レストランを出ると、寮までの道を漆原と歩くことになった。
お互い沈黙しているのは、どうしても話題は告白の返事にならざるを得ないからだろう。
「漆原くん」
いつまでも沈黙していても仕方がないので、唐沢は思い切って声をかけた。
かなり黙々と歩いていたせいか、既に寮まであとわずかな距離だ。
「あのね」
話しかけた途端、漆原の足が止まった。
仕方がないので唐沢の足も止まる。
「あの、私、凄く考えたの」
どうしてもうまく言葉がつなげられない。もしかしたら自分が告白したときよりも難しいかもしれない、と。
「今はまだ、好きとは言えないの」
「…まだ?」
問いかけられた言葉をあえて無視して話を進める。
「でも、嫌いじゃないの」
「…ああ」
「だって、まだ再会して1ヶ月でしょ。学生のときの気持ちと混同するの、嫌なの」
ここまでは何とか言えた。
「勝手だけど、もう少し、時間が欲しいの。
もう一度、ちゃんと漆原くんのこと見るから」
「もう一度見てくれたら、待ってみたら…俺のこと、好きになる可能性はある?」
まともに目が合い、そらせないまま迷った挙句答えた。
「ある、かもしれない」
唐沢が何とかそう声を絞り出すと、漆原は心底ほっとしたように息を吐いて笑った。
「…ありがとう」
少なくとも、今は嫌いじゃないとしか言えない。あまりにも勝手ない言い草かもしれないが。
それでも、唐沢にとっては今これが精一杯の答えだというのがわかってもらえたようで、ようやくほっとして、漆原に笑顔を向けることができた。
しかし、その笑顔もすぐに押さえ込んだ悲鳴とともに引っ込んだ。
「ひゃ…ちょっと、漆原くん」
夜だということもあり、何とか悲鳴は押さえ込んだ。こんな住宅街で悲鳴を上げたら、それこそ通報されかねない。
何を思ったのか、漆原が思いっきり唐沢を抱きしめたからだ。
「だからと言って…やりすぎ!」
聞いているのかいないのか、漆原はすっぽりと包みこむように抱きしめてなかなか放さない。
「ちょっと、漆原くんったら」
唐沢の細腕で漆原の胸を思いっきり押し、何度か叩いてみてからようやく漆原は我に返ったようだった。
「お願いだから放して」
そう言ったら少しだけ緩められた腕を抜けようとしたが、漆原はまだ放さなかった。
「ごめん」
笑って反省のない顔で言う。
「そう思うなら、もう放して」
「うーん、キスしたら怒るよね」
上の空のように漆原がつぶやいた。
「声に出てるし」
「あ、やっぱりダメか」
唐沢はため息をついた。そう言えば、手が早いとか何とか…言われていたっけ?
「そんなの反則でしょ。待ってくれるんじゃないの」
「うん、待つよ」
言葉とは裏腹に、少し離して唐沢の顔を覗き込む。
「言ってるそばからそんな顔で迫らないで」
漆原に対する気持ちがあやふやだとわかっていても、さすがに心臓がもたない。
何だかんだと言ってもこれで顔は良くて、女に対してはスマートで、何故だか今は色気全開で迫ってくるのだ。
普通の女ならとっくに落ちているかもしれない。
しかも多分これで漆原本人は自覚がないんだろうと思われた。
多少免疫があったのが幸いしたのか、完全によろめく前に何とか唐沢は立ち直った。
今はまだ流されるわけにいかない、と。
だから、赤い顔をしながらも目一杯怒った顔をして睨みつけた。
漆原は唐沢の怒りを感じ取ってさすがにまずいと思ったのか、先ほどまでの抱擁は何だったのだろうと思うほどあっさりと解放した。
それでも何事か思うのか、両手を上に挙げたままだ。
「ごめん」
「…サカキバラさんの言うとおりになっちゃうじゃない」
「え、ハナキさん」
「…もう知らない」
そう言って寮への道を歩き出すと、漆原は後をついてきた。両手は下ろされ、ポケットの中に突っ込んでいる。
漆原は後ろで何かぶつぶつとつぶやいている。
はっきりとは聞き取れないが、何か言い訳めいた言葉のようだった。
「しばらく近寄らないでください」
振り向いて漆原にそう言うと、抗議するかのように「えー」と言って黙り込んだ。
今頃飲んだくれているであろうコンドウとサカキバラを思い出した。
きっと今日のこの返事云々話を二人の酒の肴にでもされているかもしれない。
それに加えて今日のこのことを知ったなら、当分言われ続けるだろう。
あれでサカキバラは面白いことには目がないのだ。
コンドウはセクハラ防止に役立ってくれるかもしれない。
唐沢が、まだ少し不満そうな漆原を振り向くと、目が合った途端に表情が変わった。
唐沢がまだ慣れない、あの何とも言えない優しい顔だった。
この間までの不機嫌さはどうしたのかと問いただしたいほどのにやけた顔は、よくよく見ると、もしかしてこれはよからぬことを考えている顔なのかもしれないと思い至った。
辞令内容を言おうかと思っていたが、これは黙っているに限ると即座に判断した。
頭は冷えているが、まだ心臓のドキドキは治まっていないからだ。
いくら迂闊な唐沢とて、仕事以外で抱きしめられることにさほど免疫はない。
しかも今回は嫌いではない漆原だ。
あまり近寄ってほしくない男たちでは逆に冷静になれるが、まだそこまで漆原に対して判断をくだせない。何せ学生時代の気持ちが残っているからだ。
寮への門をくぐる前に漆原が言った。
「明日は…」
明日?と唐沢が首を傾げると、そう言えば明日から配属が変わるんだったと思いだした。
「いや、配属が決まったら教えてくれ。それから引越しのときとか」
もう決まっているけれど、と声に出さずに答える。
「…メールくらい、返事くれよな」
「…うん」
あまりに真剣な顔でそう言うので、唐沢は少しだけ良心が痛んだ。
もちろんメールくらいは返そうと思っている。まだちょっと個人的な付き合いはできないけれど、と。
「じゃあね、また」
背中に漆原の視線を感じながら寮の門をくぐる。
完全に寮の中に入るまで、漆原は見守っていたようだった。
「明日になればわかるから…いいか」
靴箱に靴を放り込みながら、唐沢はそっと微笑んだ。
* * *
あまり飲まなくて正解だった、と漆原は思いながら出勤した。
あれからどうにも眠れずにいたので、家で少しだけアルコールを追加した。
それは主にさみしさだったり、うれしさだったり、男の事情と欲求不満だったりしたのだが。
あれ以上飲んでいたら、間違いなくうだうだと一晩飲み続ける羽目になっただろうと思う。
同じく飲み続けたであろうサカキバラとコンドウは、そんな素振りも見せずにただ眠そうな感じだけで、元気はある。
一緒に酒を飲むと酔いつぶされる可能性があるので、いつも二人と飲むときは早々に引き払うようにしている漆原だ。
机に荷物を置いてすぐ、そう言えば配属はどうなったのだろうと、漆原は所内の掲示板に急いだ。
ところがそこには貼ってあったと思われる辞令内容がきれいにはがされている。
「何でだ」
思わず出た言葉に誰も答えない。
廊下を振り返って誰かに聞いてみたかったが、誰も漆原と目を合わせない。
もう一度声が出た。
「誰が」
変わらず廊下は静まり返っている。これだけの人がいるのに、と漆原は思う。
課に戻って全員が集まって朝礼が始まっても、誰も辞令の話題は出さない。というより、見た人間はいるのかと疑問だ。
最低限課長は知っているだろうが、聞くのも躊躇われた。傍でサカキバラがにやにやしているからだ。
いや、別に唐沢に対する気持ちを知っているのだから、聞いたことをからかわれるくらいどうってことはないのだが、昨日の話を蒸し返されるのはあまりうれしくない。
きっとサカキバラは爆笑するだろう。
それがわかっているから、とりあえずどこからかばれるまでは黙っていようと思っている。
「パトロール行きます」
「はいはい」
サカキバラは楽しそうに笑っている。
今日の担当地区は遠い。車の中で何を言われるか、だ。
車で担当地区を流していると、無線で近くの店舗で発砲事件が発生したとのことだった。
「何で発砲。どこの馬鹿が」
一向にしゃべろうとしない漆原の追求に疲れたサカキバラは、後ろの座席でぐだぐだと寝転んでいる。考えてみれば寝不足だったのだ。
そもそも滅多に発砲事件など起きない。原則日本では一般市民が銃を持てない。これは移民が多くなろうと、国際社会になろうと守り続けた日本としての矜持だった。
昔ほど安全でないのは確かだったが、普通の強盗が銃を持っている心配もしなくていいし、夜道で銃を突きつけられることはほとんどない。
もちろん原則なので、一般的でない人間が持って暴れることはある。
「どこかのチンピラか、不良少年か、偶然手に入れちゃった系だったら楽なんだけどな」
そんな呑気なことをサカキバラが言っているうちに続けて無線が入る。
『薬中の可能性あり。…田隊員負傷…』
無線の入り具合がいまいちだったが、誰かが負傷したのはわかった。
取り押さえようとして失敗したか。
「飛ばせ、漆原」
サイレンを鳴らし、道をすり抜けて事件現場に急行した。
他の隊員も集まり始めた頃で、商店街の真ん中で暴れている男が見てとれた。
「ちょっと、誰よ、興奮させたやつ」
サカキバラが呆れて舌打ちする。
「今流行のヤクっぽいですね。あのすぐ興奮状態になるやつ」
他の隊員がサカキバラを見て言う。心なしか少しほっとしている。
「それなのに銃を持ってるってか?あいつの周りには馬鹿しかいないのか」
負傷した隊員は薬物中毒で興奮状態の男のすぐ傍に倒れている。
「おいおいおい」
漆原は車から降りてきて状況を確認する。今すぐに負傷した隊員だけ運び出すのは不可能な状態だ。
無線から指示が出る。
『いけるか、サカキバラ、漆原』
「行ってみましょう」
サカキバラが興奮している男にゆっくり近づくと、「さあて」と笑って上着を脱ぐ。
普通の女よりたくましいには違いないが、あくまで筋肉質の均整の取れたプロポーションだ。
男が一瞬そちらに気を奪われている隙に漆原が負傷した隊員を助けに近寄る。
もちろん興奮状態なので銃口はすぐに動いた漆原に向けられた。
しかし、その隙をサカキバラが見逃すはずがない。
一気に男に近づく。
一度漆原に向けた銃口をサカキバラに向け直し、また発砲した。
至近距離だったが、狙いの定まらない発砲にサカキバラが躊躇することもなく、あっという間に銃を持った手を叩き落とし、逆の手で一撃を食らわせると、男は崩れ落ちた。
薬物の効果か、そのまま落ちることはなかったが、少なくともサカキバラの確保で男がこれ以上暴れることはできなくなった。
「あっぶねー」
漆原は思わずそう言うと、「そっちに向けて発砲させなかったんだからヨシでしょう」とサカキバラに睨まれた。
「いや、危ないでしょう」
「たかがナイフで身を切られるどっかの誰かさんとは違って状況くらい見てるわよ」
前日のナイフで負傷を揶揄しているんだろう。
「ああ、すいませんね」
何にしてもサカキバラにはかなわないのだから、黙っているに限る。
男が確保されてからどこからか現れた医療班に負傷した隊員を渡す。
前回の失態を経て、犯人確保がなされないうちは、現場に出ないようになったらしい。
漆原は息をついて医療班の治療を眺めた。
やけに小さい女が道具を持って移動している。どうせ持つなら別の頑丈そうなやつが運べばいいのにと思った…が。
その瞬間、漆原は自分の目を疑った。
「はぁーーーーーーー?!」
その現場の空気を読まない大声は、全ての医療班を振り向かせた。さぞかし近所迷惑だったことだろう。
「か、唐沢?」
「うるさいっ、漆原」
サカキバラの怒号が飛ぶ。
「何でいるんだ」
漆原のあっけにとられたような声をものともせず、医療班としてやってきた唐沢は自分の仕事をこなしている。
「何でって」
薬物中毒男を他の隊員に引き渡したサカキバラが漆原の後ろにやってきた。
「そりゃ東海支部に配属されたからじゃないの」
「…ここに」
「うわ、やだ、漆原。あんたなんて締まりのない顔よ。きも〜い、さいてー」
漆原はサカキバラの暴言にもめげず、「これはやばい」とつぶやいた。
何が本当にやばいのか、言った漆原も意識していないが、とにかくうれしいことは確かだった。
医療班が引き上げる段階になって、唐沢に近寄ると、唐沢は微笑みながら(しかし眉間には若干しわを寄せて)「それ以上は近寄っちゃダメです」と言ってのけた。
「え、それはきつい」
「昨日の仕返しです。そのやらしい顔をしなくなるまで、ちょっと近寄らないでくださいね。お陰で昨日眠れなかったんですから」
「や、やらしい…」
呆然と漆原が言うと、サカキバラが漆原の顔を見て言った。
「うわ、ほんとうにやらしい」
「え、ちょっと、そんなわけ」
「じゃあ、サカキバラさん、また後で」
「はい、じゃあね〜。あ、これのことは気にしなくていいから」
漆原が顔を撫でている間に医療班は戻っていった。
「…あんた、唐沢ちゃんにここまで言われるほどいったい昨日、何したのよ」
「何って…」
ちょっと抱きしめたくらいじゃないかと反論しようとして、一応寸でのところで口を閉じた。
「しかもやらしい顔って…ぶははははは」
結局サカキバラは爆笑している。詳しい事情も知らないはずなのだが。
思いっきり笑われて、帰りの車の中では久々に不機嫌面だった。
この後、しばらく漆原は何度か鏡で自分の顔を見たが、どうがんばっても唐沢のことを考えるだけでにやけるためか、ため息が出放題だった。
つまり、これが唐沢の言うやらしい顔なのかと思うと、確かに締まりのない顔だとは思うがどうしようもない、と鏡に向かって八つ当たりをした。
それもまたサカキバラのからかいのネタになったのだが、何度挑戦しても唐沢からの接触オッケーが出ず、漆原の機嫌があまりにも悪くなったため、周りの人間から懇願されてようやく立ち話程度なら許可が出たというのは、そう遠くない話だったという。
(2013/07/18)
Fin