パトロールはお静かに








「大丈夫か、唐沢」

 それまで、再会してから普段はさん付けで呼ぶようになっていた漆原だったが、ごくたまに呼び捨てにした。
 それは決まって漆原の平常心がなくなっているときが多い。漆原自身が気づいていないのだから指摘しても仕方がない。
 唐沢は黙ってうなずいて漆原を見た。
 そこであっと声を出す。
 先ほど男を確保したときだろうか、漆原の腕が切られていた。
 結構丈夫そうな隊服だと思うのだが、しっかりと漆原の腕を傷つけている。
 たいしたナイフじゃないと思ったが、こうまできれいにすっぱりと切れていることを考えると、いかに自分が無謀なことをしたのかがわかる。
「あの、ありがとう」
 唐沢がお礼を言うと、その視線に気づいたのか漆原がため息混じりに言う。
「無茶しすぎ」
「うん、ごめんなさい」
 そう言って漆原の腕を取る。
 漆原は驚いたように一瞬腕を引いたが、唐沢がしっかりと逃がさないように腕をつかんで「治療するから」と言ったので、おとなしくその場に立っていた。
 周りはざわめいて、まだ後片付けの最中だ。
 救出した唐沢は、とりあえず無事なようなのでといった感じで、漆原に任せられたようだ。
 治療し始めて真剣になると、唐沢は漆原が困ったような顔をしているのにも気づかなかった。
 そもそも傷に気づいた第一声が「上着、脱いで」だったりしたのは、唐沢にとって当然だったのだが、漆原はやや引き気味に「あ、やっぱり」と諦めたように上着を脱いだのだった。
 治療し終えると、周りもだんだんと落ち着きを取り戻し、係員も徐々に引き上げにかかっている。
 後の詳しい状況を調べるのは、また別の班、と言うわけだ。
 唐沢は漆原とともにサカキバラの元へ戻る。
「何ともなくて本当に良かった」
 サカキバラは心底そう言った。
「すみません、指示もなかったのに」
「いや、こちらこそ、まさかあんなところか伏兵が現れるとは誰も思っていなかったみたいだしね」
 確かに、医療班には誰も注目していなかった。というより、共犯がいたことすら知らなかったのだから仕方がない。
 そもそも最初の捜査の段階で共犯を探りきれなかった捜査班の落ち度でもあるので、これに関してはかなり痛い失態だろう。
「簡単にお手柄とは言えないわ。これに味を占めてくれちゃあ困るのよ」
「はい」
 サカキバラの苦言は痛いほどわかる。
 かなり無茶な行動だったと治療の間中漆原から説教されたのだから。
 しかし、あのまま人質になっていたら、どのタイミングで救われたのだろうと唐沢は少しだけ思う。
「きっかけは、ありがたかった」
「本当になんてくそ度胸だよ」
 苦々しげに漆原はつぶやく。
「だから、ごめんなさいって」
 もう散々謝ったが、それでも足りないのかとばかりに唐沢は謝罪の言葉を口にした。
「…もしかして、これで決まりか」
 そんな風につぶやいた漆原の心中は、そのときの唐沢にはわからなかった。

 * * *

 火炎瓶男は、そもそもその前に強盗をしてのけたやつだったのだが、何故武器が火炎瓶だったのか定かではない。
 強盗の証拠消しに燃やしてしまえという単純な気持ちだったのか。
 そんな調書をひらひらとひらめかせて、書類に飽きたサカキバラは唐沢を目で追った。
 必死に始末書だの報告書だのを書いている。
 最後の最後でこの事件とは、つくづくこの仕事に向いているんだか、向いていないんだか。
 多分研修生の中では一番の事件遭遇率かもしれない。既に最凶の人質として話題になりつつある。
 昨日まで、漆原とのことをどうするべきか散々迷っていた。
 答えは出たのか、今日は意外にすっきりとした顔をしていた。
 反対に漆原のほうは今にも死にそうな顔立ちだった。
 唐沢が人質になったときには、怒りでどうにかなるんじゃないかと思ったが、唐沢のほうが一枚上手だったと認めざるを得ない。
 何より漆原が怒りで我を忘れる前に解決に導いたのだから、それはそれで良しとしたものだろう。
 しかし、サカキバラは今でも思い出すと笑う。
 手に握っていたハサミと薬ビン。
 あまりにたくましくて笑ってしまう。
 顔をこわばらせながら、その手にハサミを握り締めて反撃の機会を窺う華奢な人質はいったい何人いるだろう。
 あまりに無謀だ。
 唐沢のキャラを見誤るほどに。
「いやー、唐沢ちゃんて、かなりいけてる」
 サカキバラは笑いながら課長に言ったものだ。
 課長は苦笑いしながら、毎回は勘弁してほしいがなと頭をかいた。
 そりゃそうだろう。
 医療班研修生にそこまでされては治安維持係の名折れだ。
「どうしたもんかな」
 課長はそう言って提出された書類を見てぼやいている。
 そちらは放っておくとして、サカキバラはとうとう書類を机の上に放り出した。
 懸念していたお見合いお嬢が、思ったよりあっさりと今回は引いたので、漆原は少しばかり油断していた。
 サカキバラにしても、医療班は車待機で問題ないと思っていた。
 何せ周りにも他に係員はいたのだ。
 誰もが火炎瓶男に目が向いていた。
 漆原だって医療班に唐沢がいなければ、共犯男に気づくのが遅れていたかもしれない。
 それでも結局は唐沢を人質にとられたのだから、気づいたからと言って何の役にも立たなかったのだが。

 コンドウはまた別の事件に呼ばれ、唐沢とのランチは流れた。
 最後の日のランチくらい美味しい店で食べたいと、以前から行こうと言っていた店があったのだが、コンドウがいないとなれば三人で行くのも少し気まずい。
 コンドウを含めた食事会はディナーに変えてもいい。
「よし」と声を出して、サカキバラはまだ後ろの自机で唸っている課長に声をかけた。
「課長、唐沢ちゃんのお疲れ様会でランチ行きましょう」
「ああ?」
 課長は突然の提案に少しだけ躊躇を見せたが、サカキバラの声で顔を上げた唐沢の顔を見ると「じゃあ、今いる係員だけだからな、俺のおごりは。それと食堂な、食堂」と首を回しながら答えた。
「ちょっとケチだけど、ま、よしとしようか。あ、漆原位は呼び出すのでおごってやってください」
「ああ、まあ、仕方がないだろう」
 何故か席を外している漆原を電話で呼び出し、サカキバラは驚く唐沢の肩を叩いて立ち上がらせた。

 * * *

 漆原のテンションは朝から下がり気味だったのだが、まさか唐沢が人質になるとは想像もしていなかった。俺も含めていったい何度課の連中の寿命を縮ませたら気が済むんだ、と。
 漆原は唐沢の後ろを歩きながらこっそりため息をついた。
 事件の後わざと席を外していた漆原だったのだが、皆でランチに行こうと誘われ、暇つぶしのようで暇つぶしに見えない所内放浪から課に戻ってきたのだった。
 順当に行けば今日あたり返事が来るかもしれないと思い、いくらなんでも迎えに行った朝っぱらから返事はないだろうと思いつつもどうしても顔を出せなかった。
 いつも自信満々だったくせにとサカキバラに言われたのだが、さすがの漆原も少し考えたのだ。
 自分の身になって考えれば、たかだか1ヶ月弱の再会程度で付き合うも何も決められないだろうと。
 返事を急ぎすぎた。もとい、告白が早すぎたというところだ。
 それでも、医療班にも所内にも唐沢を誘おうとしている男どもはうじゃうじゃといる。
 唐沢がほとんど断っていることもあってさほど目立たないが、中には本気の一人や二人くらいいるだろう。
 いきなり出てきた誰かに唐沢を奪われるくらいなら、少々引かれたって横暴だと言われたって囲い込むくらいのことはしてやろうと思ったのだからもう後には引けない。
 だから、少々作戦としては失敗したかもしれないが、後悔はしていない。
 ドサクサに告白なんてせずにもう少し落ち着いてすればよかったのだと思うことはあるが、どうしても誤魔化すことはできなかったのだから仕方がない。
 そう、つい手を出しそうになったことも含めて。
 なまじ今まで強く拒否されたことがない身の上だけに、暴走しすぎた。
 いや、もっと言うなら、あれだけ迫ってもさほど動揺が見られなかった唐沢のほうが凄いのか。
 まさかとは思うが、あれでもアピール不足とか?
 そんな葛藤を抱えて朝からテンション上げ気味に行けるやつがいたらお目にかかりたい。
 いつの間にか増えている課の連中を引き連れて食堂へ移動する。
 課長はしきりと人数を数えて「これ以上増えてくれるなよ」とぼやいている。
 食堂は相変わらずの混み具合だったが、課長が事前に電話でもしたのか、奥の一角の席がきれいに空けられていた。
「よし、食堂のおばちゃんに声かけてこい」
 課長の言葉に半信半疑な誰かが走っていく。
 程なくして食堂のおばちゃんが大皿に盛られたおかずを運んできた。もちろん声をかけにいった誰かも手に大皿を持ってきている。
 仕事中のランチでもあって、ペットボトルのジュースや食堂のお茶程度の飲み物しかなかったが、それぞれ好きな飲み物を手にして唐沢の研修を労う声が出た。
 おざなりに乾杯した後、大皿の上の料理はみるみるうちに減っていく。
 唐沢には届かない皿の料理を取ってやると、驚いたように「ありがとう、漆原くん」と屈託なくおいしそうに食べた。
 ちっ、笑わねぇなとつぶやくと、サカキバラは面白そうに漆原を見た。
「食べ物で釣られると思ったわけ」
「いや、釣られたらそれもラッキーかと」
「ねえ、どんなときよ、唐沢ちゃんが笑ったときって」
「今でも時々笑うだろ」
「笑う程度のことを言うなら、ちょっと微笑むくらいならもちろんあるわよ」
「…どうだったかな」
 何となくそう言って漆原は食べることに集中する振りをした。
 正直、どんなシチュエーションだったのか、忘れた。
 それを言うと何となくサカキバラになじられそうだったので、誤魔化した。

 食堂ランチで思ったより空腹が満たされると、課の皆はそれぞれ午後の業務に散っていった。
 さすがにそのまま午後は大きな事件もなく過ぎていく。
 唐沢は予定がずれたが医療班に行っている。
 正直医療班が普段何をやっているのかまでは知らない。
 どうやら医務室にも交代で詰めているらしいが、医務室自体ほとんど行ったことがないので、実態は知らない。
 だいたい医療班に詰めている人間が全て医師ではなく、看護師もいることを今回の研修で知ったのだ。
 その辺りは昇進試験にも出たことがないので、気にしたことがなかった。
 それにしても、医療班の人間は本当に優秀なのだと思い知った。
 事件現場の混乱の中で確実に要救護者を見分け、応急処置をして病院に送り込む。必要があれば自分もついていく。
 もちろん後から救急車は来るのだが、あくまで救急車は搬送の手段となる。
 そんなことを知ったのも、唐沢が研修に来たからだ。
 漆原は、すぐに見られなくなるであろう唐沢の姿をその空席に見て、思いを馳せた。

 * * *

 医療班から戻る途中、唐沢は思わず「どうしよう」とつぶやいていた。
 もらったばかりの辞令をもう一度だけ眺めてから、辞令を持っていたファイルに挟み込んだ。
「ま、いいか」
 先のことはわからない。
 唐沢は先の不安をそれほど重要視しない性質だった。だからこそプライベートではよく迂闊と言われるのだが。
 さすがに今日は残業もないだろう。
 最後の事件については、一応の報告を終えた。仕上げるべき書類も仕上げた。
 提出のときにさすがに係員の邪魔になるような行動は控えるようにと注意をされた。
 今回で人質騒動は二回目(前回は人質というよりは拉致)だったが、東海支部の医療班長は辞令交付時に渋い顔で前代未聞と言った。
 唐沢とて好きで人質になったわけではないし、捜査班の落ち度でもあるので、小言だけでお咎めはなかった。
 これで課に戻って帰ることになったら、コンドウの強い要望により、研修お疲れディナーが催されることになっている。
 近所の顔なじみだというレストラン集合の予定だった。
 唐沢はサカキバラたちと行く予定だったが、あちらは通常業務なので残業はどうだろうという感じだ。
 唐沢は辞令のことは言わずに最後の研修日を終えた。

 コンドウの顔なじみのレストランは、その店主云々を除けば、料理もおもてなしも十分なくらいだった。
 店主はどちらかというとコンドウと同じ範囲の人物で、どう見ても見た目は普通の男性なのだが、どうやら心は女性であるらしかった。
 そのたくましいほどの腕は、料理を作るうえで十分な力を発揮している。
 同じく下についている料理人もどうやら同じ守備の範囲で、訪れた漆原にどちらかというと熱い視線を送っている。
 サカキバラも漆原も来たことがあるらしく、店主であるシェフが挨拶に来ると、友人同士の会話を楽しんでいた。
 普段あまり飲まないワインも薦められて飲むと、なかなかふわふわといい気分だった。
 料理も食べ終え、さすがにまだ返事もしてない唐沢が気になるらしく、コンドウもサカキバラもこちらを窺いつつこの後の相談をしていた。
 コンドウとサカキバラはかなりの酒豪でもあるらしく、こんなワイン程度では物足りないとばかりに場所を変えて飲む予定らしい。
 店に来る前にさりげなくサカキバラに確認されたのはこういうことらしい。
 つまり、まだ返事をしていないのであれば、その機会はもう食事の後しかない。送り届けるのは漆原になるがそれでもいいか、と。
 唐沢はそれでもいいと答えた。
 いくらなんでもいきなりどこかに連れ込もうとする漆原でもなさそうだが、返事次第では唐沢の身は少々危ういかもしれないと警告もされた。
 それには少し戸惑って、何とかすると答えた。
 辞令についてサカキバラに言おうとしたが、「それはいい」と止められた。
 研修が終わればもういいのかと少々へこんだが、「知ってるから問題ない」とサカキバラに笑って言われて、唐沢は驚いた。
 課長はともかく、辞令は医療班の研修生の中でもお互いに教え合わない限り今日知ることは稀なのだ。
 明日になれば辞令は張り出されるかもしれないが、事前に知ることができたのはどこからか聞いたのかもしれない。…とそこまで考えたところでふと思い当たった。
「マツオカくんか」
 サカキバラは正解、とでも言うようににやりと笑った。
 人事のマツオカならば情報は届いているだろう。更にマツオカは情報通だ。
 学生の時は、年上にもかかわらず気さくに話しかけてくれる普通のいい人だったマツオカは、漆原とは気が合ったようで、結局上の専門課程に行っても友人としてつるんでいたらしい。
 漆原に告白した後に落ち込んでいたときにいたのもマツオカだった。
 それはただの偶然だったのだが、今こうしてみると、あの話題を共通で話せる存在というのはありがたいことなのかもしれなかった。

(2013/07/17)


To be continued.