうだった」
その問いには少し強張った顔のまま首を横に振った。
「そう。申し訳ないけど、今から事情聴取」
「はい」
「共犯者が見つからない」
「どうやって招待されていたのかも?」
「場内は厳重な招待者名簿管理の元に出入りが許されていたはずなのに、いったい誰があいつを入れたのかわからない。そもそも招待されていたのかどうかも不明」
「個人の恨み、とかではなく?」
「それなら話は早いんだけどね」
サカキバラがエンジンをかける。
「だいたいあんな発表会、一般人が狙うわけないでしょ」
漆原も反対側から車に乗り込みながら言った。
「こちらとしては変なことが起きなきゃそれでいいわけで」
サカキバラはそう言って車を発進させた。
「一度ホテルに戻って着替えて、引き払いはあたしたちに任せて、唐沢ちゃんは所へ直行。当分拘束されるけど、お腹空いてない?」
「大丈夫です」
その後は無言のまま車はホテルに着いた。
ホテル内はいまだ所員たちでざわついてはいるが、表面上はよく見ないと一般客に混じっていてわからない。
何か大きなパーティでもあったんだろう、というくらいのものだ。
漆原は当然のように部屋の前まで行くエレベータに一緒に乗り込んできた。
「前も言ったと思うけど」
エレベータの前を見ながら漆原が話し出した。
「唐沢さんが、そうやって一人であれこれやるのを見ていたことがある。誰の助けも借りようとしない。真っ直ぐで、うらやましかったり、負けたくないと思ったり。だから余計に意地悪だったかもしれない」
ああ、そんなものかもしれない、と唐沢は思った。
同じようにどんどん進んでいく漆原がうらやましかったり、負けたくなかったり(もちろん運動面では無理だったが)と余計に一人で何でもやろうとしていた。
「でも、よかったらさ、俺にも弱音、吐いてよ。笑ったりしない、約束する」
真剣に言ったことに対して、意地悪されたことは確かに、ない。
不意に助けてくれたりしたこともちゃんと覚えている。
再会してから、最後はちゃんと助けてくれるだろうと無意識に思っていた気がする。
唐沢は漆原を見た。
「…また」
漆原が唐沢を見た。
「また、ちょっと立てなくなったら、手を貸してくれる?」
「もちろん」
「でも、甘やかさないで」
「…俺は甘やかしたいけどね」
「立てなくなったら、困る」
「そうしたら、おぶるよ」
唐沢は微笑んだ。
おぶってと言えば、本当に今からでも軽々と持ち上げるだろう。そういうことのできる人だ。
でもそれは今は遠慮したい。
チンと軽やかな音を立てて、エレベータが目指す階で開いた。
唐沢はエレベータを降りたが、漆原は「俺も自分の荷物持ってくる」ともう一つ上の階に行ってしまった。
唐沢は自分の部屋まで行くと、少しだけ警戒しながら部屋を開けた。
何もないと思いつつ、漆原に言われたことを守るようになった。もうただの看護師ではないのだとつくづく今日は感じたのだ。
そうして部屋で着替えを済ませて、すっかり引き払う準備ができた頃、部屋のインターフォンが鳴った。
「はい」唐沢は返事をしてドアに近づいた。
(2016/09/30)
To be continued.