パトロールはお静かに








 これはどうでもいいことだけど、と唐沢はため息をつきながら学生時代を思い返していた。
 最後まで飛び級で一緒だった漆原は、いつも女の子に囲まれていた。
 あまりそういう噂もなかった唐沢は、それを横目に見つつ、自分の想いをひた隠しにしていた。
 あるとき思い切って告白したつもりでいたのが、結局その想いすらも届いていなかったと知ったのは最近だ。
 再会してからの日々はどういう気持ちで接したらいいのかと悩む日々でもあった。
 漆原と同じ飛び級で同じ歳というつながりだけだった唐沢のことをそれほど明確に漆原が覚えているとは思っていなかった。
 それなのに聞くところによると、実は漆原も唐沢を好きだったのかもしれない、と。
 その情報をもたらしたのは、ほかでもない数少ない同級生のマツオカだった。ちなみにマツオカは同級生であるものの、歳は三つほど上である。
 今まで唐沢とて全く告白もされなかったわけでもないが、付き合うまでには至らず、お付き合い自体を経験したことがない奥手であった。
 おまけに少々男嫌いの気があった。
 いきなり間近に接近されればどうしていいのかわからない。
 それを今まさに体験中だった。

「…ねぇ、まだ出ちゃダメなの?」
 小声で尋ねると、真剣な表情の漆原は唐沢を片腕にかばったまま拳銃を抜いて、前方を注視している。
 どう見ても銃撃戦は起こっていなさそうだが、いつ何時危険が訪れるか、医療班である唐沢にはわからないのだから、従うしかない。
 ただの多重事故の報を受けて、現場近くにいた一行が駆けつけたのだが、どうやらそれは逃走犯によるものだとわかった。
 最初にサカキバラが走っていき、あとから駆けつけた班が同じように駆けていったが、漆原は唐沢を守る態勢になったまま動かない。
 もちろん物陰に控えさせられているのだから、それほど危険だとは思えないのだが、以前目を離した隙に連れ去られたことが起こってからというものの、異常なほどに過保護になったのだ。
 突然抱きかかえられて物陰に押し込められて数十分、何も先攻班から連絡がなければわからないもでないが。
 これは危険を守るためだ、他の人でもそうするだろうとわかっていても、唐沢はその腕にかばわれる自体にどうしていいかわからなかった。
 ゲームセンターでも同じことがあったが、あの時は戸惑ううちに終わってしまったのだったと振り返ってみる。
「そんなに信用できない?」
 こちらをちらりと見た漆原が唐沢に言った。
「ううん。信用してるけど、私ばかりかばわれて、どうしていいか…」
「かばうのが俺の今の仕事。信用してるなら、俺がいいと言うまで待って」
「…はい」
 唐沢はそのまままた黙って漆原の腕の内で小さくなっていた。
 もしこれが他の人でも同じことをするだろうともう一度言い聞かせていた。
 唐沢の性分からいけば、人にかばってもらうのはあまり慣れていないだけでなく、多分逆に守ってあげたいのだと思う、と。
 誰かが怪我や病気をすれば手当てしてあげたいと思ったのがそもそもの今の医療職の動機なのだから。
「俺にかばわれるの、苦痛?」
 少しだけ困ったように笑う漆原に驚いた。
「…違うの。多分私は人の後ろにかばわれたいんじゃなくて、一緒に並んで立っていたいみたい」
 こうやってかばわれて、初めて気がついた。
「だから、漆原君のせいじゃないの」
「なんだか唐沢さんらしいな」
「そう?でも、結局は自分で自分の身も守れないんだけど」
「そうだね。でも、君はいつも闘っていた気がするよ」
「闘って…?」
「うん。飛び級でからかわれたときも、俺の取り巻きから何か言われたときも」
「そんなことあったけ」
「知らないとでも思った?」
 唐沢は覚えていないふりをしたが、実際漆原を囲む女たちから少し親しげに口をきいていたことで釘を刺されたことがあったのを思い出した。
 学内でフェミニストの異名を取るほどなので、どの女にも邪険にしないその性格が勘違いな女を多数生み出していたこともあった。
「そんなの、たいしたことじゃないもの。
だって、漆原君が誰にも本気じゃないって、あの子たちだってわかっていたから」
 学生時代、漆原は本当によくもてた。
 いわゆる特定の誰かとの付き合いは避けていたようだったが、ちょっと仲良く出かけるだとか、それこそ体だけの関係も何人かいたはずだ。
 そのたびに少し切なかった気持ちは、今でも嫌というほど覚えている。
「本当は隠してたって言ったら?」
「何を?」
 学生時代の話など、唐沢は思い出したくなかった。
 飛び級にまつわるいろんな噂話に血族の話など、漆原とも話をしたことがあったが、仕事をしだしてからようやく噂話から自由になれた気がしていたのに、と。
「俺だって特別な子はいたよ」
「…そうなんだ」
 唐沢は少しだけ躊躇してそう答えた。
「今でも特別だって言ったら信じる?」
 漆原はそう言って回していた腕を上げると、唐沢の頬に手を当てた。
「あ、あの…」
 目をそらすこともできずに唐沢は固まった。
 手を払うべきか、これもかばっているうちに入るのか、動いてもいいのかすらわからずに唐沢は漆原の行動を見守る羽目になった。
 いくらなんでも接近しすぎだろうと唐沢が思ったとき、「はい、そこまで」と腰につけた無線と同時に直で声がした。
 傍にはにやにやしたサカキバラと他の隊員たちの姿があった。

「漆原〜、どさくさに紛れてくどいてんじゃないよ」
「ホント手が早いな、おまえ」
「唐沢ちゃんはいまや所内のアイドルなんだから、安易に手を出すと袋叩きの目に合うぞ」
「フェミニストの名が泣くぞ」

 次々と言われ放題に言われ、仕方なく漆原は唐沢を放した。と同時に唐沢はほっと息を吐いてサカキバラを見た。
「唐沢ちゃん、危ないとこだったね」
「…あの、事件は…」
「ああ、無事解決。逃走犯もすでに護送中」
「怪我人は」
「なし」
「よかった…」
「どっちが?」
「え?事件ですけど」
「そう?いきなり迫られて困ったって顔してたけど」
「……あの、それは」

「えーい、うるさいっ!
おまえらの誰が俺に敵うんだよ。
唐沢が好きなんだから仕方がないだろっ」

 しんとした住宅街で響き渡ったその声は、当然のことながらからかっていた者たちどころか唐沢の耳にも届いた。
「あー、馬鹿だね、あいつ。もっと賢いかと思ったのに」
 サカキバラがため息をつくように言った。
 唐沢はそのはっきりとした言葉に脳内ではパニックを起こしていたが、突っ立ったまま何も言えなかった。

「あー、おほん、漆原、仕事中は程ほどにしろよ」
「唐沢ちゃん、固まってるけど、初耳って感じ?」
「そんなどさくさに告白されてもなー」
「そうだ、そうだ、たまには痛い目見ろよ」

 他の隊員たちにそう言われても、ちっとも懲りていない様子の漆原は、くるりと唐沢に向き直ると、「そういうことなんで、考えておいて」と悪びれずに言った。
 唐沢はというと、ようやくパニックから立ち直って言った。
「それは考えておくとして、住宅街だから静かにしようよ」
 一同はとりあえずうなずいてその場を退去することにした。
 恐らく所に着く頃には、この話は尾ひれをつけて所内中を回ることだろう。
 唐沢の研修終了まであと2週間弱。
 どうやって今後を乗り切ったらいいのか、唐沢はまた頭を悩ませることになりそうだった。

 * * *

 どさくさに紛れて告白をしたその翌日、夜勤入りする唐沢を迎えるために寮の入口で漆原は待っていた。
 ストーカーじゃあるまいし、止めておけというサカキバラの忠告はきれいさっぱり無視した。
 唐沢にまでストーカー認定されては困るので、一応あらかじめ伝えておいたが、困惑した顔で「そんなことまでしなくていいのに」と言われて漆原は軽くへこんだ。
 今ならストーカーの気持ちがわかるかもと思いつつ、夏の終わりのじっとりした暑さを感じていた。
 出てきた唐沢は、漆原を見つけると小走りに近寄って言った。
「あの、今度の夜勤からは私一人で行くよ」
「うん。わかってる。俺が心配なだけだから」
「今までだって夜勤の時は一人で行き来していたんだし」
「迷惑なのはわかってる」
「…迷惑というか、ちょっと…」
「ああ、噂になってるから一緒に歩くの辛い?」
 そう言うと、唐沢は迷った挙句「うん」とうなずいた。
 彼女も馬鹿正直だ、と漆原は微笑んだ。
「あのね、それと漆原君とどうこうというのは別だと思って」
「わかってる」
「まだ私もどうしていいかわからないの」
「いいよ。返事がどっちでもちゃんと待ってる」
「ありがとう」
 そう言って微笑んでいる唐沢を見ていると、漆原は流れた歳月を思う。
 今度こそは意地悪して泣かすようなこともしないし、関係を曖昧にして別れるなんてことしてやらない、と。
 ただ、一つ問題があるとすれば自称婚約者殿のことだが、と漆原は考えていた。
 とりあえず唐沢の気持ちがはっきりしたら告げようと決めた。
 ただ、はっきりする前にどうも自分の気持ちが暴走気味なのは自覚していた。
 唐沢を守るためだと腕にかばえば、つい手を出したくなる。
 これではコンドウにセクハラだと言われても仕方がないかと思い始めていた。
 所まではほんの目と鼻の先だ。
 便利なのが唯一の利点の寮なのだから当然か。
 所内では二人きりでいることはなかなか難しい。
 あまりにも大勢の前で告白したその経緯をじっと見守らんと(煽るの間違いじゃないかと思うが)、所内ではあちこちから二人を見つめる視線を感じる。
 さすがに漆原を囲んでいた女性陣すらもどうなるか見守っているようだ。
 恐らく唐沢がどちらの返事をするか賭けすらもされているだろうと思う。
「ねえ、漆原君、婚約者、いる?」
 その場で漆原がすっ転びそうになるほど驚いた。
「…どこから聞いた?」
「どこって…課長さんから」
 あっのくそ課長〜と漆原は思わず声に出していた。
 所の入口は目の前だ。
「お見合いか何かでしょ」
「親がね」
「うん。そうだと思った」
「俺が唐沢さんに本気じゃないとでも思ってる?」
「…聞いた時は…ちょっとショックだった。
でも、それもありかもと思ったの」
「そう思ってくれるなら…」
「でも、もし、私が漆原君と付き合うって判断したとき、その婚約者と対決することになる?」
「親は諦めるかもね。
…言いたくないけど、唐沢さんだって日本人家系だから、全面的に反対はしないだろうし。
どっちにしても反対されても別に痛くもかゆくもないけど。俺が親を嫌ってるのは知ってるだろ」
「婚約者さんは?」
「…さぁ、どう出るかわかんないな、あのお嬢様は。
きっぱり断ったのに婚約者気取りだから。
もちろん唐沢さんに手出しなんてさせないけど」
「私にもそういう婚約者がいたらどうするつもりだった?」
「そんなの、唐沢さんが俺を好きなら渡さない」
「…そうか…」
 唐沢はそれだけ言って後は口をつぐんだ。
 さすがに夜の所内は外よりはひんやりとしていたが、外の静けさに比べればざわついていた。
 唐沢が漆原をただの同僚で終わらせたいのか、この先に進んでもいいと思っているのか、漆原には全くわからなかった。


 唐沢は夜勤明けの頭でぼんやりと考えていた。
 あとはこの報告書を出せば終わりだというところで眠たげに机でうつらうつらしている漆原を見た。サカキバラも夜勤だが、今は仮眠室に引っ込んでいた。
 幸い夜勤の間中たいした事件はなく、無事に過ぎた。
 それは漆原との沈黙の時間があるわけで、そのたびに漆原が気を使っているのが正直驚きだった。
 あの学生時代の意地悪は何だったのだろうと今思い返しても謎だった。
 漆原からすれば、どうやら日本人家系とは付き合わない、という信念の元、唐沢を自分から遠ざけようとした末の無意識の行動だったらしいのだが。
 そう言う割にはちょっかいをかけてきたのは常に漆原からだった気がする、と唐沢は思い出していた。
 お見合いも親に決められた婚約者もさもありなんと唐沢は納得したが、最初は婚約者がいるのに何でと思わないでもなかった。
 そのショック具合が漆原に対する気持ちなのか、唐沢にはまだ判断ができなかった。
 少なくとも漆原を嫌いではない。
 あれだけ接近されても嫌いにはなれない。
 男嫌いの唐沢にしたら、とんでもなく凄い出来事のような気がする。
 だいたい先に好きだったのは自分のほうだった。
 今でも好きかと聞かれると即答はできない。
 一緒にいてもいいとは思う。
 でも、婚約者と対決するのはどうも苦手だと敬遠する気持ちもある。
 はあとため息をついた。
 学生時代のほうがよほど勇気も決断力もあった気がすると唐沢は思うのだった。

 夜勤が明けたその足で、唐沢は近くの店に軽食を買いに出かけた。
 所内の食堂でもいいのだが、このまま寮に帰って少し眠ってすっきりさせたかったのだ。
 店で買い物をして出ると、そこにはにっこり笑った美人がいた。
 黒髪のストレート、黒い瞳のその人は、どうやら日本人系と思われた。
 見た目では判断が難しいので断言はできないが、こちらを見て微笑むその姿を見て、唐沢には何となく察しがついた。

「はじめまして。成瀬沙紀です」

 唐沢の夜勤明けの体がくらりとした。

(2012/07/29)


To be continued.