パトロールはお静かに








 数日が過ぎて、唐沢はようやく自分のペースを取り戻した。
 それがサカキバラのマンションであろうと、順応する能力に優れているためかあまり支障なく過ごしている。

「唐沢ちゃんは、意外にどこでも生きていけそうね」
「んー、そうかもしれません。新しい病棟に移ってもそれほど苦労しませんでしたし。
学生時代の飛び級が効いたのかもしれません」
「ああ、そうよねぇ。年齢も違う人たちの中にある日ポンと放り込まれるわけだし」
「最後には同級生と幾つ年が違っていたのかどうでもよくなって」
「そんな中で漆原と同級ねぇ。それはさぞかし…」
 最後まで言わないサカキバラに唐沢は笑った。
「サカキバラさん、紅茶のお代わりは?」
 紅茶のポットを手にした唐沢にサカキバラがうなずいた。
 サカキバラのマンションでの朝の風景だ。
 それまで朝も食べずに寝ていることの多かったサカキバラだったが、朝の食事は一日の大切な行事とばかりに朝食をしっかり用意してサカキバラを叩き起こす唐沢のペースに逆にはまっていた。
「いやー、一週間と言わずにずっといてもいいわよ」
 すっかりそれに慣らされたサカキバラは、唐沢を見て笑う。
「ええ、でもどこに飛ばされるかわからないですし」
 どこの支部に飛ばされるのか、それは研修が終わってからでないとわからない。
 研修中の成績にもよるだろうが、優秀であればあるほど激務の地域に送られることもよくある話だ。
「せめて東海地区ならもうけものね」
「他の地域だとわからない風習も一からですし」
「ああ、まだ田舎だと根強く血族意識も残っているかもしれないし、そんなところに飛ばされたらお見合い話も多そうねぇ」
 サカキバラが笑って言った言葉に唐沢は引きつって笑った。
 全くありえない話ではない、と。
 恨んでも呪っても仕方がない自分の純日本人という括り。
 それが今回の研修中にも嫌というほどかかわってきた。
「どっかのじじばばがうちの嫁に、とかね」
「…何とかなりますよ、多分」
「そりゃ今までだって何とかしてきたんでしょうけど、今度は更に厄介なやつがいるから」
 その厄介なやつとは、毎朝迎えに来る人のことでしょうか、と唐沢は口に出さずに問うた。
 朝食を片付け終わって出勤の支度ができる頃をうまく狙い、玄関のチャイムが鳴った。
もちろんセキュリティマンションなので玄関ドアの外にいるわけではない。マンションのエントランスの外だ。
「ああ、もう来たわね。どうやって時間計ってるのかしら。嫌味なくらい正確なやつ」
ちょうど支度ができる頃にうまい具合にやってくるのだ。
 それこそ、サカキバラが少し寝坊した朝、少し支度が遅れた日などは少し遅れてチャイムが鳴らされたりもした。
「ある意味ストーカーよりたち悪いわよね」
 そう言いつつ、マンションのエントランスに二人で向かう。
 ボディガードならサカキバラがいればいらないと思われるが、それでもしつこく迎えに来る。

「おはよう、漆原君」
 声をかけると「おはよう」とうれしそうに返す。
 この人はこんなに笑う人だったろうかと唐沢は今更思う。
「朝からうっとおしい」
 サカキバラの声に漆原はすっと表情を戻して「おはようございます、ハナキさん」と返した。
 そうやって所までの道を歩く。
 寮ほどではないが所までほど近い距離のマンションだ。他にも何人か隊員が住んでいるのを確認している。
 むしろ漆原のマンションのほうが所から少し離れているはずだ、と唐沢は思い返す。
 多分所に一度出勤した後、わざわざ歩いてサカキバラのマンションまで歩いてくるのだろう。
 返事を保留にしたまま、研修も残り少ない。
 このままとんずらしたい気持ちすらある。
 好きだとか嫌いだとか、当分いいやと思っての新天地だった。
 まさかこんなことが転がっていようとは。
 サカキバラと会話している漆原をちらりと見る。
 何度も言うが、漆原のことは嫌いではない。
 いつの間にか男嫌いになってしまったのにもわけがある。
 押せば落ちると思われていたのか、正直うんざりするほど迫られたことはある。
 そのたびに何とか逃げること成功していたが、そこに至るまでの自分の迂闊さは口にしたくなかった。
 はっきり断ったことも多いのだが、何故か相手が燃えるらしい。ストーカーっぽくなったのも実は一度ではない。大事に至らなかっただけだ。
 唐沢にしてみれば意味がわからない。
 もしかして漆原もこのパターンじゃないだろうかと疑いたくもなる。
 唐沢が逃げるから追いかけたくなったのか。
 こんなことさすがに誰にも聞けなかった。
 仕事中は全く躊躇なく男性全般に触れるが、プライベートではできれば誰にも近寄ってほしくないとまで思ったこともある。
 だから、漆原に抱きかかえられたとき、戸惑ったものの嫌ではなかった自分に驚いたくらいだ。
 慣らされてしまったのか、好意があるせいなのか、いまいち唐沢にも判断がつかなかった。
 だから、どうやって返事をしていいのかわからなかった。

 * * *

 それを聞いたとき、サカキバラはコーヒーを飲んでいた。
 唐沢が運んでくれたコーヒーを飲んで新聞に目を通していた。

「逃げるからいけないんでしょうか」

 思わずコーヒーが気管に入りそうなくらいつぼだった。
「でも、逃げなかったら困ったことになるし」
サカキバラはまじまじと打ち明けた可愛い顔をした黒髪の女の子を見た。
年齢的にはそろそろ女、でも悪くないが、形容的には女の子で十分だ。
「唐沢ちゃんはさ、結構ちゃんと断ってるし、それを変なふうに解釈する男のほうが悪いからいいのよ」
 ようやくそうとだけ言った。
 面白いネタだ、とサカキバラは思った。
 午後から唐沢が医療班に行ったのをいいことに、サカキバラは早速そのネタを同僚兼後輩の恋愛ボケヤロウに言った。

「ちょっと、唐沢ちゃんてば、あんたが征服欲で追いかけてると思ってるみたいよ」
「…何で征服…欲…?」

 くだらない話なら聞くつもりもなかっただろうに、唐沢の一言でこの男は食いついた。
「そうよね、唐沢ちゃんてあの可愛らしい顔に騙されてるけど、普段それほど笑わないじゃない。思ったよりも真面目な顔で過ごしてるし、本当に時たまいい笑顔見せるくらいで。
あんたは満面の笑顔を見たことある?」
「…そう言えば、唐沢は学生時代にあの真面目一辺倒で女たちにからかわれてましたね」
「でしょう。意外にもプライベートで思ったより笑わないのよ」
 言われて漆原は考え込んだ。
 それを見てサカキバラは笑う。
 実際に唐沢が言ったのは、断っても追いかけてくるのは、断り方が悪いせいなのか、ということだった。最終的には断り疲れて逃げるのが常だったという。
 今までの唐沢の苦労が目に見えるようだ。
 しかし、漆原を断ろうと思っての布石ではあるまいか、とサカキバラは一瞬考えた。
「だから笑わせたいとか、自分だけに笑顔見せてほしいとか、征服欲が湧くのかしらね」
「そんなこと思ってない」
 誰が、とは言っていなかったのだが、漆原は即答した。
 だからサカキバラも遠慮せずに言った。
「いいや、絶対思ってる」
「何で断言」
「だって漆原、あんた、唐沢ちゃんの笑顔見たことあるんでしょう?」
 そう聞くと一瞬だけ表情が崩れた。どうやら瞬間的に思い出したらしい。
「…あります、が」
「それ以外で、最近満面の笑顔見たことあるの?」
 今度は顔をしかめた。
「…ない」
「そうよね〜」
「だからって、何でその、征服欲とかって話に」
「だからよ。学生の時には自分から逃げたくせに、今頃になって追いかけてくるから、ムキになってるのかって思うのも仕方がないでしょう」
「そう言ったんですか、唐沢が」
「言うわけないでしょう。自分の今までの男とのお付き合い具合を振り返ったら、思うところがあったんじゃないの」
 とは言うものの、まともな付き合いはしていないようだとサカキバラは思っている。
 それでも迫られたことはあるようで、漆原に迫られても結構平然と切り返しているところを見ると、なかなか侮れない。初心そうなのに、初心のままではいられなかったというところか。
「あの男嫌いも多分追いかけられる原因でしょうね」
 しみじみと漆原が言った。
 もしも誰か一人にしかなつかないのだとしたら、それが自分であってほしいとか。
 その絶大なる特別感を狙って男は迫る。
「ああ、そうかもね。でも、だからこそ男嫌いになったんだって思わないところが男の馬鹿なところよね」
 目の前にいるやつも含めて口に出すと、さすがにわかったのか、少しうっと呻いたような声がした。身に沁みるらしい。
 同僚兼先輩の立場から見れば、漆原は十分にできるやつだとは思う。
 身のこなし、頭脳、機転、とどれをとっても申し分ない。
 加えて今まで女にだけは優しかったことを考えれば、コンドウが言うところの所内抱かれたい男ナンバー1というのもあながち嘘ではない。サカキバラはこんな男ごめんだといろいろ思うところはあるのだが。
「うって変わったように唐沢ちゃん以外の女なんてどうでもよくなったところが、あんたの詰めの甘いところよね」
「惚れた女以外に優しくしてどうするんですか」
「だから似非フェミニストって言うのよ」
「面と向かって誰も言いませんけどね」
「あー、言わないだろうね。だって、今のあんた、どこからどう見ても唐沢ちゃんにまいってるとしか見えないし、噂も回ってるだろうし」
「それでもちょっかいかけてくるって、どういう神経だ」
 それはどちらに、と言われれば、多分唐沢に対してなのだろうと理解した。
「あんたね、唐沢ちゃんに何の選択肢も与えないつもりなの。なんて横暴」
 サカキバラが呆れてそう言うと、漆原は不機嫌そうに横を向いた。
「唐沢が他の誰かにとられるのを黙って見ていろと?」
「あんたの場合はいきすぎでしょう。他の誰かを好きになる選択肢すら奪ったら、唐沢ちゃんは逃げるわよ」
「…気をつけます」
 やけに神妙に答えた。何か思うところはあるらしい。
「そもそも、返事、くれるんでしょうかね」
 少しだけ自信満々が引っ込んで気弱になった。
「さあね。一度はあんたが逃げたんだから、覚悟しておくことね。
考えてもみなさいよ。初対面じゃないとはいえ、会って一週間もしないうちに好きだのなんだの言われたって、普通なら『はあ?あんた馬鹿じゃないの』と言われたっておかしくはないわよ」
 そのまま無言で立ち去る漆原を見て、サカキバラはにやりと笑った。
 自分から好きになった初めての女、というのも本当かもしれない、と。
 漆原にそれなりに女との付き合いがあったことはサカキバラでなくとも知っている。
 それこそ学生時代のことまであれやこれやサカキバラの知らないことも唐沢は知っていそうだ。
 だからこそ、何で今更自分を、なんだろうなと唐沢が思うのも仕方がない。
 それこそ久しぶりに会って盛り上がりましたという程度では、同窓会で出来上がったカップルとなんら違いはないが、それではきっと唐沢は納得しないだろう。
 どうやら漆原なりに理由はあるようなのだが、迂闊にもそれを唐沢に言っていない気がする。
 助言してもいいが、面白いのであえて黙っておくことにする。
 サカキバラは楽しげに立ち上がった。
 マツオカのところへ行くつもりだった。
 あれ、マツミヤだったか?
 あまりにも適当に呼びすぎて、本名がなんだったのかどうでもよくなっていた。
 今ではかなり重宝する情報屋になっているからだ。
 後ろから課長が呼んだが、一切気にせずに部屋を出て行った。

(2013/06/22)


To be continued.